第88話 『逃げ場のない食卓と、泥の絶対防御』
ビィィィィン……ッ!!
屋根の上。逆光を背に受けて立つ弓聖リディアの放った一本の矢が、アルフレッドの首筋に迫っていた暗殺者の毒刃を粉砕し、背後の柱を深々と穿った。その神業に、狂信者たちの波が一瞬だけ静まり返る。
「……助かった、リディア」
アルフレッドが言った、その直後だった。王都の空を覆う分厚い暗雲が、轟音と共に真っ二つに割れた。
「待たせたな! そいつは、わしに任せろおぉぉ!」
雷鳴を切り裂いて降臨したのは、泥だらけの作業着を纏った元聖騎士団長、グレゴリウスだった。彼は大地を穿つ勢いで信者たちの群れの奥へと着地すると、その豪腕で愛用のクワを大きく振り被った。
「わしのクワに比べれば、貴様らの陣形など柔らかすぎるわ!」
ドゴォォォォンッ!!
英雄の一撃が、大地を耕すように炸裂する。その刃は、教会の兵士が掲げていた対魔王兵器『ジャミング・クリスタル』を、台座もろとも完全に粉砕した。
「どうじゃ! やってやったぞい!」
と痛快に笑いながら、グレゴリウスは大きく跳躍して、アルフレッドたちの横へと戻ってくる。
「……なっ!?」
教会の兵士が驚愕の声を上げた瞬間。王都の空気を縛り付けていた高周波音が消え去り、押し殺されていた魔力が一気に吹き出した。
「……ふん。調子に乗ったな、羽虫ども」
『キッチン・ブラン』の店先。魔力を封じられていたディアボロの深紅の瞳が、無慈悲な怒りをもって冷酷に光る。
「我が城の庭先を汚した罪、その命で贖うがいい。一分子も残さず灰にしてくれる」
彼の白磁の指先に、世界を終わらせるほどの圧縮された黒い炎が灯った。邪魔なクリスタルが消えた今、彼が指を弾けば、この路地裏に群がる数千の信者など一瞬で消し飛ぶ。
「やめろ!!」
アルフレッドが、血を吐くような声で叫んだ。
「あいつらは操られてるだけの王都民だ! 殺すな!」
その悲痛な声に、ディアボロの指先がピタリと止まる。膨れ上がった殺意は、行き場を失ったまま、呆気なく霧散した。
「ええい、どきなさい銀髪! あんたの野蛮な炎じゃ、街ごと消し飛ぶわ!」
ディアボロの前に、深紅のローブを静かに翻して割り込んだのは、大賢者エリアーナだった。彼女が杖を天へと掲げると、首筋の亀裂が激しく発光し、膨大な魔力が路地裏に溢れ出す。
「不殺の炎壁 (パクス・フォイヤー・ヴァント)!!」
彼女の杖から放たれたのは、熱を持たない優しく巨大な炎だった。それは狂信者たちを傷つけることなく、柔らかな壁となって彼らを路地の外へと押し出していく。
そして炎は『キッチン・ブラン』をすっぽりと覆い尽くし、外部からの干渉を完全に遮断する巨大な光の繭を形成した。
ドンッ! ガンッ!
光の壁の外から、狂信者たちが無機質に壁を叩き続ける音が響き始める。
「……これで、外の連中は手出しできないわ。でも……」
エリアーナが、悔しげに唇を噛んだ。
「私たちも、中から一歩も出られない」
完璧な防御。だがそれは、見方を変えれば完璧な『断絶』だった。絶対的な力を持て余したまま閉じ込められた、檻の完成だった。
――その数刻前。
遥か遠く、分厚い暗雲に覆われた魔界は、地獄のような戦火が吹き荒れていた。
「魔王様はどうした!?」
「ゼノン様、助けてください!」
燃え盛る街の中で、逃げ惑う魔界の住人たちが悲鳴を上げる。教会から流れた聖なる武器を掲げる過激派の前に、城の正門がついに突破されようとしていた。
「そこを退け! 王のいない城など、ただの空き箱だ!」
過激派が極大魔法の詠唱を始める。絶望に誰もが目を閉じた、その時。崩れかけた城門の前に、一人の男が進み出た。
「……はぁ、はぁ……」
魔王代理、ゼノン。服は焦げ、顔色は死人のように青白い。いつものように胃を押さえて泣く余裕すらなく、ただ、震える足で必死に立っていた。
「退け、ゼノン! 貴様ごと消し飛ぶぞ!」
だが、ゼノンの脳裏に浮かんでいたのは、かつて自分を掬い上げてくれたあの白磁の手と、温かいスープを出してくれたあの小麦色の笑顔だった。
「……どきません。魔王様も、アルフレッドさんも……手は出させません!!」
ゼノンの全身から、命の火を燃やすような魔力の奔流が噴き出した。
「たった一人でも……ボクが、死んでも護らなきゃいけないんですぅ!!」
その叫びと共に、ゼノンの体がどろりと漆黒の液体となって崩れ落ちた。溢れ出した液体は、瞬く間に魔王城下町を完全に覆い尽くすほどの、巨大な漆黒のスライムへと姿を変えた。
「なっ……なんだあれは!?」
「構うな! 撃てぇぇっ!!」
過激派たちが一斉に魔法を放つ。それらすべてを、巨大なスライムが静かに吸い込む。だが、魔法を受けるたびに、ゼノンの命は確実に削られていく。
それでも、彼は一歩も引かなかった。
「ボクだって……みんなを護りたいんですよぉぉぉ!!」
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