第九章 尽くすと決めた人
村での仕事を終えて帰宅し、三人で昼ご飯を食べていた、いつもどおりのある日のこと。バトラーさんが、ローラの艶やかな金髪に目をやりながら言った。
「ローラさんの髪も、すっかり伸びてしまいましたな」
ローラも言われて初めて気づいたようで、肩甲骨の辺りまで伸びた髪を指で撫でた。
俺たちがブライダル城から逃亡してから、かれこれ二年が経過している。北風が吹く厳しい環境下での生活にも慣れ、すっかりこの村の一員として馴染んでいた。
村で変わった点があるとすれば、生活水準がこれまでと比べて高まったことだ。チュニックやマントを着られるようになったし、食事もパンや肉を毎日食べられるようになっていた。穴だらけだった家の壁だって、今では余すことなく補強を行っている。これらはもちろん、俺たちローリエ劇団が今も成功を収め続けているからにほかならない。
今やジオカーレ劇場では、ローリエ劇団とダンザの二組が人気を独占している。人気投票でも、ダンザとはいまだに首位争いを繰り返している状況だ。
一から脚本を作って劇を披露するという、俺たちのスタイルは今も変わっていない。だがその中でも、『ストレイ』をシリーズ化したのは初めての取り組みと言えよう。
最初の公演以来、観客たちの間で続編を望む声が多く上がった。ストレイのミステリアスな人間性と、彼女を追うソルとの絡みが気になるとのことだ。その要望に応え、新たなシナリオで二本ほど公演を行っている。
意外だったのが、『ストレイ』が子どもたちの人気も得られたことだ。冷酷な彼女に信条や良心を見出したのか、ストレイは幅広い年齢層に受け入れられた。以前にはストレイの仮装をした女の子まで見かけており、一緒にいたローラがメロメロになっていた。
ジオカーレ劇場での地位を確立していった俺たちだったが、念願のアテナ出場はまだ確定していない。ローリエ劇団とダンザのどちらを出場させるかで、リシャール王は頭を抱えておられるようだ。四年に一度のチャンスを掴むために、俺たちは数か月後の決定までにアピールを続けているところである。
昼食のあと、俺とローラは予定どおり、次の公演に向けて劇場の予約を取りに向かった。
ちなみにパグはというと、モグリーさんに服の修繕を手伝うよう言われたらしく、今回は一緒にいない。「せっかくのチーノちゃんと会えるチャンスが」と、パグが悲痛の叫びを上げていたのは言うまでもない。
馬に乗って雪道を駆け、時間をかけずに城下町へ。下層から上層へと歩を進め、やがてジオカーレ劇場に到着する。
劇場の裏口へ入っていくと、別の団体が窓口で手続きをしているのが見えた。小太りの体と赤い長髪、ライバルである二人の姿ももはや見慣れたものだ。
「ごきげんよう。近頃はよく会いますわね、お二人とも」
ローラの優雅な挨拶に反応し、二人が振り向く。チーノが晴れやかな顔になる一方で、団長は「げっ」と言わんばかりの嫌そうな顔を浮かべた。
「目障りな連中だな、全く! 何度か一位になれたからって、調子に乗るな!」
いつものように怒鳴るダンザの団長に対し、ローラは落ち着き払った様子で言う。
「あら、そこまで向きになってくれるなんて、よほどライバル視してくれているのね?」
「うるさい! 貴様らなんぞ、これっぽっちも評価しておらんわ!」
「前のシーズンでも確か、私たちが一位だったわよねえ」
「偶然だよ、ぐ・う・ぜ・ん!」
ローラとダンザの団長の口喧嘩も、今となってはすっかり見慣れたし、むしろ微笑ましくすらある。二人が盛り上がっている横で、俺とチーノは互いに目を合わせ、呆れたようにクスリと笑った。
「いいか、ローリエ劇団!」
ダンザの団長が俺たちを指差しながら叫ぶ。
「貴様らが現れてからの戦績は、お互いに四勝四敗、つまりイーブンだ! 次の結果次第で、どちらがアテナに出場するかが決まると言っていいだろう。これまでとは比べものにならんくらいのすごいバレエに仕上げてくるから、覚悟しておけ!」
一通り言ってのけると、ダンザの団長はふんと大きく鼻を鳴らし、去っていった。チーノも笑顔で俺たちに手を振り、後を追っていく。
「ダンザの実力は本物だし、すごいバレエに仕上げるというのも本当でしょうね。ここが正念場よ、アスーム」
気合に満ちた顔で言うローラに対し、俺も力強くうなずいてみせた。
俺たちも予約のために、踵を返して窓口に向かおうとしたとき。突然、廊下のほうからチーノたちの悲鳴が聞こえてくる。
仰天して振り向くと、チーノたちが怯える理由が理解できた。廊下から、たんぽぽ色のドレスを着た女性が、二人の衛兵を引き連れて現れる。衛兵たちが両手に抱えているのは、レプリカなどではない、本物の銃だ。
こちらをじっと見つめているあたり、女性はチーノたちではなく俺たちに用があるのだろう。様子が気になったのか、チーノたちも廊下から戻り、女性に気づかれないようにしながら覗いていた。
「ごきげんよう。私を覚えておいでですか?」
嫌味にも思えるほどのかしこまった言葉遣いで、女性はローラに尋ねる。ローラは驚きを隠せない様子でいたが、それも無理はない。俺も、彼女のことは執事だったころからよく覚えている。
ベルティーナ・リシャール・ブライダル。ローラ、もといロリアーナ嬢の妹君。昔から変わらない蛇のような鋭い目に、懐かしい嫌悪感が込み上げてくる。
「ベル……。私たちを尾行してきたってことは、もう私の正体はとっくにお見通しなのね?」
顔を青ざめながら尋ねるローラに対し、ベルティーナ嬢はにこりと笑みを浮かべて言う。
「ご安心なさいな、お姉さま。お姉さまは演劇を続けたいでしょうから、まだお父さまには報告していませんわ。もしそんなことをしたら、お姉さまは演劇を止めてまで国王にならなければいけなくなりますもの」
その言葉を聞き、チーノたちもローラの正体に気づいてしまったらしい。チーノははっと息を呑み、ダンザの団長も驚きのあまり口をあんぐりと開けていた。
だが、ローラが二人を気にする様子はない。正体がばれることよりも、演劇が続けられなくなることのほうが重大なのだろう。
ベルティーナ嬢の返事を聞き、ローラは心の底から安堵して言った。
「ありがとう、ベル。今の私には演劇がすべてだから――」
ローラがベルティーナ嬢を信用し、目の前まで歩み寄ったときだった。ベルティーナ嬢の顔がみるみるうちに醜悪になり、近づくローラの頬を思いきり叩いたのだ。
「ローラ!」
俺はすぐさま、床に倒れ込んだローラのもとへ駆け寄った。そして、やはりベルティーナ嬢を信頼すべきでなかったと、傍観に徹していたことを後悔する。
ベルティーナ嬢の態度は、王城にいたときから変わっていない。ローラに対してまともに口を利かず、陰で悪態をついてばかりいた。
だがローラは、そんなベルティーナ嬢を責めようとしなかった。自分に何か至らないところがあるのかもしれないと考えたからだ。
だからこそ、俺もベルティーナ嬢の数々の無礼には目を瞑ってきた。だが、ローラに手を上げるような真似は、俺とてさすがに看過できない。
憤りを露わにして睨むと、ベルティーナ嬢は蔑んだ目をそのままに言い放った。
「一緒に逃亡したという、この女の忠犬ね。この私を誰だと心得ているの? 私はリシャール王の次女、ベルティーナ・リシャール・ブライダルよ! 身のほどを弁えなさい! 私は今、この女と話しているのよ!」
臆せずに歯向かおうとするも、ローラが俺のズボンを掴んで引き止める。ローラには逆らえず、俺はしぶしぶベルティーナ嬢から退いた。
よろよろと立ち上がり、腫れた頬を手で押さえながら、ローラは言う。
「ベル、気づかないうちにあなたの恨みを買ってしまっていたなら謝るわ。でも、報復をするなら私だけにしてちょうだい。ほかの団員やアスームには手出ししないで」
「それじゃあ報復にならないでしょう?」
ベルティーナ嬢は本性を剥き出しにし、おぞましい笑みを浮かべて言った。
「お姉さまは正義感が強いから、自己犠牲を厭わない。そんなお姉さまを徹底的にいたぶるには、お姉さまの大切な仲間を狙うのが手っ取り早いのよ」
笑みをそのままに、ベルティーナ嬢は手を上げて衛兵たちに命じる。衛兵たちもベルティーナ嬢を恐れているのだろう、顔を真っ青にしながら俺に銃口を向けた。
「だめ!」
ローラが俺の前に立ち、大手を広げて庇おうとする。愉悦に満ちた顔を浮かべ、ベルティーナ嬢は言葉を続けた。
「私も悪魔ではありませんわ。要求を呑んでくれたなら、この忠犬も殺さずにいてあげましょう。ローリエ劇団を解散し、もう二度と演劇をしないと私に誓いなさい。さもなければ、王女の誘拐犯として、この忠犬やほかの団員たちをみな殺しにして差し上げますわ」
恐怖と絶望で息を荒らげながら、震えた声でローラは問う。
「止めて……どうして……どうしてそんな酷いことをするの? 私たち、子どものころから一緒に過ごしてきた仲でしょう?」
「だからこそよ!」
笑顔から一変し、ベルティーナ嬢は憎悪に満ちた顔を浮かべて言った。
「私はね、あんたが大っ嫌いなのよ。一秒たりとも、あんたの死を望まなかったことはないわ。せっかく恵まれた環境で生まれたのに。私がすべてを手に入れられるはずだったのに。あんたが少し先に生まれた、たったそれだけで! あんたは私が手に入れるはずだったものを奪っていく! ただ暗殺するだけじゃあ、私の腹の虫は治まらないのよ!」
実の妹にここまで暴言を吐かれ、相当なショックを受けたのだろう。ローラはぽろぽろと涙を流し、一言も口が利けないまでになってしまった。
そんなローラを見て、愉快そうに笑いながら、ベルティーナ嬢は言う。
「お姉さまが演劇を続けようとしているか否かは、劇場の掲示板を見れば判断できることでしょう。せいぜい賢明な判断をなさいな、お姉さま。大切な仲間を殺されたくなければ……」
ベルティーナ嬢の目玉がぎろりと動き、向けられる。窓口にいる劇場スタッフに、そして、廊下に隠れているチーノたちに。殺気立った目つきをそのままに、ベルティーナ嬢は口を開く。
「あなたたち、わかっているわよね? 私がここに来たことを告げ口すれば、誰の仕業であろうと全員殺してやるわ」
劇場スタッフとダンザの団長は、声が出ないほどに竦み上がった。チーノに至っては恐怖のあまり、腰を抜かして大粒の涙をこぼしている。
それらとローラの顔を見て、十分に脅しつけたと満足したらしい。ベルティーナ嬢は高らかに笑いながら、衛兵たちを引き連れて歩き去っていった。
相手がいなくなったところで、俺はローラに駆け寄って声をかける。ローラは感情の整理ができないのか、涙だらけの顔を両手で押さえ、その場にしゃがみ込んだ。
チーノも気が気でない様子でいた。だが、ダンザの団長に腕を引っ張られ、一緒に去ってしまう。静寂を打ち破るように、ローラの咽び泣く声が辺りにこだました。
かける言葉が見つからないまま、時間だけが過ぎていく。ようやく落ち着いて泣き止んだかと思うと、ローラは頬の涙を拭うことなく立ち上がった。そして、やつれた顔のまま俺に言う。
「帰りましょう、アスーム。村のみんなにも、ローリエ劇団を解散するって話さなくちゃ」
とぼとぼと歩く後ろ姿の、なんと痛ましいことか。俺はやるせない気持ちになったが、かと言って俺にローラを励ますことはできない。命令なんか無視すればいいと言おうものなら、それは死ねと言っているも同然だ。
結局命令に従うことしかできず、俺も意気消沈しながらローラの後に続く。ベルティーナ嬢もチーノたちもすっかりいなくなり、俺たちは無人の廊下から外へ出た。
「わあ、ローラ団長とアスームさんだ!」
その途端、俺たちの姿を見た一人の通行人が声を上げた。それを皮切りに、一斉に群衆の視線が俺たちに注がれる。そして、俺たちの顔色を見て、何かあったのかとみんなして心配してくれた。
しかし、ありのままに真実を話すことはできない。そんなことをすれば、ローラがリシャール王のご息女であると知れ渡ってしまうからだ。
先ほど劇場の予約を取り止めているし、俺たちに演劇をする気はもうない。そのことをみんなに謝らないかと耳打ちすると、ローラは唇を噛みながらこくりとうなずいた。
ローラから話の口火を切ろうとしたとき、予想だにしないことが起こる。元気がない俺たちを見かねてか、みんなが次々に激励の言葉を口にし始めたのだ。
「私たちはずっとあなたたちを応援しているわ! だから元気出して!」
「次の公演も楽しみにしているぞ、ローリエ劇団!」
俺たちは呆然と立ち尽くした。舞台の上以外で、ファンたちからこれほどまでの声援をもらうのは初めてだったのだ。
俺たちローリエ劇団のことを期待し、背中を押してくれる人たちがこんなにいる。そのことを思い知らされたのか、ローラはまたあふれ出てきた涙を両手で受け止めた。
腕でごしごしと涙を拭い、ローラは笑顔でみんなの声援に応える。そして次に、信じられないことを口にした。
「任せてちょうだい、みんな! 次もとびきり面白い劇をお見せするわ!」
俺は目を見開き、慌ててローラの発言を阻止しようとした。しかし、ローラは手の平を向けて遮り、聞く耳を持とうとしない。
わあっと歓声が上がる中、ローラはドンと胸を叩いて言葉を続ける。
「今から三か月後の頭に、ここで新しい劇を披露するわ。公演ポスターは訳あって作れないけど、必ず公演を行うって約束する。期待して待っていてちょうだい!」
ローラの宣言を聞き、みんなの声援はさらに湧いた。
俺はなおも呆然とするばかりだ。おそらくは、応援してくれるみんなを裏切ることはできないと考えてのものだろう。だが、もし公演を行ってしまえば、自分たちはベルティーナ嬢に殺されてしまう。ローラが巻き添えにしようと考えているとは到底思えないが、一体どういうつもりなのだろうか?
ローラに腕をポンと叩かれることで、俺はわれに返る。衝撃のあまり言葉を失っている俺に対し、ローラは意気込みを露わにしながら呼びかけた。
「さ、アスーム。劇場の予約を取りに行くわよ。宣伝は一切しないという条件付きでね」
先に裏口へと向かっていくローラに対し、俺は黙って付いていくことしかできなかった。
予約を行っているときも、その後に馬を走らせているときも、ローラは意図を話さないままだ。城下町から雪原に出て、人気がすっかりなくなってもなお、それは変わらなかった。
俺が不可解に思う中、前を走っていたローラが突然馬を止めた。そして、今にも沈み込もうとしている、眩いばかりの夕日を眺める。
無言の時間が続いた。空が茜色の光を失い、星々と月明かりに照らされるようになっても、ローラは視線を外そうとしない。今、ローラはどういう心境で、これらの景色を眺め続けているのだろうか。しんしんと降る雪が肩や頭に積もろうとも、ローラはそれを振り払おうとしなかった。
「ローラ……」
痺れを切らし、俺はローラに声をかける。ローラはわれに返ったようにはっとし、振り向くことなく俺に言った。
「脅迫のこと、心配してる? 大丈夫よ、あなたたちを危険に晒すつもりはないわ」
その一言を聞き、俺はほっと胸を撫で下ろす。だが、「あなたたち」と主語を強調したことに違和感を覚えた。
「一体どうするつもりだ? 何を考えている?」
俺の問いに対し、ローラは一つ深呼吸をし、落ち着いた口調で答える。
「公演はする。でも、あなたたちを殺させはしない。次の脚本を、私だけが最後に残るよう作り直すの。あなたたちは劇の途中で逃がして、私が舞台の上で囮になるわ」
俺は息を呑んだ。思えば、いつもは予約のあとに必ず台本を印刷していたのに、今回はそれをしなかった。あれは忘れていたのではなく、意図があってのものだったのだと理解する。
だが当然、その言葉を鵜呑みにできるはずもなく、俺は声を荒らげて反発した。
「そんなこと、俺が……みんなが受け入れるはずがない!」
「アスーム」
ローラがすぐさま俺の言葉を遮る。そして、淡々と胸の内を話し始めた。
「私はね。自分のわがままのために、お父さまの期待を裏切って王の責務を放棄した、最低な女よ。本当はすぐにでも処刑されるべき人間だったの。お父さまが許しても、きっと神さまが許してくれなかったんだわ。だからせめて、私に残された使命を全うする。たとえ死しても、楽しみにしてくれているみんなのために、私は演劇をやり遂げなければならないの」
俺はすぐに言葉を返すことができなかった。ローラの覚悟は本物だ。身勝手に逃げだしておいて、死にたくないから王城に戻るなどという言い分は許されないと、本気で考えている。
芸術家として人生を最期まで全うすることが、王の責務に取って代わるけじめだと言うのならば。この気高き勇者を、一体誰が止めることができようか。絶望に呑まれながらも、俺は彼女の決断を尊重しなければならないと思わせられた。
だが、ローラはまだ一つ、俺に隠していることがある。ローラは決然たる態度で意志を告げたが、心はまだ覚悟を決められていない。長年の付き合いだから、ローラが今、虚勢を張っていることくらいはわかる。
「泣いているんだろ。辛いんだろ、ローラ」
「……そんなことない」
俺が言うと、ローラはなおも振り向くことなく、首を振ってはぐらかした。
馬から降りて駆け寄り、ローラの腕を掴んで無理やり振り向かせる。そして、ローラの顔を見ると、案の定だった。ローラは一切声を上げることなく、大粒の涙をぽろぽろとこぼしていた。
やはり、どれだけ重責を担おうとしても、死ぬのは怖いのだ。無茶をするなと俺は言おうとしたが、ローラに説教を聞く気はないらしい。そっぽを向いて涙を隠しながら、ローラは自らを奮い立たせるように言う。
「私は、王の責務を捨ててまで演劇の道を選んだの。そんな私に、命惜しさに逃げるなんて選択肢は残されていないわ。だから止めないで、アスーム」
立派な決断だと思う。だがそれ以上に、あまりにも辛い決断だと感じた。ローラは今、俺たちには計り知れないほどの苦痛を味わっているに違いない。
俺はふと、遠い昔に言われた言葉を思い出した。今は亡き母が最期に残した言葉だ。
俺もチーノと同じく、元々は庶民の人間だった。浮気していた父に見捨てられ、ブライダル城下町の下層に、母と二人で暮らしていた。
睡眠時間を削ってまで働き、収入を生活費と教育費に充ててくれた母。ほかにも、王家の家令であるオルガさんに直談判し、俺が執事になるための仲介もしてくれている。
ずいぶんと無理をしてきた母は、不治の病を患い、若くして息を引き取った。その際、俺が一人前の執事になるために、残してくれた言葉がある。
――心から信頼できる人を見つけて、忠誠の限りを尽くしなさい。
俺が尽くすと決めた人は、明るく純真で、夢にひたむきな女性だった。俺の彼女を敬う気持ちは、たとえ執事の立場でなくなってもなお、消えることはない。
だからこそ、何もかも一人で抱え込もうとする彼女を見て、俺は心から願ったのだ。彼女が辛いときに支えてあげられるような、強い人間になりたいと。
ローラの腕をそっと引き、馬から降ろして向かい合わせる。戸惑うローラに構わず、俺はその小さな体を強く抱き締めた。
突然のことに、呆然と立ち尽くすローラ。俺は腕を緩めることなく、思いの丈を口にする。
「甘えたっていいんだ、ローラ。いや、俺にだけは甘えてくれ」
「アスーム……」
「どんな結末を迎えようと、俺は最後までおまえを支える。初めておまえと会ったときから、おまえにこの身を捧げるって誓ったんだ」
今までは隠し通すつもりでいた、切なる想い。今は、彼女の支えになりたくて、どうか届いてほしいと強く願っている。
ローラは俺の抱擁を拒まなかった。背中をぎゅっと掴んで抱き締め返し、そして大声を上げて号泣する。
彼女の涙を受け止めながら、俺も今までにないほどの悲痛に襲われる。ローラとは、これからもたくさんの時間を共に生きたかった。たくさんの幸せを築いていきたかった。それらが叶わなくなるのが悔しくて、涙の粒が俺の頬にも伝う。
こんなところを誰かに見られたら恥ずかしいと、ローラが言った。心配はいらないと、俺は答える。今は粉雪が、俺たちの涙を優しく覆い隠してくれているから。
村へ戻るなり、俺たちはみんなを外へ呼び出した。そして、ベルティーナ嬢の脅迫とローラの決心について打ち明ける。理解を得られなければ、演劇と計画の両方をこなすことができないと考えたからだ。
ローラの命を懸ける覚悟を聞き、みんなは衝撃のあまり言葉を失ってしまう。一回聞いただけで、みんながすんなりと鵜呑みにすることはまずないだろう。
だから、俺は率先して土下座し、誠意をもってみんなを説得した。最後までローラを支えると誓った手前、死んでほしくないという私情を挟むつもりはもうない。すべてはローラの願いを叶えるためだ。
長い葛藤の末、最初に口を開いたのはバトラーさんだった。苦渋の思いながら、ローラの決断を最後まで尊重し、支持してくれるらしい。
マスコロさんは、なかなか首を縦に振ろうとしなかった。それでも、決断を拒むことでローラを苦しめてしまうのならと、最終的にはしぶしぶうなずいてくれた。そして、一言だけローラにお願いする。
「せめて、お嬢ちゃんの選択、そして人生を、後悔のないものにしてやりたい。だから、もし何か望みがあったら、遠慮なく言ってくれよ。俺たちでできる限り叶えてやるから」
ありがとう、その時はお願いするわと、ローラは笑みを浮かべて返事する。マスコロさんはもう、無理をしてでも笑顔を返すことしかできないようだった。
モグリーさんやほかのみんなも、ローラの決心を次々に受け入れてくれる。そして、ローラとの別れを惜しみ、ローラの肩を叩いたりハグをしたりしてくれた。ずっとローラを慕っていたフトゥーロくんも、涙ながらに受け入れ、ほかの子どもたちを説得してくれていた。
ここで突然、ずっと口を開かなかったパグが、ローラではなく俺に歩み寄る。そして、俺を立ち上がらせ、背中を強く叩いて言った。
「ローラもだけど、おめえもすげえよ、アスーム。ローラが死ぬって決めて、おめえも相当つれえ思いをしてるだろうに」
まさか褒められるとは思わず、俺は目を丸くする。パグは次にローラのほうを振り向き、決意を露わにした。
「今までからかうような真似をしてごめんな。おめえが幸せだったって思えるよう、おいらもベストを尽くすからよ」
大丈夫、ありがとうと、ローラはパグに言葉を返す。そして、みんなの優しさに触れ、またほろりと涙をこぼした。
深夜の会話もほどほどに、俺たちはみんなと別れて帰宅する。そのまま羊毛布団に入り、お休みなさいを告げて目を閉じた。
しかしながら、ローラがいなくなる喪失感のあまり、なかなか眠りに就くことができない。寝息が聞こえてこないあたり、ローラもバトラーさんもきっと同じなのだろう。
俺はマスコロさんを見倣うことにした。悲しんでばかりいるより、これからでも自分にできることを考えたほうがいい。そのほうが精神的に楽だし、ローラのためにもなる。
決意を胸に、今度こそ眠ろうとしたときだった。もぞもぞと、俺の布団の中に何かが忍び込んできたのだ。
驚きながら、体を横に向けて注目すると、それは隣に眠るローラの腕だった。伸ばした右手で俺の左手を握り、頬を染めながらこちらをじっと見つめている。
俺が動揺している間に、ローラはとうとう体ごと俺の布団に入り込んだ。そして、肘を畳んで身を寄せ、俺の胸に顔をうずめる。
どう応じるべきか悩んだが、ローラには先ほど、俺にだけは甘えてくれと頼んでいる。もしローラが俺を心の拠り所としてくれているのなら、それを拒むわけにはいかない。
緊張しながらそっと抱き締めると、ローラは俺の顔を見上げてえへへと笑い、言った。
「ハグって、こんなに心地よいものなんだね。胸がポカポカする」
そうだなとうなずき、俺はローラの頭をそっと撫でた。
朦朧とする意識の中で、俺は切に願う。俺たちローリエ劇団を、そしてローラを襲う悲劇が、すべて悪い夢でありますように。これから先、何にも阻まれることなく、この幸せな時間がいつまでも続いてくれますように。
それらが儚い希望であると幾度も思い知らされながら、あっという間に三か月が過ぎてしまった。




