朝の送迎
白いワゴン車で、まだ人通りの少ない道を走った。
助手席には、父から渡されたおにぎりの包み。後部座席には、背番号十一のユニフォームが入ったバッグが置いてある。
赤信号で車を止め、肩を小さく回した。
少し重い。
けれど、痛みはなかった。
最初に迎えに行く後輩の家には、予定より少し早く着いた。
深緑のパーカーを着た後輩は、すでに家の前で待っていた。黒いリュックと、捕手用具の入った大きなバッグを持っている。
「おはようございます」
「おはよう。早いな」
「先輩も」
後輩は捕手用具を荷室へ積み、助手席へ乗り込んだ。
「寝られましたか」
「一応」
「肩は?」
「少し重い。痛くはない」
「昨日と同じくらいですか」
「たぶん」
「分かりました」
大丈夫ですね、とは言わなかった。
それ以上も聞かず、足元のリュックから投球ノートを取り出す。
「朝から見るのか」
「最後の確認です」
「書いた本人だろ」
「書いたから全部覚えているとは限りません」
僕の複数のチェンジアップが、後輩の決めた記号で分類されている。練習での反応や、使う場面まで細かく書かれていた。
「試合中に見る余裕ある?」
「ベンチに戻ればあります。先輩は投げることだけ考えてください」
当然のように言われ、僕は前を向いた。
次に迎えた遊撃手は、コンビニの前で紙コップを持って立っていた。黒い服と明るい髪は、朝の町ではやけに目立っている。
後ろのドアを開けるなり、遊撃手が言った。
「おはよう、エース」
「その呼び方やめろ」
「先発なんだから合ってるだろ」
「相手にもエースくらいいる」
「じゃあ、うちのエース」
「もっとやめろ」
遊撃手は笑いながら荷物を積んだ。
「調子は?」
「肩は重いけど、痛みはない」
「なら、いつも通り投げりゃいいだろ」
簡単に言って、座席へ深くもたれる。
後輩が振り返った。
「いつも通りに投げるのが、一番難しいんです」
「お前ら、試合前から重いな」
「誰のせいだ」
車を出すと、遊撃手はコンビニの袋を探り始めた。
「コーヒー飲む?」
「結構です」
後輩が即答する。
「真面目だねえ」
「遊撃手さんが適当すぎるんです」
「俺は平常運転」
くだらない会話が続いた。
高校時代なら、試合当日の移動中も、相手打者や配球のことばかり考えていた。少しでも気を抜けば、そのまま試合まで崩れてしまうような気がしていた。
今は、後輩が準備をして、遊撃手がどうでもいい話をしている。
僕は運転だけしていればいい。
「今日の相手、どんなチームだっけ」
遊撃手が聞いた。
「レッドホッパーズです」
後輩が答える。
「社会人になってからも野球を続けている人が中心です。極端に強くはないですが、大崩れもしないと思います」
「ちゃんと調べてるじゃん」
「山岸さんが資料を送っていました」
「俺には来てないけど」
「グループに送られていました」
「ああ。じゃあ見てないわ」
「でしょうね」
後輩はノートを閉じた。
「同じ年代で野球をしていた人なら、先輩を知っているかもしれません」
「僕を?」
「二年しか経っていませんから」
僕にとっては、もっと長かった。
けれど、外から見れば二年しか経っていない。
覚えている人間がいても、おかしくはなかった。
「有名人は大変だな」
「別に有名じゃない」
「少なくとも俺よりは有名だった」
「比較対象が悪い」
「ひどくない?」
商店街へ戻ると、肉屋の前に三人の姿があった。
濃い色のジャージを着た肉屋。白いシャツの上に薄い上着を羽織った布団屋。茶色い鞄を抱えた山岸さん。
肉屋が大きく手を振る。
「遅いぞ!」
時計を見る。集合時間の十分前だった。
車を寄せると、肉屋が荷物を持って近づいてきた。
「おう、エース。いい顔してるじゃねえか」
「朝からその呼び方やめてください」
「親父さんには呼ばれたんだろ?」
「なんで知ってるんですか」
「さっき聞いた」
商店街で秘密が守られると思った僕が間違っていた。
肉屋が笑いながらスライドドアを開ける。
「今日は勝って、うまい肉を食おう」
「肉は試合後ですよ」
布団屋が後ろから言った。
「分かってるよ」
「昨日は朝から焼くと言ってました」
「冗談だ」
「半分くらい本気でしたよね」
「半分なら冗談だろ」
山岸さんが僕のところへ来た。
「肩は?」
「重さはあります。痛みはないです」
「そうか」
山岸さんは、持っていた鞄を軽く叩いた。
「登録証は全部ある。元四番は現地集合だ。忘れ物がなければ出よう」
肉屋と布団屋が荷物を積み込む。
すぐに後部座席から遊撃手の声が上がった。
「狭いって。肉屋のおっちゃん、身体半分にできない?」
「お前が外を走れ」
「試合前に疲れるだろ」
「じゃあ黙って詰めろ」
車内には、人数分の荷物と声が詰まっていた。
僕は運転席へ戻り、全員が乗ったことを確認する。
これから、試合へ行く。
僕がもう一度、試合で投げる。
実感はまだ薄かった。
けれど、逃げ出したいとは思わなかった。
「行くぞ」
「おう」
肉屋の声が、すぐ後ろから返ってきた。
白いワゴン車は商店街を抜け、初戦の会場へ向かって走り出した。




