レッドホッパーズ
会場へ近づくにつれ、車窓から見える建物が少なくなっていった。
住宅街を抜け、川沿いの道を進む。遠くに防球ネットが見え、その向こうから金属音が聞こえてきた。
「もうやってるな」
肉屋が窓の外を見ながら言った。
「別の試合じゃないですか」
布団屋が答える。
「分かってる。雰囲気の話だよ」
「急に繊細ですね」
「俺だって試合前は繊細になる」
「弁当箱を三つ持ってくる人が?」
荷室には、肉屋のスポーツバッグとは別に、大きな保冷箱が積まれていた。
中身は聞かなくても分かる。
「一試合終わったら腹減るだろ」
「まだ始まってもいませんよ」
後ろでそんな会話が続いている間に、会場の入口へ着いた。
駐車場には、すでに何台もの車が止まっていた。ユニフォーム姿の選手たちが荷物を運び、グラウンドの外では次の試合を待つチームがキャッチボールをしている。
車を止める。
エンジンを切ると、それまで車内に閉じ込められていた金属音や掛け声が、一気に近くなった。
僕はすぐにはドアを開けなかった。
フロントガラスの向こうに、グラウンドがある。
土の色も、白いラインも、ベンチの屋根も、見慣れているはずだった。
けれど、最後に公式戦でこの景色を見たのは、二年前だ。
「先輩」
助手席の後輩が僕を見る。
「大丈夫ですか」
「大丈夫」
答えてから、ドアを開けた。
外へ出ると、朝の冷たい空気に土の匂いが混じっていた。
肩にバッグを掛ける。
それだけで、少し重さを感じた。
痛みではない。
僕が意識しすぎているだけかもしれない。
「おーい!」
グラウンド側から声がした。
元四番が手を上げながら歩いてくる。
黒いジャージ姿で、すでに着替えの半分を終えているように見えた。
「遅かったな」
「集合時間には間に合ってる」
「俺は三十分前に来た」
「張り切ってるじゃん」
遊撃手が車から降りながら言う。
「当たり前だろ。こいつらと一緒に試合するの、久しぶりだからな」
「高校のときより早く来てない?」
「高校のときは、お前が遅かっただけだ」
「昔の話をするなよ」
元四番は笑い、荷室をのぞいた。
「なんだ、この箱」
「昼飯だ」
肉屋が胸を張る。
「試合前に食べないでくださいよ」
「お前まで布団屋みたいなこと言うのか」
「普通のことじゃないですか」
山岸さんが全員を集め、登録証を確認した。
人数は揃っている。
ユニフォームも、道具も、少なくとも今のところ忘れ物はなかった。
「まずは着替えよう。そのあと外野側で身体を動かす」
山岸さんがグラウンドを見ながら言った。
「今やっている試合が終わったら、すぐに入るよ。時間はあまりない」
僕たちは荷物を持ち、指定された場所へ向かった。
その途中、同じユニフォームを着た集団とすれ違った。
胸には赤い文字で、レッドホッパーズと入っている。
年齢は僕たちと大きく変わらない。僕より少し上に見える選手もいれば、同年代くらいの選手もいる。
一人の選手が、僕の顔を見て足を止めた。
「あれ?」
隣の選手も僕を見る。
「もしかして、高校のとき投げてた?」
僕も立ち止まった。
「たぶん」
「たぶんって」
相手は笑った。
「やっぱりそうだ。県大会で見たことあるよ」
悪意のない声だった。
隣にいた選手が続ける。
「今日は先発?」
「はい」
「本当に?」
相手の顔が少し明るくなる。
「君と試合できるの、光栄だよ。一回打席に立ってみたかったんだ」
どう返せばいいのか分からなかった。
二年前の僕を知っている人間が、今の僕の前に立っている。
相手の中では、あの夏から今日までが途切れていない。
「ありがとうございます」
結局、それだけ答えた。
もう一人が続ける。
「今もプロを目指してるの?」
後ろにいた遊撃手たちの声が止まった。
相手は僕の事情を知らない。
肩を痛めたことも、そのあとほとんど野球をしていなかったことも。
ただ、期待されていた投手が、また大会に出ている。
それだけを見て、聞いている。
「今は……」
言葉が止まる。
目指していない、と言えば簡単だった。
実際、今朝まで、プロになるためにここへ来たわけではないと思っていた。
けれど、なぜかその言葉を口にすることができなかった。
「今日は、この試合のことだけ考えています」
そう答えると、相手は少し意外そうな顔をしたあと、笑った。
「そっか。じゃあ、よろしく」
「よろしくお願いします」
相手の選手たちは先に歩いていった。
その背中を見送ってから、遊撃手が僕の横へ並ぶ。
「人気者じゃん」
「やめろ」
「プロかあ」
「聞こえてただろ」
「聞こえてたから言ってる」
遊撃手はそれ以上からかわず、先へ歩いた。
肉屋と布団屋も、何も言わなかった。
ただ、布団屋だけが一度こちらを見た。
いつもの眠たげな目だった。
何かを聞きたそうにも、何かを知っているようにも見えた。
けれど、布団屋はすぐに視線を外した。
「着替えましょうか」
それだけ言って、元四番のあとを追う。
肉屋が僕の背中を軽く叩いた。
「難しいことは、勝ってから考えりゃいい」
「肉屋さんが言うと、全部食事の話に聞こえます」
後輩が言う。
「腹が減ってたら、まともなこと考えられねえだろ」
「まだ弁当は開けないでくださいね」
「分かってるよ」
僕はバッグの紐を握り直した。
今もプロを目指しているのか。
その問いは、答えられないまま胸の奥に残っていた。
けれど、今はそれでいい。
まずは着替える。
身体を動かす。
そして、最初の一球を投げる。
相手の言ったとおり、今日は今日の試合だけを考えればいい。




