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第十章 第九公演『一夜のワルツ』

 時間というものはあまりにも残酷だ。一秒たりとも過ぎないでほしいと願っても、誰しも平等に流れていく。

 本番を控え、俺たちが待機している楽屋では、ホールクロックが無慈悲に時を刻み続けている。できるなら、あの進みゆく針を、すぐにでも指で止めてしまいたい。それで時が永遠に止まり、ローラを死なせずに済むのであれば、どんなに救われることだろう。そのような空想を思い描いてしまうのは、普段から架空の物語ばかり考えているからだろうか。


 周りを見ても、やはりみんなの表情は暗いままだ。死にゆくローラを黙って見届けることしかできないのだから、無理もない。いつも励ましてくれるローラも、今回は自分のせいだと思ってか、何も言おうとしなかった。


「みんな、顔を上げてくれ」


 うつむいてばかりいるみんなを見かねて、俺は手を叩いて声を張る。


「みんなが辛い思いをしているのはわかる。それでも俺たちは、ローラが幸せだったと思えるようにベストを尽くすって誓ったんだ。せめて、悔いの残らないように公演をやり遂げよう」


 俺の呼びかけに賛同し、みんなは無理にでも元気を取り戻そうとしてくれた。俺は申し訳なさが募り、ローラも目に涙を浮かべていた。


 劇場スタッフに呼ばれ、俺たちは楽屋を後にする。前の団体がこちらに退場してくるとともに、舞台のほうから司会の声が聞こえてきた。


「以上より、全日程が終了いたしました。ですが、本日は最後にサプライズ公演をご用意しております! それでは、ローリエ劇団のみなさん、準備をお願いいたします!」


 司会の言葉を聞き、観客席が瞬く間に沸き始める。知らなかった人たちのどよめきと、すでに知っていた人たちの歓声とで、半々といったところだ。

 さあ行くわよと、ローラがいつものかけ声を上げようとするも、思うように声が出ない。俺は励ますようにローラの背中をさすり、代わりに声を上げた。


「さあ行こう、みんな!」

「オー!」


 みんなもローラを鼓舞しようと、鬨の声を上げてくれる。俺はローラと一緒に歩みだし、みんなを引き連れながら入場した。


 先に十五分間の仕込みを終え、俺たちはそれぞれ配置に就く。その頃には、ローラも迷惑をかけまいとしてか、涙を拭っていつもの真剣な顔つきになってくれていた。

 ローラから司会に合図を送り、程なくしてアナウンスが響き渡る。


「ただいまより、ローリエ劇団による『一夜のワルツ』を上演いたします」


 緞帳がゆっくりと開かれ、ローラと行う最後の演劇が始まった。まずはマスコロさんの合図により、フトゥーロくんと女の子の二人が舞台に上がっていく。

 『一夜のワルツ』は、幼少のころに両想いとなった、貴族とメイドの物語だ。まずは、貴族役であるフトゥーロくんが、「大人になったら結婚しよう」と愛の告白をする。それに対し、女の子は屈託のない笑顔でうなずいた。


 暗転幕を挟み、今度は俺が、成人した貴族役として上手から登場する。舞台の中央まで歩いたところで、メイド役のローラが後を追うように上手から走ってきた。


「ホービィ!」


 ローラの呼び声に反応して振り向く。そして、「ディアナ」と、俺は彼女の名を口にした。

 ローラが幸せそうに笑う一方で、俺は表情を曇らせる。俺が両手を広げると、ローラは指を絡めるように握り、頭を俺の胸に寄せた。

 続けて、ローラが潤んだ目を向け、無言のままハグを求めてくる。だが、俺はその求愛に応じれず、葛藤のあまり黙り込んでしまう。その理由を示すように、下手から怒鳴り声が聞こえてきた。


「息子から離れなさい、この悪女め!」


 現れたのは、俺の母役を務める女性。そばに来るなり、母は俺たちの手を引き剥がし、そしてローラの頬を思いきり叩いた。


「お止めください、母上!」


 慌てて制止する俺に対し、母は憤怒の表情をそのままに言う。


「あなたがいつまでも優柔不断だから、私が代わりに止めてあげているのよ、ホービット。あとは私が始末しておくから、あなたは部屋に戻りなさい」

「しかし……」

「私の言うことが聞けないの?」


 有無を言わせない母に対し、俺は逆らえずにうなだれる。そして、大人しく引き下がり、下手へと退場した。

 舞台では、母がローラに罵声を飛ばしながら、続けて平手打ちを食らわせている。これが、ホービットがディアナの求愛を拒む理由だ。皮肉にも異なる身分で生まれてしまったために、周囲が二人の恋を許そうとしないのである。


 もう少しエピソードを織り交ぜたかったが、俺たちには時間がない。王城から馬を走らせたとして、ベルティーナ嬢の従者がここに辿り着くまで、およそ四十五分ほど。それまでの短い間に、俺たちは劇を完遂し、従者の手から逃げきらなければならない。

 懐中時計で時間を確認した裏方が、残り二十五分の合図を送る。俺たちは迅速に、次の演技に取りかかった。


 俺と父役の男性が舞台に上がり、父が俺に、貴族の女性から縁談を受けたと告げる。そして、ディアナへの恋心を知ったうえで、あのメイドのことは忘れなさいと命令した。

 俺は両親に逆らうことができない。その後のシーンでローラと会い、苦々しげにありのままを伝える。次に、思いの丈を口にした。


「僕は君を愛している。だからこそ、僕は君を危険な目に遭わせたくない。だから、ディアナ――」


 ローラが俺の口に手を添えて、言葉を遮る。そして、とめどなく涙を流しながらも、満面の笑みを浮かべて言った。


「あなたにここまで愛してもらえて、私は幸せ者だわ。もう私のことは気にしないで。どうか、その女性と幸せになって、ホービィ」


 俺は愛おしさのあまり、彼女を手放したくない想いを爆発させる。今まで求愛に応じれなかった俺は、ローラの手を引き、強く抱き締めた。


「もう。そんなにされたら苦しいわ、ホービィ」


 ローラは俺を抱き返しながら、なおも笑顔を取り繕う。二人で抱き合ったまま、暗転幕が静かに閉じられた。


 裏方が残り二十分の合図を送る。ここまで閉じていた引割幕を開き、俺たちは次のシーンを開始した。

 舞台の奥には、クロスを敷いた長テーブルがすでに設置されている。ホービットの両親が、縁談のために用意した会食会場だ。テーブルの周りには、五人ほどの従者たちが立ち並び、警備に当たっていた。


 今にも会食が始まりそうな様子に、張り詰めた空気がホール全体に漂う。まずは父と母の二人が上手から現れ、これからのことについて話し合った。

 見合い相手が来る約束の時間まで、あと五分を切ったようだ。母が不機嫌そうに、あの雌猫はどうなったのと尋ねる。すでに解雇していると父が答えると、母は鼻歌交じりに小躍りした。


 間もなくして、見合い相手である貴族役の女性が登場する。女性が先に会釈し、二人はにこやかに挨拶を返した。

 しかし、二人はすぐ異変に気づくことになる。主役であるホービットが、一向に姿を見せないのだ。

 怪訝な顔を浮かべる女性。父が焦りを募らせる一方で、母は瞬く間に激昂し、従者たちに命じた。


「あの猫がまた邪魔をしているのね! 早くあいつを捜し出しなさい!」


 従者たちが慌てて捜索に向かおうとしたところで、暗転幕。引割幕も同時に閉じ、次のクライマックスに備えた。

 ここから先は、俺とローラ、バトラーさん、マスコロさん、そしてパグの五人で劇を進行する。つまり、それ以外の団員たちには、ここで劇場から逃げてもらうこととなる。


「ローラお姉ちゃん……」


 マスコロさんが指示するも、みんなはなかなか足を動かそうとしない。特に、フトゥーロくんを始めとする子どもたちが、諦めきれずに最後まで残ろうとしていた。

 罪悪感を押し殺し、俺からも逃げろと呼びかける。もしみんなまでもが殺されてしまっては、ローラの覚悟が無駄になってしまう。みんなは辛そうにしていたが、それでも我慢して逃げる決心を固めてくれた。

 ローラが涙ながらにハグをし、子どもたちに別れを告げる。モグリーさんたちが苦渋の色を浮かべながら、子どもたちの手を引っ張って舞台から離れていく。次第にみんなの姿が見えなくなり、ローラは涙を拭って演技の準備を始めた。


 受け取った懐中時計に目を向けると、残された時間はあと十五分。パグにより暗転幕が開かれ、先にローラが巾着袋を担ぎながら舞台に上がっていった。

 主人から解雇を言い渡され、ディアナは意気消沈しながら屋敷を去ろうとする。それに気づいたホービットが、すぐに後を追ってディアナを呼び止める場面だ。


「ディアナ!」


 大声とともに登場すると、ローラは振り向き、唖然としながら尋ねてきた。


「どうして付いてきたの?」

「どうしても忘れられないんだ、君のことが!」


 俺はあふれんばかりの想いを口にする。ローラはぽろぽろと涙をこぼし、俺に駆け寄って抱きついた。


「私もよ、ホービィ! あなたと一緒にいられなくなるくらいなら、死んだほうがましだわ!」


 演技を重ねていくごとに、俺の心は揺らいでいく。今、俺たちも逃げだしてしまえば、ベルティーナ嬢に殺されずに済むと、未練がましく考えてしまう。

 だが、俺もローラも演劇の人間だ。舞台に立った以上、演劇は絶対である。自分たちの私情で演劇を止め、観衆を失望させるわけにはいかない。


 泣きだしそうになるのを堪えながら、俺はローラを抱き締め続ける。すると、ローラが次の台詞を口にした。


「お願い、ホービィ。ご主人さまを裏切った私は、いずれ処刑される。その前に、あなたとの思い出を作りたいの」


 俺はハグを止め、唇を噛みながらもこくりとうなずいた。


 ローラと向かい合って両腕を上げ、片方の手を握り、もう一方の手でローラの背中を支える。ローラは空いた手を俺の腕に添えた。

 俺たちの構えを見て、観衆もこれから何が行われるかを察したようだ。クライマックスのシーンで、俺たちはワルツを踊ることにしたのである。


 バトラーさんによる、グランドピアノの演奏が始まった。王城での社交ダンスでもよく弾いていた、『白鳥』という円舞曲だ。

 この円舞曲は、パートが前半と後半に分かれている。前半では、まだ羽ばたけない雛鳥の未熟さや無邪気さを、軽やかな音色で表現する。

 本番になって、上手くワルツを踊れずにいる俺は、まさにその雛鳥を体現しているかのようだった。決して練習を怠っていたわけではない。ただ、これが終わればもうローラと一緒にいられなくなると思うと、涙があふれて止まらなかったのだ。


「泣いているの?」


 俺の醜態を見かねてか、ローラにアドリブでからかわれる。だが、俺がローラの顔を見ると、彼女の頬にも涙が伝っていることに気づいた。向きになって「お互いさまだろ」と言い返すと、ローラは「そうだね」と言ってクスリと笑った。


 ローラにからかわれた少しばかりの怒りが、俺の緊張をほぐしてくれる。心なしか足取りは軽くなり、肩の力も抜けていた。

 俺は満を持して、ローラのエスコートを始める。片手を離して自由にさせると、ローラは花畑に放たれて喜ぶ蝶のように、ターンを繰り返した。


 バトラーさんの演奏が後半に差しかかる。後半では音程を上げ、ついに羽ばたく麗しい姿を壮大に演出していく。

 目の前で優雅に踊る彼女を、俺は心から美しく、愛おしいと思った。彼女の華やかな演技と振る舞いが、見る者すべての心を満たし、彩る。そんな彼女だからこそ魅了されたのだと、俺は昔に抱いた気持ちを思い出した。


 体をのけぞらせるローラの腰を支え、戻ってくる体を受け止める。同時に、『白鳥』の演奏が終盤に近づき、俺たちの二度とないワルツが終わりを迎えようとする。

 俺とローラは目を合わせた。お互いを求めるように、そして、お互いの心を通じ合わせるように。

 ローラが目を閉じて、俺にすべてを委ねてくれる。俺はそっと顔をうずめ、彼女の柔らかな唇に触れた。彼女と結ばれた喜びを噛み締めながら、演奏が静かに終わり、暗転幕が閉じられた。


 暗転幕を閉じてもなお、俺もローラも、すぐに口づけを止めようとしない。この一時が永遠に続いてほしいと願ってしまったのだ。

 だが、舞台の上では演劇がすべてであり、私情を挟むことは許されない。俺にそう言い聞かせるかのように、ローラは口づけを止めて俺から離れた。

 ローラが涙をこぼしながらも、懸命に笑顔を見せる。そして、観衆に聞こえないよう小声で語りかけた。


「優しい人たちに恵まれて、そしてあなたに会えて、本当に幸せだった。今のあなたなら、私の代わりにローリエ劇団を牽引できるって信じているわ。さようなら――愛しているわ、アスーム」

「ローラ……!」


 俺が未練がましく手を伸ばそうとしたとき、不意に背後から腕をむんずと掴まれる。振り向くと、俺を止めたのはバトラーさんだった。血が滲み出そうなほどに歯を食いしばりながらも、バトラーさんはローラの意志を尊重しようとしている。


「ありがとう、おじい」


 バトラーさんに礼を言うと、ローラは涙を拭い、最後の演技を始めた。遅れて来たパグから椅子と紐を受け取り、椅子に腰かけて紐を自分の体に巻きつける。準備ができたところで、ローラは淡々と台詞を言った。


「その後、私はご主人さまたちに捕らえられ、拷問部屋で磔刑を受けることとなりました」


 バトラーさんに引っ張られる形で、俺は舞台を後にする。マスコロさんの合図に応じ、パグが暗転幕を開いた。すべての役目を終えたところで、二人もローラに背を向けて走りだす。

 俺は失意の中、パグやバトラーさんに腕を引かれ続けた。ローラの姿が徐々に遠のき、やがて台詞が微かに聞こえてくるのみとなる。


「たとえ私が死しても、私と彼の愛が潰えることはありません。さようなら、愛しの人。度重なる転生の先で、またあなたと再会できることを切に願っています」


 途端、ローラの台詞を遮る、一発の銃声。ごとりと重々しく響き渡る落下音。空気が張り裂けるような人々の悲鳴に呑まれながら、俺たちは理解する。恐れていた結末が、ついに訪れてしまったのだと――。


 視界が歪み、呼吸が乱れる。自力で立っていることすらままならない。三人の懸命な呼びかけが、俺の砕け散りそうな心をつなぎ止めようとしてくれた。

 だが、一向に止まらない涙と、一切を呑み込むほどの絶望で、もはや何も見えない。自分がどこにいてどこへ向かうのか、何もわからないまま、俺はひたすらに足を動かすことしかできなかった。

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