↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/31

午前十一時の部屋

  目を覚ましたとき、部屋の中はまだ夜みたいに暗かった。


 枕元に手を伸ばし、スマートフォンを探す。指先に充電ケーブルが触れ、その先をたどって本体をつかんだ。


 午前十一時七分。


 画面の明かりが眩しくて、片目を閉じる。


 起きなければならない時間は、とっくに過ぎていた。


 僕は枕へ頬を戻したまま、通知を上から順番に消していった。


 ニュースアプリ。動画サイト。何日か前に買ったものの発送通知。


 その中に、高校時代の野球部のグループチャットがあった。


 未読は十七件。


 普段ならそのまま閉じるところだったが、通知に表示されていた名前を見て、指が止まった。


『こいつ、また打ったぞ』


 元四番が送ってきたメッセージだった。


 その下に、スポーツニュースの記事が貼られている。


 見出しには、元相方の名前があった。


 僕は上半身を起こさないまま、リンクを開いた。


 昨夜の試合で決勝打を放ったらしい。


 写真の中で、あいつはヘルメットを脱ぎ、ベンチの前で笑っていた。高校時代よりも首が太くなり、ユニフォームの上からでも胸板の厚さが分かる。


 記事には、打撃だけでなく、投手を支えるリードについても書かれていた。


 若手らしからぬ落ち着き。


 投手陣からの信頼。


 数字には表れにくい貢献。


 どれも、高校の頃からあいつが持っていたものだった。


『完全に正捕手じゃん』


『高校のときから態度だけは正捕手だった』


『態度だけって何だよ。実力もあっただろ』


『本人いないからって褒めすぎ』


 画面の向こうで、同級生たちの会話が続いている。


 僕は何も書き込まず、記事をもう一度上から読み直した。


 羨ましいとは思う。


 けれど、妬ましくはなかった。


 あいつがプロに進んだのは、運が良かったからでも、誰かに目をかけられたからでもない。


 投手の小さな変化を見逃さないことも、試合の流れを読むことも、勝負どころで迷わず要求を出せることも、高校の頃からあいつのほうが僕より優れていた。


 それを、プロの世界でも正しく評価されている。


 ただ、それだけのことだった。


 だから、記事に書かれていることは何一つ不思議ではない。


 むしろ遅いくらいだ。


 僕は写真を拡大した。


 ベンチへ戻るあいつの後ろに、スコアボードが映っている。


 観客席の明かり。整えられた土。白いライン。


 そこまで見たところで、画面を閉じた。


 スマートフォンを胸の上へ置く。


 部屋は静かだった。


 カーテンは昨日から閉じたままで、外の天気も分からない。脱いだスウェットが椅子の背にかかり、床には空になったペットボトルが転がっている。


 机の隅には、父から預かった酒屋の伝票が積まれていた。


 働いていないわけではない。


 父の店に注文が入れば、配達にも行く。重い荷物も運ぶし、店番もする。


 ただ、仕事がない時間に何をしているのかと聞かれたら、答えられることはほとんどなかった。


 眠る。


 スマートフォンを見る。


 腹が減れば何か食べる。


 夜になれば、また眠る。


 二年前から、だいたい同じだった。


 グループチャットに新しい通知が入る。


『そういえばあいつ、このグループ見てるのか?』


 誰のことかは、名前がなくても分かった。


『既読ついてる』


『生存確認』


『返事くらいしろ』


 僕は入力欄を開いた。


『見てる』


 それだけ打ち、送信しないまま消した。


 別に話したくないわけではない。


 元四番も、遊撃手も、ほかの連中も嫌いではなかった。


 僕が勝手に距離を取っているだけだ。


 今の自分から何かを話したところで、相手を困らせるような気がした。


 スマートフォンの画面が暗くなる。


 黒い画面に、自分の顔がぼんやりと映った。


 前髪は目にかかり、頬には枕の跡が残っている。


 ひどい顔だと思ったが、直す理由もなかった。


 もう一度横になろうとしたとき、階下から物音がした。


 ケースを床へ置く、鈍い音。


 続いて、父の咳払いが聞こえた。


 呼ばれたわけではない。


 それでも僕はしばらく天井を見たあと、布団から足を下ろした。


 床に落ちていたスウェットを拾い、頭からかぶる。


 袖へ腕を通したとき、机の端に置かれた白いものが目に入った。


 硬球だった。


 いつからそこに置いてあるのかは覚えていない。


 捨てる理由もなく、片づける場所も決められないまま、二年間ずっと机の上にある。


 僕は椅子の背に手をかけ、硬球を持ち上げた。


 乾いた革の感触が手のひらに収まる。


 人差し指と中指を縫い目に沿わせ、親指を下へ添える。


 考えるより先に、チェンジアップの握りができていた。


 少し深く握るもの。


 人差し指に力を残すもの。


 中指を縫い目から外すもの。


 同じチェンジアップでも、指の置き方をわずかに変えるだけで、落ち方も逃げ方も違った。


 どの握りで、どこへ投げていたのか。


 指先は今でも覚えている。


 僕は硬球を軽く握り直した。


 投げるつもりはなかった。


 それでも、肩の奥がわずかに固くなる。


 二年前の県大会準決勝。


 五回を過ぎたあたりから、肩には熱がこもっていた。


 痛みと呼ぶほどではなかった。


 腕を振るたびに、普段とは違う場所へ引っかかりが残る。その程度だった。


 だから、まだ投げられると思った。


 後から考えれば、あの時点で気づいていたのだと思う。


 次の回には、真っすぐが高く浮いた。


 その次は、低く投げたつもりの球が真ん中へ入った。


 相方がマウンドへ来た。


 何を言われたのかは、よく覚えていない。


 たぶん、肩は大丈夫かと聞かれた。


 僕は大丈夫だと答えた。


 ベンチには控え投手がいた。


 ブルペンでは、すでに準備を始めていたはずだ。


 監督も何度かこちらを見ていた。


 けれど、僕は一度もベンチを見なかった。


 ここで代わるわけにはいかないと思っていた。


 朝から声を出し続けていた控え選手も、打てない打席のあとも守備では声を切らさなかった元四番も、何度も土に飛び込んだ遊撃手もいた。


 全員がここまで勝ち上がるためにやってきた。


 だから、自分が最後まで投げなければならない。


 そのときは、本気でそう思っていた。


 硬球を握る指に、少しだけ力が入る。


 白いボールの向こうに、あの日の相方のミットが浮かんだ。


 構えた場所へ届かなかった球。


 返球を受け取るたびに、短くなっていった呼吸。


 最後の打球が外野へ抜けていくのを、マウンドの上から見ていた。


 肩を痛めたから負けたのか。


 交代しなかったから負けたのか。


 それとも、最初から相手のほうが強かったのか。


 二年経っても、答えは出ていない。


 僕は硬球を机へ戻した。


 転がりかけた球が伝票の束に当たり、そこで止まる。


「起きてるなら、降りてこい」


 階下から父の声がした。


「配達、頼む」


 僕は短く返事をして、硬球から手を離した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。