思わなかった場所
観客席へ続く通路から、二人の女性が歩いてきた。
一人はポニーテールで、白いトップスにジーンズを合わせている。手には、相手エースと同じ番号が入ったタオルを持っていた。
その隣にいた人を見て、僕の足が止まりかけた。
短い髪。
淡い水色のトップス。
二年前より少し大人びていたが、見間違えるはずがなかった。
向こうも、こちらに気づいたらしい。
僕と目が合う前に、彼女の足が止まった。
ポニーテールの友人が、彼女の視線を追う。
それから、僕のほうを見た。
友人が何かを尋ね、彼女が短く答える。
距離があり、言葉までは聞こえなかった。
彼女は何も言わず、僕を見ていた。
驚いているようにも、呆れているようにも見えた。
僕が今ここにいることを、どう受け取ったのかは分からない。
「行くぞ」
遊撃手に声をかけられ、僕は前を向いた。
二人はそのまま観客席へ向かっていく。
声をかける理由も、引き止める理由もなかった。
ただ、思わなかった場所で見つけた姿が、しばらく頭に残った。
*
着替えを終えると、山岸さんがメンバー表を手に全員を集めた。
「今日の打順を発表するよ」
肉屋が、いつもより少し前に出る。
聞く前から、胸を張っていた。
「一番、遊撃手。遊撃」
「はい」
「二番、布団屋。左翼」
「お願いします」
「三番、外野手。中堅」
山岸さんは一度、肉屋を見る。
「四番、肉屋。一塁」
「よし!」
肉屋の声が、室内に響いた。
「まだ名前を呼ばれただけですよ」
元四番が言う。
「四番は呼ばれた時点で仕事の半分は終わってる」
「何もしてないだろ」
「相手に威圧感を与えた」
「声が大きいだけです」
山岸さんが続ける。
「五番、元四番。三塁」
「はい」
「俺の後ろだから、楽に打てるぞ」
「肉屋さんが塁に出れば、ですけどね」
「四番なんだから出るに決まってるだろ」
「前の試合まで五番だった人が、急に四番を理解した顔をしないでください」
「お前、四番を取られたからって僻むなよ」
「一試合で返してもらいます」
「二度と渡さねえ」
「打順で喧嘩しないでください」
後輩が止めると、布団屋が眠たそうな目のまま言った。
「お二人とも打ってくれるなら、どちらが四番でも助かります」
「ほら、布団屋は分かってる」
「肉屋さんだけを褒めたわけではないと思いますよ」
残りの打順は、一回戦と変わらなかった。
六番に右翼の外野手。
七番に後輩。
八番に同期の二塁手。
九番に僕。
今日は先攻だった。
最初に相手エースの球を見るのは、一番の遊撃手になる。
山岸さんがメンバー表を閉じた。
「相手は、先発の左投手が中心だ。ただ、一人だけを見て試合をしないように」
全員が静かになる。
「野球は九人でやるものだからね。相手も、僕たちも」
相手が一人で勝ってきたチームだとしても、残りの選手が何もできないわけではない。
一人だけに意識を向ければ、その隙を突かれる。
「攻撃では、最初から答えを出す必要はない。見たことは、次の打者へ伝えること。守備では、いつもどおり一つずつアウトを取る」
「はい」
僕たちの声が重なった。
「それと」
山岸さんが肉屋を見る。
「四番は、守備でも集中すること」
「俺だけですか?」
「一番心配だからね」
「監督まで俺を信用してねえ」
「期待しているから言っているんだよ」
肉屋は一瞬だけ黙り、それから鼻を鳴らした。
「なら、任せとけ」
さっきまでと同じ大きな声だった。
けれど、少しだけ嬉しそうだった。
*
ブルペンで、後輩を座らせる。
最初の真っすぐは、構えたところより少し高かった。
二球目は、外角の低いところへ収まる。
後輩が返球しながら言った。
「力は入れすぎなくていいです」
「分かってる」
「今日は相手の球が速いので、先輩まで速く投げようとしそうです」
「そこまで子どもじゃない」
「一回戦の最初に、少しだけ力んでいました」
「あれは二年ぶりだったから」
「今日は二試合目ですね」
「そういうこと」
後輩は納得したようには見えなかったが、次のサインを出した。
真っすぐ。
速いチェンジアップ。
少し沈む球。
腕の振りを変えず、速度と落ち方を変える。
後輩は何球か受けたあと、立ち上がった。
「大丈夫です」
「肩は聞かないのか」
「投げる前から聞いても、先輩は大丈夫としか言わないので」
「じゃあ、どうするんだよ」
「見ています」
後輩は僕の右肩ではなく、顔を見ていた。
「おかしいと思ったら、僕が止めます」
「山岸さんより先に?」
「先に止めます」
「厳しいな」
「先輩が投げ続けるためです」
観客席へ目を向ける。
ポニーテールの友人が、相手エースの番号が入ったタオルを膝の上に置いていた。
その隣に、彼女が座っている。
グラウンドを見ていた。
こちらを見ているようには見えなかった。
「そろそろ始まります」
後輩が先にブルペンを出た。
僕もその後を追う。
グラウンドでは、相手エースがマウンドへ上がっていた。
左腕から放たれた練習球が、乾いた音を立てて捕手のミットへ収まる。
一球ごとに、観客席から小さな歓声が上がった。
遊撃手が打席へ向かう前に、こちらを振り返る。
「最初に見てくる」
「頼む」
「打ってもいい?」
「打てるなら」
「冷たいな、エース様」
遊撃手は笑い、金色の髪を帽子の中へ押し込んだ。
球審が右手を上げる。
相手エースはマウンドの上で、楽しそうに笑っていた。
僕たちの二回戦が、始まった。




