午前十一時の部屋
目を覚ましたとき、部屋の中はまだ夜みたいに暗かった。
枕元に手を伸ばし、スマートフォンを探す。指先に充電ケーブルが触れ、その先をたどって本体をつかんだ。
午前十一時七分。
画面の明かりが眩しくて、片目を閉じる。
起きなければならない時間は、とっくに過ぎていた。
僕は枕へ頬を戻したまま、通知を上から順番に消していった。
ニュースアプリ。動画サイト。何日か前に買ったものの発送通知。
その中に、高校時代の野球部のグループチャットがあった。
未読は十七件。
普段ならそのまま閉じるところだったが、通知に表示されていた名前を見て、指が止まった。
『こいつ、また打ったぞ』
元四番が送ってきたメッセージだった。
その下に、スポーツニュースの記事が貼られている。
見出しには、元相方の名前があった。
僕は上半身を起こさないまま、リンクを開いた。
昨夜の試合で決勝打を放ったらしい。
写真の中で、あいつはヘルメットを脱ぎ、ベンチの前で笑っていた。高校時代よりも首が太くなり、ユニフォームの上からでも胸板の厚さが分かる。
記事には、打撃だけでなく、投手を支えるリードについても書かれていた。
若手らしからぬ落ち着き。
投手陣からの信頼。
数字には表れにくい貢献。
どれも、高校の頃からあいつが持っていたものだった。
『完全に正捕手じゃん』
『高校のときから態度だけは正捕手だった』
『態度だけって何だよ。実力もあっただろ』
『本人いないからって褒めすぎ』
画面の向こうで、同級生たちの会話が続いている。
僕は何も書き込まず、記事をもう一度上から読み直した。
羨ましいとは思う。
けれど、妬ましくはなかった。
あいつがプロに進んだのは、運が良かったからでも、誰かに目をかけられたからでもない。
投手の小さな変化を見逃さないことも、試合の流れを読むことも、勝負どころで迷わず要求を出せることも、高校の頃からあいつのほうが僕より優れていた。
それを、プロの世界でも正しく評価されている。
ただ、それだけのことだった。
だから、記事に書かれていることは何一つ不思議ではない。
むしろ遅いくらいだ。
僕は写真を拡大した。
ベンチへ戻るあいつの後ろに、スコアボードが映っている。
観客席の明かり。整えられた土。白いライン。
そこまで見たところで、画面を閉じた。
スマートフォンを胸の上へ置く。
部屋は静かだった。
カーテンは昨日から閉じたままで、外の天気も分からない。脱いだスウェットが椅子の背にかかり、床には空になったペットボトルが転がっている。
机の隅には、父から預かった酒屋の伝票が積まれていた。
働いていないわけではない。
父の店に注文が入れば、配達にも行く。重い荷物も運ぶし、店番もする。
ただ、仕事がない時間に何をしているのかと聞かれたら、答えられることはほとんどなかった。
眠る。
スマートフォンを見る。
腹が減れば何か食べる。
夜になれば、また眠る。
二年前から、だいたい同じだった。
グループチャットに新しい通知が入る。
『そういえばあいつ、このグループ見てるのか?』
誰のことかは、名前がなくても分かった。
『既読ついてる』
『生存確認』
『返事くらいしろ』
僕は入力欄を開いた。
『見てる』
それだけ打ち、送信しないまま消した。
別に話したくないわけではない。
元四番も、遊撃手も、ほかの連中も嫌いではなかった。
僕が勝手に距離を取っているだけだ。
今の自分から何かを話したところで、相手を困らせるような気がした。
スマートフォンの画面が暗くなる。
黒い画面に、自分の顔がぼんやりと映った。
前髪は目にかかり、頬には枕の跡が残っている。
ひどい顔だと思ったが、直す理由もなかった。
もう一度横になろうとしたとき、階下から物音がした。
ケースを床へ置く、鈍い音。
続いて、父の咳払いが聞こえた。
呼ばれたわけではない。
それでも僕はしばらく天井を見たあと、布団から足を下ろした。
床に落ちていたスウェットを拾い、頭からかぶる。
袖へ腕を通したとき、机の端に置かれた白いものが目に入った。
硬球だった。
いつからそこに置いてあるのかは覚えていない。
捨てる理由もなく、片づける場所も決められないまま、二年間ずっと机の上にある。
僕は椅子の背に手をかけ、硬球を持ち上げた。
乾いた革の感触が手のひらに収まる。
人差し指と中指を縫い目に沿わせ、親指を下へ添える。
考えるより先に、チェンジアップの握りができていた。
少し深く握るもの。
人差し指に力を残すもの。
中指を縫い目から外すもの。
同じチェンジアップでも、指の置き方をわずかに変えるだけで、落ち方も逃げ方も違った。
どの握りで、どこへ投げていたのか。
指先は今でも覚えている。
僕は硬球を軽く握り直した。
投げるつもりはなかった。
それでも、肩の奥がわずかに固くなる。
二年前の県大会準決勝。
五回を過ぎたあたりから、肩には熱がこもっていた。
痛みと呼ぶほどではなかった。
腕を振るたびに、普段とは違う場所へ引っかかりが残る。その程度だった。
だから、まだ投げられると思った。
後から考えれば、あの時点で気づいていたのだと思う。
次の回には、真っすぐが高く浮いた。
その次は、低く投げたつもりの球が真ん中へ入った。
相方がマウンドへ来た。
何を言われたのかは、よく覚えていない。
たぶん、肩は大丈夫かと聞かれた。
僕は大丈夫だと答えた。
ベンチには控え投手がいた。
ブルペンでは、すでに準備を始めていたはずだ。
監督も何度かこちらを見ていた。
けれど、僕は一度もベンチを見なかった。
ここで代わるわけにはいかないと思っていた。
朝から声を出し続けていた控え選手も、打てない打席のあとも守備では声を切らさなかった元四番も、何度も土に飛び込んだ遊撃手もいた。
全員がここまで勝ち上がるためにやってきた。
だから、自分が最後まで投げなければならない。
そのときは、本気でそう思っていた。
硬球を握る指に、少しだけ力が入る。
白いボールの向こうに、あの日の相方のミットが浮かんだ。
構えた場所へ届かなかった球。
返球を受け取るたびに、短くなっていった呼吸。
最後の打球が外野へ抜けていくのを、マウンドの上から見ていた。
肩を痛めたから負けたのか。
交代しなかったから負けたのか。
それとも、最初から相手のほうが強かったのか。
二年経っても、答えは出ていない。
僕は硬球を机へ戻した。
転がりかけた球が伝票の束に当たり、そこで止まる。
「起きてるなら、降りてこい」
階下から父の声がした。
「配達、頼む」
僕は短く返事をして、硬球から手を離した。




