残り三回
七回表。
遊撃手はマウンドの土を軽く蹴り、何度か腕を回した。
帽子の下から明るい髪がはみ出している。遊撃に立っていたときと同じように、緊張している様子はなかった。
「こういう大会で投げるのは、久しぶりなんだろ」
ベンチから声をかける。
「最近も草野球で投げてるよ」
「聞いてない」
「言ってないからな」
遊撃手は笑い、後輩から受け取ったボールを指先で転がした。
「六点取ってるんだから、適当に投げても大丈夫だろ」
「適当には投げないでください」
後輩がすぐに返す。
「はいはい、女房役さん」
「今はあなたの捕手です」
「それは光栄です」
わざとらしく頭を下げてから、遊撃手がプレートを踏んだ。
左翼を守っていた布団屋は、遊撃へ移っている。
僕の代わりに入った控えの外野手が、左翼へ回った。
「ショート、久しぶりじゃないですか」
二塁手が布団屋へ声をかける。
「そうですね。届かない送球はお願いします」
「俺、二塁ですけど」
「では、肉屋さんに頑張ってもらいましょう」
「任せろ!」
一塁から肉屋の声が響いた。
遊撃手の初球は、外角へ外れた。
二球目。
後輩は真っすぐではなく、小さく横へ動く球を要求した。
打者が見送り、ストライクになる。
三球目は緩い球。
打者の重心が、わずかに前へ出た。
続けて、内角へ勢いのある真っすぐ。
詰まった打球が三塁へ転がる。
元四番が捕り、肉屋へ送った。
一死。
今の僕より、球そのものには勢いがある。
変化球も、一つや二つではなかった。
大きく曲がる球。小さく動く球。沈む球。
どれも、打者から簡単に空振りを奪えるほどではないが、一通り投げ分けられる。
制球も、力んだときに少し高くなる程度で、大きく崩れてはいない。
遊撃を守るときと同じで、何でも器用にこなす。
ただ、追い込んだあとに、必ず打者を仕留められる球はなかった。
そこを、後輩が配球で補っている。
続く打者には、三球続けて違う球を投げた。
最後は、初球と同じ外角の真っすぐ。
打者のバットが遅れて出る。
「ストライク、バッターアウト」
遊撃手がこちらを見て、得意そうに笑った。
「見たか」
「ベンチを見ないでください」
後輩が注意する。
二死。
次の打者も、すぐに追い込んだ。
けれど、そこから何球投げても決め切れない。
変化球をファウルにされ、外角の真っすぐも見送られる。
最後は低めへ投じた球が、わずかに外れた。
「ボールフォア」
遊撃手が小さく息を吐く。
「今の取ってくれないか」
「追い込んでから粘られすぎです」
後輩が返球する。
「決め球がないんだから仕方ないだろ」
「開き直らないでください」
次の打者には、初球から緩い球を使った。
タイミングを外したように見えたが、二球目の真っすぐが少し高く入る。
打球は外野の間を破った。
一塁走者が一気にホームへ帰る。
六対二。
「すみません」
打球を追った外野手が手を上げる。
「今のは投げた人が悪いです」
後輩がマウンドへ返球した。
「はっきり言うね」
「二死からの四球です」
「分かってるって」
遊撃手は帽子をかぶり直した。
次の打者が、三遊間へ強い打球を放つ。
布団屋は一歩目から打球の正面へ入っていた。
身体の近くで捕ると、慌てずに一塁へ送る。
遊撃手ほど速い球ではない。
それでも肉屋の胸元へ正確に届き、打者より先にミットへ収まった。
「アウト」
七回表が終わる。
布団屋は、何事もなかったようにベンチへ戻ってきた。
「普通にできるじゃん」
遊撃手が言う。
「捕るくらいなら、と言ったでしょう」
「送球も届いてたけど」
「肉屋さんが大きいので」
「俺の手柄か?」
肉屋が嬉しそうに割り込む。
「半分くらいは」
「よし」
「半分でいいんですか」
後輩に聞かれ、肉屋は少し考えた。
「やっぱり全部俺の手柄だな」
七回裏。
先頭の遊撃手が四球を選んだ。
打席へ入った布団屋は、初球からバントの構えを見せる。
「打たないのか?」
一塁ベンチから肉屋が叫ぶ。
「一点取れば楽になりますから」
布団屋は転がした球を一塁側へ置き、遊撃手を二塁へ進めた。
三番の外野手が、外角の球を中前へ運ぶ。
二塁から遊撃手が帰り、七点目が入った。
一回と、ほとんど同じ形だった。
「一番から三番まで、ちゃんと機能してるな」
僕が言うと、隣にいた山岸さんがうなずいた。
「野球を知っている人間が並ぶと、自然に形になるものだよ」
四番の元四番と五番の肉屋は続けず、追加点は一点で終わった。
肉屋はベンチへ戻るなり、山岸さんへ向かって言う。
「今のは四番が悪い」
「肉屋さんもアウトだったじゃないですか」
元四番が答える。
「俺は四番じゃないからな」
「都合よすぎるだろ!」
八回表。
遊撃手は先頭打者に安打を許した。
ベンチにいた僕は、無意識に立ち上がりかけた。
肩は冷え始めている。
今から急に投げられる状態ではない。
そもそも、今日はもう終わりだと言われている。
後輩はマウンドへ行かなかった。
初球は小さく曲がる球。
続けて、低めへ沈む球。
次の打者が、三球目を引っかけた。
布団屋が遊撃で捕り、二塁手へ送る。
二塁手から一塁へ球が渡る。
併殺。
派手さはない。
けれど、打球が転がった瞬間には、三人とも次に何をするか分かっていた。
最後の打者には、緩い球を二つ続けたあと、内角へ真っすぐを投じた。
詰まった打球が外野へ上がる。
遊撃手は、二回を一失点で終えた。
「どうだった?」
ベンチへ戻ってきた遊撃手が、僕に聞く。
「球種は多い」
「そこは褒めろよ」
「後輩がうまく使ってた」
「俺は?」
「言われた球を投げてた」
「お前に聞いたのが間違いだった」
遊撃手は水を飲みながら、肩を軽く回した。
九回表。
三番を打っていた外野手が、中堅からマウンドへ向かう。
代わりに遊撃手が中堅へ移った。
布団屋は、そのまま遊撃に残る。
「本当に投げるんですか」
外野手がマウンド上から、山岸さんへ確認する。
「七対二だからね」
「五点しかありませんけど」
「十分だよ」
「一人出したら代えてください」
「早くない?」
「二人出したら、手遅れかもしれません」
外野手は不安そうにボールを握った。
遊撃手が中堅から声を張る。
「安心しろ! すぐ戻れる準備しとくから!」
「その声が一番不安なんですけど!」
後輩がミットを構える。
初球。
外野手の投じた球には、思っていたより十分な勢いがあった。
ただ、後輩の構えた場所より少し高い。
「ストライク」
ベンチが小さくざわつく。
「普通に投げられるじゃん」
元四番が言った。
「本人に聞こえると崩れそうなので、黙っていたほうがいいですよ」
布団屋が遊撃から声をかける。
二球目は、少し外へ流れた。
三球目は、内側へ入る。
同じところを狙っているはずなのに、球が微妙に散っていた。
後輩は最初の数球を受けると、外野手を呼ばずにミットの位置を変えた。
細かいコースを要求するのをやめ、打者の狙いを外すように、広く構える。
真っすぐも、ときどき打者の手元でわずかに動いた。
本人が意識して投げているようには見えない。
それでも、打者には次の球がどこへ来るのか分からない。
一人目は、芯を外されて浅い外野フライ。
二人目には、後輩が二球続けて外側へ構えた。
一球目は外へ流れ、二球目は少し内へ入る。
打者が合わせるように出したバットの先に当たり、打球は二塁へ転がった。
あっという間に二死になった。
「なんで抑えてるんだ?」
肉屋が僕に聞く。
「球がうまく散ってるんじゃないですか」
「狙って?」
「たぶん、狙ってません」
「それで抑えられるのか」
マウンドの外野手は、不思議そうな顔で後輩のサインを見ていた。
本人にも、自分の球がどこへ散るのかは分かっていない。
けれど、後輩は数球受けただけで、おおよそのばらつきをつかみ始めていた。
狙った一点へ投げさせるのではなく、打者が待っている場所から外れるように組み立てている。
僕のときとは違う。
遊撃手のときとも違う。
投げる人間に合わせて、同じ捕手がまったく別の試合を作っていた。
最後の打者に対し、後輩は真ん中より少し低い位置へミットを構えた。
投じた球は、そこから少し高く外れた。
打者が強く振る。
打球は高く上がり、遊撃手のいる中堅へ飛んだ。
遊撃手は数歩下がり、余裕を持って捕った。
「アウト!」
試合終了。
外野手はマウンドの上で、誰よりも驚いた顔をしていた。
「無失点?」
ボールを持ったまま、後輩に聞く。
「無失点です」
「本当に?」
「三人で終わりました」
遊撃手が中堅から走ってくる。
「俺より内容いいじゃん」
「たまたまです」
「三者凡退で、たまたまはないだろ」
「次は無理です」
「まだ何も聞いてないぞ」
「先に断っておきます」
外野手は真剣な顔で言った。
整列し、レッドホッパーズの選手たちと向かい合う。
「ありがとうございました!」
頭を下げる。
得点板には、七対二と残っていた。
商栄スターズの勝利。
自分たちで作ったチームが、最初の試合に勝った。
僕は六回一失点。
遊撃手は二回一失点。
外野手は、なぜか一回無失点。
投げ方も、抑え方も、三人とも違った。
その違いを、後輩は一人ずつ受け止めていた。
完璧な試合ではなかった。
それでも、誰か一人だけの力で勝った試合でもなかった。
マウンドから離れても、試合は続いた。
そして仲間たちは、僕が思っていたより、ずっと野球ができた。
今回も最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
ここまで追いかけてくださっている方も、最近見つけてくださった方も、本当に嬉しいです。
そして、少しお知らせです。
来週から『星になれなかった僕ら』は、毎週月・水・土の週3回更新になります。
これからも、『僕ら』の物語を見守っていただけたら嬉しいです。
次回もよろしくお願いします。




