行ってこい、エース
目を覚ましたとき、部屋の中はまだ薄暗かった。
枕元のスマートフォンへ手を伸ばす。
午前五時二十二分。
最初の目覚ましが鳴るまで、あと八分あった。
画面を見たまま、しばらく動かなかった。
寝直そうとは思わなかった。
布団をめくり、床へ足を下ろす。
前日の疲れが太腿と腰に少し残っている。肩にも、投球練習を続けてきたぶんの重さはあった。
痛みではない。
だから、それ以上は確かめなかった。
三つ設定していた目覚ましをすべて解除する。
立ち上がり、カーテンへ手をかけた。
開くと、朝の光が部屋へ流れ込んだ。
二年前から机の上に置かれている硬球。
練習で使った新しいボール。
十一番のユニフォーム。
使い込んだグラブ。
昨日のうちに準備を終えていたものが、明るくなった部屋の中に並んでいる。
忘れ物がないことは、何度も確認した。
それでも、もう一度だけバッグを開く。
ユニフォーム。
アンダーシャツ。
ベルト。
ソックス。
スパイク。
グラブ。
後輩のノート。
全部入っていた。
ファスナーを閉じ、バッグを肩へかける。
階段を降りると、味噌汁の匂いがした。
店の照明はまだついていない。
奥の台所で、父が湯気の立つ鍋をかき混ぜていた。
「早いな」
「目が覚めた」
「珍しいこともあるもんだ」
「試合だから」
「そうか」
父はそれ以上何も言わず、テーブルへ茶碗を置いた。
白い飯。
味噌汁。
焼いた鮭。
卵焼き。
普段の朝より、少しだけ品数が多い。
「これ、父さんが作ったの」
「他に誰がいる」
「卵焼き、焦げてる」
「嫌なら食うな」
僕は椅子へ座り、箸を取った。
焦げている部分は少し苦かった。
味噌汁は濃い。
それでも、全部食べた。
父は向かいには座らず、流し台の前で自分のコーヒーを飲んでいた。
「集合、何時だ」
「七時。何人か迎えに行く」
「軽トラじゃ狭いだろ」
「何往復かする」
「裏の車を使え」
父が壁に掛けてあった鍵を外し、テーブルへ置いた。
酒屋の配達で、ときどき大量の荷物を運ぶときに使うワゴン車の鍵だった。
「今日、使わないの」
「午前の配達は軽トラで足りる」
「父さん一人で?」
「いつもやってる」
「重いのがあったら残しといて」
「試合の日まで店の心配するな」
「試合だからって店がなくなるわけじゃないだろ」
父はコーヒーを飲み、短く息を吐いた。
「帰ってからやれ」
「勝ったら遅くなるかも」
「負けても遅くなるだろ」
「何で」
「反省会とかいうので、どうせ集まる」
否定できなかった。
元四番や肉屋なら、勝っても負けても喫茶ヤマギシへ行こうと言い出すはずだった。
「山岸さんも乗せるのか」
「商店街で拾う」
「遅れるなよ。あの人は時間にうるさい」
「知ってる」
「昔、五分遅れただけで先発外された」
箸が止まる。
「父さんが?」
「昔の話だ」
「何の先発?」
父は答えず、空になったカップを流しへ置いた。
「早く食え」
「もう食べた」
僕は食器を重ね、流し台へ運ぶ。
「置いとけ」
「これくらいやるよ」
「ユニフォーム汚すなよ」
「まだ着てない」
「今日一日で泥だらけになるだろ」
「野球だから」
昨日と同じやり取りだった。
父は食器を受け取り、水を流す。
僕はバッグを持ち、店へ出た。
シャッターはまだ閉じている。
いつもなら瓶やケースが並んでいる場所に、僕の道具だけが置かれていた。
父から渡された鍵を握る。
店の裏へ回ると、白いワゴン車が止まっていた。
荷室には、選手たちのバッグを積めるように、普段置いてある空きケースが下ろされている。
父が昨夜のうちに片づけたのだろう。
運転席の扉を開けようとしたところで、店の裏口が鳴った。
父が出てくる。
「何」
「これ」
小さな保冷バッグを渡された。
「飲み物?」
「おにぎり」
「さっき食べたけど」
「昼まで持たないだろ」
「肉屋さんが弁当持ってくる」
「あいつのは試合前に食うな」
「布団屋さんにも言われてた」
「まともなやつがいるんだな」
「肉屋さんもまともだよ」
「知ってる」
父は短く答えた。
僕は保冷バッグを助手席へ置く。
元相方から、早朝に届いていたメッセージを思い出した。
『最初の一球、楽しめ』
返事はまだしていない。
何と返せばいいのか分からなかった。
楽しめるかどうかも分からない。
マウンドへ立てば、怖くなるかもしれない。
打たれるかもしれない。
思った場所へ、一球も投げられないかもしれない。
それでも、会場へ行かない理由にはならなかった。
運転席へ乗り込もうとする。
「おい」
父に呼ばれた。
振り返る。
父は裏口の前に立っていた。
濃紺の作業着。
日に焼けた顔。
白髪の混じった短い髪。
いつもと変わらない格好だった。
「何」
父は何かを言いかけ、一度口を閉じた。
「忘れ物するなよ」
「確認した」
「登録証は」
「山岸さんが持ってる」
「グラブは」
「入ってる」
「スパイク」
「入ってる」
「ならいい」
父は店へ戻ろうとした。
僕も運転席へ身体を向ける。
「行ってこい」
背中から声が届いた。
僕は足を止める。
続く言葉は、少し間を置いてから聞こえた。
「エース」
振り返らなかった。
代わりに、片手だけを上げる。
父がそれを見たかどうかは分からない。
運転席へ乗り込み、エンジンをかける。
助手席には、父が作ったおにぎり。
後ろの荷室には、これから仲間たちの道具が積まれる。
最初に迎えに行くのは後輩だった。
その次に遊撃手。
元四番は、会場で直接合流する。
商店街では山岸さんと肉屋と布団屋が待っている。
全員を乗せたら、初戦の会場へ向かう。
ワゴン車をゆっくりと発進させる。
バックミラーの中で、酒屋の裏口が小さくなっていく。
朝の商店街には、まだ人がほとんどいない。
閉じたシャッターの上を、柔らかな光が滑っていた。
甲子園へ行くためでもない。
プロになるためでもない。
失った二年間を取り戻すためでもない。
僕はこれから、野球をしに行く。
それだけのことが、少し楽しみだった。
第一章を読んでくださって、ありがとうございました。
ここまで主人公たちの再出発を見届けてもらえて、とても嬉しいです。
止まっていた時間が少しずつ動き出し、ようやくみんなが同じ方向を向き始めました。
そして、ここで少しだけ――
この先の物語に関わってくる三人を紹介します。
一人目は、金髪で左投げの高校一年生。
無邪気で、まっすぐな少年です。
二人目は、ショートカットのおしゃれな女の子。
道行く人が思わず振り返るような、べっぴんさんです。
三人目は、ジーンズを使ったカジュアルな服装がよく似合う女の子。
一年生の少年とも、おしゃれさんとも、ある関わりを持っています。
はてさて、三人は主人公とどんな関係なのでしょうか。
なぜ、この三人がこの先の物語に登場するのか。
味方なのか、ただの観客なのか。
それとも、主人公の心を揺らす存在なのか。
三人が主人公を見て、何を思うのか。
そして、次に立ちはだかる相手が、どんな選手なのか。
少しでも気になってもらえたなら、嬉しいです。
次章からは、いよいよ試合が本格的に動き出します。
もう一度マウンドに立った主人公が、そこで何を取り戻していくのか。
ぜひ、続きも見届けてもらえたら嬉しいです。




