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元勇者だけどたまに猫になる魔王と一緒に暮らしてレストランやってます。この関係は誰にも言えません  作者: 甘城ソウヤ
第4部:遠き日の記憶と、冷たい祈り

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第89話 『スープの約束と、鉄の算盤』

 パチ……パチ、パチ、パチ。


 魔王城の奥深く、結界で守られた執務室。分厚い石壁越しにすら地鳴りと爆発の振動が伝わってくる中、魔界の会計徴収官ルシウスは、ただひたすらに鉄の算盤を弾き続けていた。


「……ゼノン。もう少し、もう少しだけ耐えてください」


 祈るような気持ちでデータを解析する手を休めないルシウス。

 教会上層部から魔界の過激派へと流れた莫大な横領資金と武器のデータ、これのつながりを探すため複雑な解析式を構築していた。これを突破し、過激派の物資供給ラインの座標を特定できなければ、この反乱を根本から止めることはできない。


 ドォォォンッ!!


 窓の外で、一際大きな爆発光が瞬いた。

 その瞬間、ルシウスの算盤を弾く指がピタリと止まった。

 魔王城下の町を覆い尽くしていた、あの巨大な漆黒の魔力反応が、限界を迎えて急速に萎縮していくのを感じ取ったのだ。


「……っ!」


 ルシウスは強く唇を噛みしめ、己の無力さに苛立った。

 計算が間に合わない。

 このままでは、あの不器用でお人好しな魔王代理が、本当に文字通り『消滅』してしまう。


 その時だった。

 ルシウスの震える手が、ふと、自身の執務服の胸ポケットに触れた。

 ひんやりとした、硬い感触。

 そこに忍ばせた、魔王様から託された物を、彼は掌でそっと確かめる。


「……そうか」


 ルシウスの算盤を打つ手が止まる。

 全ての断片が埋まり、黒幕への道筋が浮かび上がった。


「まだまだ休む暇はなさそうですね」


 一息つく間もなく、彼はゼノンのもとへ向かうべく執務室を飛び出した。



 ――戦火に包まれた魔王城の正門前では、地獄のような光景が広がっていた。


 ズドォォォォンッ!!


「撃て! 撃ち続けろ! あの盾ももう限界だ!」


 過激派たちが放つ炎や雷の極大魔法が、城を覆う超巨大な漆黒のスライムに次々と直撃する。凄まじい衝撃を受けるたび、スライムの表面からボロボロと黒い粒子が剥がれ落ちていく。

 それはただの魔力ではない。削られているのは、ゼノンの命そのものだった。


「あぁ……っ、うぁぁぁぁっ!」


 空を覆う漆黒の盾の中から、ゼノンの苦悶の叫びが響き渡る。

 痛覚などとうに麻痺している。それでも、自分の存在が削られていく絶対的な恐怖が、彼の精神を容赦なく苛んでいた。


「もうやめてくれ、魔王代理! アンタが死んじまう!」


「逃げてくれぇっ、ゼノン!」


 背後で守られている魔界の民たちが、涙を流して悲痛な声を上げる。


「……どきません……っ」


 ゼノンの身体が崩れ始め、自分に残された時間が少ないことを把握する。

 だがそれでも、彼は防御をやめなかった。


「ボクが……ボクが護るんです……っ! 魔王様が帰ってくる、この場所を……!」


 ゼノンの魂の絶叫。

 だが、無情にも限界は訪れた。致命的な極大魔法が直撃し、漆黒の盾に巨大な亀裂が走る。維持しきれなくなった質量が、黒い雨のように崩れ落ちていく。


「あ……」


 ゼノンの意識が、白く塗りつぶされていく。

 空を覆っていた盾は完全に霧散し、魔王城の正門が無防備な姿を晒した。


「やったぞ! 盾が消えた! 突撃しろぉぉっ!」


 過激派たちが歓喜の雄叫びを上げ、崩れ落ちた城門へと殺到しようとした、その時だった。


「おじいちゃん、連れてきた」


 戦場の喧騒を切り裂くように、ひどく平坦で、透き通るような声が響いた。


「……え?」


 過激派の先陣が足を止める。

 崩れた城門の瓦礫の上に、アメシスト色の髪を風に揺らす少女、ルルが立っていた。


「はぁ、はぁ……っ。よぉ、時間かかっちまってすまねえな……」


 その後ろから、全身を泥だらけにし、息も絶え絶えになった大泥棒ギャレットが這い上がってきた。


「み、みんな……」


 ゼノンが、微かな声を漏らす。


「なんだ、このガキと薄汚い盗賊は! 邪魔だ、退け!」


 過激派がルルたちに杖を向けた、次の瞬間。


 ギシィィィィィッ……!!!


 魔界の空気が、重力そのものが数倍に跳ね上がったかのように軋みを上げた。

 呼吸すら困難になるほどの、圧倒的で、底知れない『死』の重圧。


「……な、なんだ、この魔力は……っ!?」


 過激派たちが恐怖に顔を引きつらせ、次々とその場に膝をつく。

 ルルの背後、暗雲が渦巻く空から、一本の古木のような杖をついた老人が、ゆっくりと降臨した。


「……薄汚い有象無象が。我が孫娘の歩む道を、その汚らわしい足で塞ぐか」


 理詰めの翁の地を這うような低い声が、戦場に轟いた。

 彼は路地の隅で、もはや人の形を保てず、黒い液体の塊となってへたり込んでいるゼノンの残滓を一瞥した。


「……泥の塊よ。貴様の覚悟、確かに見させてもらったぞ」


 翁が杖を石畳に突き立てると、凄まじい衝撃波が円状に広がった。

 それだけで数百人の過激派が意識を刈り取られ、糸が切れた人形のように次々と崩れ落ちていく。


 理詰めの翁の加勢に心を打たれた魔界の民たちも協力し、残った過激派たちへと怒涛の反撃を開始した。


 戦局は、少しずつ覆っていく。やがて、戦火が収まりはじめた。

 ゼノンの防壁はいつの間にか消え、戦場の気配だけが静かに残っていた。


「……魔王代理としての務め、見事に全うしたな」


 翁が厳かに呟く。皆が静まり返る中、ルシウスが遅れて駆けつけた。


「なにをやってるのです、ゼノン。書類は全部片付いてませんよ」


 ルシウスはそう告げると、一度だけ短く、安心したようにため息を吐いた。

 眼鏡の奥の瞳をわずかに潤ませ、彼は目元を拭うように指先で眼鏡の位置を直す。

 胸のポケットに手を伸ばし、一粒の黒曜石を取り出し、液体の塊へと放り投げた。


 石が底へと沈み、波紋が広がる。

 それを核として、黒い泥が意思を持つように蠢き始めた。

 ぷるぷるとした塊が形をなし、やがて見慣れた灰色の髪を持つ青年の姿へと再構築されていく。


「……っ」


 元の姿を取り戻したゼノンは、パクパクと口を動かすだけで言葉が出てこない。

 ただ涙目で自分の手を何度も握りしめ、震えていた。


「あ、あれ……? ボク、生きてる……? ここは……」


 ゼノンが周囲を見渡すと、そこにはルシウスだけでなく、無表情なルルや傷だらけのギャレット、そして静かに佇む翁の姿があった。


「み、みんな……!」


 ゼノンの大きな瞳から、ポロポロと大粒の涙が溢れ出す。


「泣いている暇はありませんよ、ゼノン」


 ルシウスが冷徹な、しかしどこか温かい声で告げる。


「さあ、起きてください。魔王様の店が再開したら、アルフレッド殿にまた胃に優しいスープでも作っていただきましょう。それまでは、徹夜で残業です」


「ひぐっ……ルシウスの、鬼ぃぃ……!!」


 ゼノンが泣きながらも立ち上がる姿を見て、魔王城下町に安堵の笑い声が広がっていった。

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