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12/31

大会前夜

 初戦までの時間は、思っていたより早く過ぎた。


 平日の朝は後輩と投げた。


 全体練習では、走者を置いて守備の動きを確認した。


 外野からの返球を誰が中継するのか。


 一、三塁になったとき、二塁への送球をどうするのか。


 バントされたとき、誰がどこへ入るのか。


 高校時代なら、声に出さなくても分かっていたことが、今のチームでは一つずつ止まる。


 元四番と遊撃手は昔の動きを覚えている。


 けれど、肉屋と布団屋は同じ野球をしてきたわけではない。


 外野手たちも、卒業後に別々のチームで違うやり方を覚えていた。


 最初は送球が重なった。


 誰も入っていない塁へ投げたこともある。


 後輩がホームベースの後ろから声を出し、布団屋が守備位置を少しずつ直した。


 遊撃手は軽口を叩きながら、空いた場所を埋めた。


 肉屋は細かいサインを覚えることには苦戦したが、一度理解すると間違えなかった。


 元四番は四番を主張し続けながら、練習が終わったあとも一人でゴロを受けた。


 昔の形へ戻るのではなく、今の人間で動ける形を探す。


 その繰り返しだった。


 僕の投球数も、少しずつ増えた。


 三十球。


 四十球。


 打者を立たせて五十球。


 球速が高校時代まで戻ったのかは分からない。


 測っていないし、測りたいとも思わなかった。


 それよりも、後輩が構えた場所へ投げられたか。


 真っすぐとチェンジアップで、同じ腕の振りができたか。


 右へ逃げるようになった新しいチェンジアップを、偶然ではなく投げられたか。


 考えることはいくつもあった。


 肩に異常はなかった。


 投げた翌日に腕が重いことはある。


 下半身にも疲れが残る。


 けれど、それは投げた人間の身体に起こる、ごく普通のことだった。


 試合前日の夕方。


 最後の配達を終えて家へ戻ると、玄関脇に大きなバッグが置かれていた。


 父が店の奥から出てくる。


「邪魔だぞ」


「今片づける」


「明日持ってくんだろ」


「ああ」


「なら、そこでもいい」


 どちらなのか分からない。


 僕はバッグを持ち上げ、二階へ運んだ。


 自室のカーテンは開いていた。


 朝、開けたままにしていたらしい。


 西日が机の上へ差し込み、硬球の縫い目を照らしている。


 二年前から置かれていた球。


 最初に手に取ったときは、握り方を指が覚えていることだけを確かめた。


 今は、その隣に新しいボールがいくつか置かれている。


 練習で使ったものだった。


 僕はバッグを床へ置き、中身を一つずつ取り出した。


 十一番のユニフォーム。


 濃い緑のアンダーシャツ。


 ベルト。


 ソックス。


 スパイク。


 グラブ。


 着替えとタオル。


 後輩から渡された、小さなノートも入っていた。


 僕が投げる球種と、変化の特徴が書かれている。


 真っすぐ。


 真下に落ちるチェンジアップ。


 沈みながら少し外へ逃げる球。


 打者の手元で小さく沈む球。


 高校時代には全部まとめて同じ名前で呼んでいた。


 後輩は、それぞれの横に仮の記号を振っていた。


 明日は打者の反応を見ながら使い分けるらしい。


『勝手に決めるな』


 最初に見せられたとき、僕はそう言った。


『名前をつけてください』


『全部チェンジアップでいい』


『サインが出せません』


『指で分ければ』


『試合中に何本も指を出したくありません』


 結局、正式な名前は決まらなかった。


 後輩の記号だけが残った。


 僕はノートを閉じ、グラブの横へ置いた。


 スマートフォンが震える。


 商栄スターズのグループチャットだった。


『明日、七時に商店街集合で合ってる?』


 遊撃手からだった。


『合ってる』


 僕が返すと、元四番が続ける。


『俺は直接行く』


『寝坊するなよ』


『お前に言われたくない』


『六時に電話してあげようか』


『やめろ』


 肉屋から写真が送られてくる。


 四十四番のユニフォームが、店の奥に掛けられていた。


『準備完了』


 その下には、大きな弁当箱が三つ並んでいる。


『それ全部食べるんですか』


 後輩が聞く。


『チームの分だ』


『肉しか入ってないように見える』


 遊撃手が返す。


『何が悪い』


『試合前に重そう』


『力が出るぞ』


 布団屋が、


『試合後にしましょう』


 と送る。


『冷めるだろ』


『保冷してください』


『布団で包むか』


『肉の匂いがつくのでやめてください』


 いつものように会話が脱線していく。


 明日が初戦だという緊張感は、画面の中にはほとんどなかった。


 それでいいと思った。


 僕まで何かを書こうとして、やめる。


 代わりに、山岸さんから送られてきた最終確認を読む。


 集合時間。


 車の割り振り。


 ユニフォーム。


 登録証。


 飲み物。


 試合開始の一時間前には会場へ到着すること。


 最後に、


『遅刻した選手は先発から外します』


 と書かれている。


 元四番がすぐに反応した。


『主将にも適用?』


『もちろん』


 山岸さんが返す。


『投手いなくなりますよ』


『遊撃手君がいる』


『急に現実的』


 僕はグループチャットを閉じた。


 目覚ましを午前五時半に設定する。


 念のため、五時四十分にも設定した。


 さらに五時五十分。


 三つ並んだ時刻を見て、自分でも多いと思った。


 以前なら、翌朝に予定があっても、起きられるかどうかを考えるだけだった。


 誰かから連絡が来れば起きる。


 父に呼ばれれば起きる。


 起きられなければ、それまで。


 そんなふうにしていた。


 明日は違う。


 僕が起きなければ、先発投手が来ない。


 仲間を迎えにも行けない。


 登録した名前だけが会場へ着いても、試合は始まらない。


 スマートフォンが、もう一度震えた。


 今度はグループチャットではなかった。


 元相方からの個別メッセージ。


『準備できたか』


『一応』


 既読がつく。


『緊張してる?』


『別に』


『してるな』


『してない』


『二回否定するやつはしてる』


 後輩と似たことを言う。


『明日試合だろ』


『知ってる』


『勝てそう?』


 僕は返信欄を開いたまま、少し考えた。


 レッドホッパーズは、僕たちより長く一緒にプレーしている。


 守備も連携も上だ。


 僕がどこまで投げられるのかも、実戦にならなければ分からない。


『分からない』


 そう返す。


 元相方からの返信は早かった。


『それでいい』


 続けて、もう一件。


『一試合勝ったら、次の一試合を考えろ』


 喫茶ヤマギシで言われた言葉だった。


 優勝。


 プロ選抜。


 元相方との対戦。


 そこまでは、まだ遠すぎる。


 明日の相手と、最初の一球。


 今はそれだけでいい。


『分かってる』


 僕は返信し、スマートフォンを伏せた。


 机の上には、新しいユニフォームと、使い込んだグラブが並んでいる。


 明日、試合がある。


 それは高校を卒業してから初めて、眠る前に思うことだった。


 部屋の照明を消す。


 カーテンの隙間から、商店街の明かりが細く差し込んでいた。


 布団へ入って目を閉じる。


 眠れないかもしれないと思った。


 けれど、身体には練習と配達の疲れが残っていた。


 肩の状態を確かめる代わりに、明日の最初の打者を考える。


 真っすぐから入るか。


 チェンジアップを見せるか。


 後輩は、どこへ構えるだろう。


 答えが出る前に、意識がゆっくりと沈んでいった。

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