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二年ぶりの問い

 階段を降りると、店の奥から段ボールを引きずる音が聞こえた。


 酒屋の朝は早い。


 といっても、僕が起きる頃には、もう朝とは呼べない時間になっている。


 店先のシャッターは半分だけ開いていた。外から差し込む光の中で、父がビール瓶のケースを台車へ載せている。


 濃紺の作業着に、店の名前が入った前掛け。


 短い髪には白いものが増え、日に焼けた首筋には深い皺が刻まれている。


 昔から大きな背中だった。


 けれど、最近は荷物を持ち上げるたびに、右肩が少しだけ下がる。


「どこ」


 僕が聞くと、父は伝票を顎で示した。


「ヤマギシ。瓶が二ケースと、樽が一つ」


「樽も?」


「重いから、嫌なら瓶だけでいい」


「別に」


 僕は台車の横へ回り込み、樽の取っ手に手をかけた。


 父が持ち上げようとするより先に、抱えて軽トラックの荷台へ運ぶ。


 思っていたよりも重かった。


 胸の前で支えながら、荷台の奥へ押し込む。


 後ろから父の視線を感じたが、何も言われなかった。


「午後の分は」


「俺が行く」


「腰、大丈夫なの」


 父の手が止まる。


 僕は伝票を確認するふりをした。


 聞かなければよかったと思ったが、もう遅い。


「平気だ」


「そう」


 それ以上は続かなかった。


 父は瓶のケースを持ち上げようとする。


 僕はその前に片方を取った。


「それも載せる」


「二ついっぺんに持つな」


「一つずつ運ぶほうが面倒」


「落としたら弁償だぞ」


「店の金で?」


「お前の給料から」


「給料もらってないけど」


 父は鼻で笑った。


 笑ったというより、息が漏れただけに近い。


 ケースを荷台へ載せ終え、運転席へ回る。


 ポケットの中でスマートフォンが震えた。


 エンジンをかける前に画面を見る。


 元相方からだった。


『今日、急に時間できた』


 続けて、もう一件。


『少し会わないか』


 そのすぐあとに、


『ヤマギシ来れる?』


 と届いた。


 僕は画面を見たまま動かなかった。


 二年間、一度も会っていない。


 連絡が途絶えていたわけではない。


 試合の結果が送られてくることもあったし、年が変われば短い挨拶も来た。


 僕が返さなかっただけだ。


 それでも、あいつは何事もなかったように連絡してくる。


 断る理由を探した。


 急すぎる。


 仕事がある。


 今は会う気分ではない。


 どれも嘘ではなかった。


 けれど、スマートフォンの向こうにいるあいつには、すぐに見抜かれる気がした。


『ちょうど配達で行く』


 そう返す。


 既読はすぐについた。


『じゃあ待ってる』


 短い返信だった。


 父が荷台のロープを締めながら、こちらを見る。


「誰だ」


「相方」


 父の手が一瞬止まる。


 僕はスマートフォンをポケットへ戻した。


「ヤマギシにいるらしい」


「そうか」


 父は再びロープを引いた。


 それだけだった。


「配達終わったら、すぐ戻る」


 僕が言うと、父は荷台の端を二度叩いた。


「午後の分は俺が行く」


「だから、腰」


「たまにはゆっくりしてこい」


 父は僕を見なかった。


 結び目を確かめ、作業台へ戻っていく。


 僕は何も返さず、運転席へ乗り込んだ。


 キーを回すと、古いエンジンが低い音を立てる。


 サイドミラーの中で、父が店先のケースを持ち上げようとしていた。


 僕は窓を少し開ける。


「重いの、残しといて」


 父はこちらを見ずに片手を上げた。


 本当に残すかどうかは分からない。


 僕は車を出した。


 閉じたままだった部屋のカーテンとは違って、外はよく晴れていた。


 喫茶ヤマギシは、商店街の外れにある。


 通りに面した大きな窓と、色の落ちた木の看板。扉の横には、今日のおすすめを書いた黒板が立てかけられていた。


 昔から変わらない。


 店の裏手へ軽トラックを回し、荷台を開ける。


 瓶のケースを下ろしていると、裏口から山岸さんが出てきた。


 白髪交じりの髪に丸眼鏡。白いシャツの上から、茶色いエプロンを着けている。


「おや。今日は若いほうか」


「悪かったですね」


「何も悪いとは言ってないよ。腰には若いほうがありがたい」


 そう言いながら、山岸さんは樽へ手を伸ばした。


 僕は先に抱え上げる。


「それ、どこですか」


「奥の棚の前。無理なら転がしてもいい」


「瓶じゃないんだから」


「昔はみんな転がして運んだものだよ」


「床がへこみますよ」


「そのときは君のお父さんに直してもらおう」


「酒屋に頼む仕事じゃないです」


 山岸さんは楽しそうに笑った。


 店の奥へ樽を運び、指定された場所へ置く。


 続けて瓶のケースも運び込む。


 厨房からはコーヒーの匂いがしていた。店内には数人の客がいて、カップの触れ合う小さな音と、低い話し声が重なっている。


 伝票を渡すと、山岸さんは丸眼鏡を少し持ち上げた。


「今日は急がなくていいんだろう」


「配達が終わったら戻ります」


「そう聞いているけどね」


 誰から、と聞く前に、山岸さんは店の奥へ視線を向けた。


 つられてそちらを見る。


 窓際の席に、元相方が座っていた。


 黒いブルゾンの前を開け、白いシャツの上で腕を組んでいる。


 高校時代より肩幅が広くなっていた。


 もともと厚かった胸板も、今は私服の上からでもはっきり分かる。


 僕に気づくと、あいつは片手を上げた。


「遅い」


「仕事中なんだけど」


「十一時過ぎまで寝てたくせに」


 足が止まる。


「何で知ってる」


「おじさんに聞いた」


「余計なことを」


「寝てたことじゃない。配達に来るってこと」


 あいつは笑った。


 高校の頃と変わらない笑い方だった。


 僕は返事をせず、席へ向かう。


 途中、壁に掛けられた一枚の写真が目に入った。


 古い野球チームの集合写真だった。


 白黒に近いほど色が抜けている。


 前列にはユニフォーム姿の男たちがしゃがみ、後列には帽子をかぶった選手たちが並んでいた。


 端のほうに、父によく似た男がいる。


 今より細く、髪も黒い。


 けれど、立ち方と眉の形は同じだった。


 隣にいる丸顔の男は、山岸さんだろうか。


 写真の下に小さな札があったが、文字までは読まなかった。


「何見てる」


 元相方に呼ばれ、僕は視線を外す。


「別に」


「相変わらずだな」


「何が」


「全部」


 意味の分からないことを言いながら、あいつは向かいの椅子を足で少し引いた。


 僕はそこへ座る。


 元相方は椅子の背にもたれず、こちらへ身体を向けていた。


 僕とは逆だった。


 昔から、話をするときはそうだった。


「二年ぶり」


「そうだな」


「もっと感動しろよ」


「元気そうで何より」


「棒読みすぎるだろ」


 山岸さんがマグカップを二つ持ってくる。


 一つを元相方の前に、もう一つを僕の前へ置いた。


「頼んでないですけど」


「君のお父さんにつけておくよ」


「自分で払います」


「じゃあ、あとで三杯分もらおう」


「一杯しか飲んでない」


「席代と再会料」


 元相方が声を上げて笑った。


「昔より高くなってない?」


「君がプロになったからね」


「俺から取るのかよ」


「取れるところから取る主義なんだ」


 山岸さんは満足そうにうなずき、カウンターへ戻っていった。


 僕はカップへ手を伸ばす。


 熱かった。


 元相方は僕の顔を見たまま、笑みを少しだけ薄くする。


「で」


 短く区切る。


「今も投げてるのか」


 カップを置いた。


 久しぶりに会った最初の話題が、それだった。


「たまに」


 僕は答えた。


「店の裏で壁当てするくらい」


「どのくらいの距離で?」


「近いよ。十メートルもない」


「硬球?」


「軟球」


「何球くらい」


「数えてない」


 元相方はカップを持ち上げたまま、僕の顔を見ていた。


「捕手を座らせては?」


「投げてない」


「マウンドからは?」


「ない」


「じゃあ、投げてるうちに入らないだろ」


「だから、壁当てって言った」


 コーヒーを飲む。


 さっきよりは冷めていたが、まだ少し熱い。


 元相方はそれ以上追及せず、椅子へ深く座り直した。


 黙ったままなら、話はそこで終わったかもしれない。


「肩は?」


 やはり終わらなかった。


「治ってる」


「医者には何て言われた」


「問題ないって。運動も投球もしていい」


「最後に診てもらったのは?」


「去年」


「それから痛んだことは」


「ない」


「違和感は?」


「ないよ」


 答えるたびに、尋問されているような気分になる。


 高校の頃もそうだった。


 投球練習のあと、肩はどうか、肘はどうか、指先の感覚はどうかと何度も聞かれた。


 僕が大丈夫だと言っても、こいつは簡単には引き下がらなかった。


「なら、投げない理由は肩じゃないな」


 元相方が言った。


 僕はカップから手を離した。


「二年空いてる」


「知ってる」


「前と同じように投げられるわけがない」


「それも、投げてみないと分からない」


「分かるよ」


 思っていたより強い声が出た。


 近くの席にいた客が、こちらを振り向く。


 僕は声を落とした。


「二年だぞ。身体も変わってる。球速も落ちてる。制球だって、同じ場所に投げられるか分からない」


「だから、前と同じように投げろとは言ってない」


「同じじゃないなら、意味ないだろ」


「何で?」


 すぐに聞き返された。


 僕は答えられなかった。


 元相方は少しだけ眉を寄せた。


 怒っているわけではない。


 昔、僕の配球に納得できないときと同じ顔だった。


「お前、高校のときに自分が何で抑えてたか分かってる?」


「球速じゃないことくらい分かってる」


「じゃあ何だ」


「制球と、変化球」


「雑だな」


 元相方はテーブルの上に指を置いた。


 見えないボールを握るように、人差し指と中指をわずかに開く。


「同じ腕の振りから、落ち方の違うチェンジアップを何種類も投げてた」


「何種類もってほどじゃない」


「俺は捕ってたんだぞ」


 僕は黙った。


「真下に落ちる球。右打者の外へ逃げる球。少しだけ沈んで、芯を外す球。お前は全部チェンジアップって呼んでたけど、打つほうからしたら別の球だ」


「たまたま変わってただけだ」


「たまたまで、狙った場所に何度も投げられるか」


 元相方の声から、さっきまでの軽さが消えていた。


「プロに入って、いろんな投手の球を受けた」


 その言葉だけで、僕には想像できない数の球があるのだと分かった。


 高校までとは違う速さ。


 違う変化。


 違う角度。


 僕が画面越しにしか見たことのない投手たちの球を、こいつは実際に受けている。


「速い球を投げるやつはいくらでもいる。大きく曲げるやつもいる。でも、打者の手元で少しずつ違う変化をさせて、それを投げたい場所へ集められるやつは多くない」


 元相方は僕から目をそらさなかった。


「高校のときのお前の球は、上の相手にも通用する武器だった」


「高校のときは、だろ」


「ああ」


 あっさり認められた。


「今も同じ球を投げられるとは言ってない」


「じゃあ、何が言いたいんだよ」


「残ってるかもしれないだろ」


 元相方は自分の指先を見た。


「球速が落ちてるかもしれない。前と同じ変化はしないかもしれない。制球だって荒れてるかもしれない」


「全部駄目になってるかもしれない」


「それもある」


 否定しないところが、こいつらしかった。


 何の根拠もなく励まされるより、よほど信じられる。


「でも、お前は確かめてもいない」


 店内に、カップを置く音が響いた。


 山岸さんがカウンターの向こうで、こちらを見ている。


 目が合うと、何も聞いていなかったように新聞へ視線を戻した。


「壁に軽く投げただけで、全部なくなったって決めてる」


「なくなったとは言ってない」


「同じじゃないなら意味がないって、今言っただろ」


 僕はカップの縁に残ったコーヒーの跡を見る。


 前と同じように投げられないなら、投げる意味はない。


 そう思っていた。


 正確には、そう思うことにしていた。


 投げて駄目だったときに、諦める理由を改めて突きつけられずに済むからだ。


「もったいないんだよ」


 元相方が言った。


「お前が投げないのが?」


「そう」


「プロの選手が、二年投げてない人間に言うことじゃないだろ」


「プロの投手を見てるから言ってる」


 迷いのない声だった。


「今のお前がどれだけ投げられるかは、俺にも分からない。でも、確かめる価値がない投手じゃなかったことは分かる」


 僕は顔を上げた。


 元相方はもう笑っていなかった。


 正面から投げられた言葉を、僕は受け取ることも、投げ返すこともできなかった。


「それを言うために、わざわざ呼んだのか」


「半分はな」


「残り半分は?」


 元相方はテーブルに置いていたスマートフォンを手に取った。


「面白いものを見つけた」


 画面を何度か操作し、僕の前へ滑らせる。


「お前に、チームを作ってもらおうと思って」

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