一人で勝つチーム
一回戦から次の週末まで、僕は一度もマウンドから投げなかった。
肩に痛みがあったわけではない。
翌日には重さもほとんど消えていたし、軽いキャッチボールなら問題なくできた。
それでも後輩は、僕がブルペンのほうを見るたびに目を細めた。
「投げませんよね」
「まだ何も言ってない」
「顔に書いてあります」
「どんな顔だよ」
「少しくらいなら大丈夫だろう、って顔です」
否定できなかった。
結局、一週間で投げたのは、後輩を座らせずに行った軽いキャッチボールだけだった。
その代わり、次の相手については何度も確認した。
大会の記録と、誰かが撮った短い映像。
高校一年生の左投手。
速い真っすぐと、鋭く曲がるスライダー。
緩いカーブも投げる。フォークらしい球もあったが、映像の中では何度か手前で落ちすぎていた。
そして、打者としても相手の中心だった。
前の試合では、投げては七回無失点。打っては三安打。
映像を止めた後輩が言った。
「ほとんど、この人のチームですね」
「言い方が悪いな」
「悪く言っているわけではありません。それくらい、能力が抜けているということです」
画面の中で、短い金髪の少年が笑っていた。
三振を取った直後なのに、険しい顔はしていない。捕手から返ってきた球を指先で回し、次の打者が入るのを待っている。
力んでいるようには見えなかった。
それでも、投げた球は高校一年生のものとは思えない速さで、捕手のミットへ収まっていた。
「先輩より速いですね」
「分かってる」
「張り合わないでくださいね」
「張り合わないよ」
「本当に?」
「僕があの投げ方をしたら、二回で終わる」
後輩は少しだけ笑った。
「分かっているなら大丈夫です」
「問題は打つほうか」
「そうですね。あのスライダーは、初見だと厳しいと思います」
映像の中で、右打者が内側へ食い込むスライダーに体勢を崩していた。
次の左打者は、外へ逃げる同じ球を追いかけて空振りする。
「曲がりが大きいだけじゃないな」
「右にも左にも使えます。途中まで真っすぐと見分けにくいです」
「真っすぐも速い。待って見極めるだけじゃ、差される」
「だから、全員で見ます」
後輩はそう言って、ノートへ何かを書き加えた。
一人の打席だけで攻略する必要はない。
最初の打者が球筋を見る。次の打者がタイミングを測る。その次の打者が、前の二人から得たものを使う。
商栄スターズは、そういう戦い方ができる。
一回戦で、僕はそれを知った。
画面の中の少年は、自分一人で試合を動かしていた。
投げて、抑えて、打って、点を取る。
僕にも、似たような時期があった。
自分が抑えなければ負けると思い、自分が投げ続けることだけを考えていた。
けれど、本当は違った。
捕手が球を選び、野手が打球を処理し、打者が点を取る。
一人で取れるアウトは、一つもない。
相手より速い球を投げる必要もない。
それは、二年前の僕も知っていたはずだった。
*
二回戦当日。
会場の駐車場へ白いワゴン車を入れたとき、遊撃手が後部座席から身を乗り出した。
「今日、女の子多くない?」
「前見ろ。危ない」
「運転してんの、そっちじゃん」
助手席の後輩が、窓の外へ目を向ける。
観客席へ続く通路に、同じくらいの年齢の女子が何人も集まっていた。高校生だけではない。大学生くらいに見える人もいる。
手にしているタオルには、同じ番号が入っていた。
「相手の投手目当てでしょうね」
「高校一年だろ?」
「人気あるみたいです」
遊撃手が、自分の背番号を指差した。
「俺もタオル作ったら、あれくらい集まるかな」
「自分で配ることになると思います」
「お前、先輩への敬意が足りないぞ」
「尊敬できるところが見つかったら言ってください」
「強肩」
「知っています」
「守備」
「知っています」
「顔」
「それは知りません」
「見れば分かるだろ」
「毎週見ていますが、まだ判断できません」
後ろで肉屋が笑った。
大きな声で笑ったせいで、駐車場を歩いていた人が何人かこちらを振り返った。
「いいじゃねえか。今日は俺たちが悪役だ」
「何でそうなるんですか」
元四番が呆れた声を出す。
「高校生の人気者を、商店街のおっさんたちが倒すんだぞ」
「僕たちまでおっさんに入れないでください」
「同じユニフォーム着たら、だいたい仲間だ」
「年齢まで統一されないだろ」
遊撃手が窓の外を見ながら笑った。
「いいじゃん。楽しもうぜ」
軽い言い方だった。
けれど、その言葉を聞いて、車内の空気が少しだけほどけた。
一回戦とは違う。
今日は、勝てるかどうか分からない相手だった。
それを全員が分かっている。
僕もハンドルから手を離し、小さく息を吐いた。
「降りよう」
*
グラウンドへ向かう途中で、相手チームの選手たちが見えた。
揃ったユニフォームではあったが、体つきにはばらつきがある。
高校生らしい細い選手もいれば、少し年上に見える選手もいた。
その中心に、映像で何度も見た金髪の少年がいた。
映像で見るより、小柄だった。
顔立ちも幼い。
けれど、キャッチボールで投げた球だけは、周囲の選手と明らかに違った。
軽く腕を振っただけに見えたのに、受けた選手のミットが後ろへ押される。
「速いな」
元四番が足を止めた。
「まだ力入れてないだろ、あれ」
「多分」
肉屋が腕を組んだ。
「打てない速さじゃねえ」
「まだ打席にも立ってないだろ」
「見れば分かる」
「前の試合でも同じこと言って、最初の打席で詰まってましたよね」
「あれはバットが悪かった」
「今日はバットのせいにしないでください」
「じゃあ、風だな」
「先に言い訳を決めるなよ」
そのやり取りの間に、少年がこちらへ気づいた。
一緒にいた選手へ何かを言い、そのまま一人で歩いてくる。
警戒している様子はなかった。
むしろ、知り合いを見つけたような笑顔だった。
「商栄スターズの人たちですよね」
「そうだけど」
遊撃手が答える。
少年の視線が、並んでいた僕たちの間を動く。
最後に、僕のところで止まった。
「先発、あなたですか?」
「その予定です」
「やっぱり」
少年は嬉しそうに笑った。
「有名だった人ですよね。県大会で投げてた」
「昔の話だよ」
「でも、また投げてるんですよね」
言葉に詰まるほどではなかった。
ただ、その言い方があまりにも真っすぐだった。
「今は、このチームで投げています」
「楽しみにしてます」
少年はそう言ってから、僕の右手を見た。
「俺、右投手を打つの好きなんです」
「僕も左打者は嫌いじゃない」
本当は、好きでも嫌いでもなかった。
ただ、少しだけ返したくなった。
少年は一瞬目を丸くして、それから声を上げて笑った。
「じゃあ、楽しめそうですね」
それだけ言うと、仲間のところへ戻っていった。
遊撃手が、その背中を見ながら口を開く。
「嫌なやつじゃないな」
「嫌なやつのほうが、やりやすかったか?」
「少しだけ」
後輩は少年の背中ではなく、相手チーム全体を見ていた。
「あの人が中心なのは間違いなさそうです」
キャッチボールを再開した少年の周りへ、自然と選手が集まっていく。
声をかけるのも、笑わせるのも、動きを決めるのも、ほとんど彼だった。
一人で勝つことに、慣れているように見えた。
僕たちは、一人では勝てないことを知っている。
それが今日、どれだけの違いになるのか。
まだ、誰にも分からなかった。




