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元勇者だけどたまに猫になる魔王と一緒に暮らしてレストランやってます。この関係は誰にも言えません  作者: 甘城ソウヤ
第4部:遠き日の記憶と、冷たい祈り

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第87話 『波打つ狂信と、狩人の目』

 王都の空は、分厚い灰色の雲に覆われ、どこか息苦しいほどの重さを孕んでいた。だが、職人街の路地裏にある『キッチン・ブラン』の厨房には、いつもと変わらない平和な音が響いていた。

 トントンと野菜を刻む包丁の音。そして、ジュワァァと厚切りのベーコンが自らの脂で香ばしく焼ける音だ。


「……アルフレッド。ベーコンの焼き加減、一分子の狂いもないだろうな」


 窓際の特等席で、ディアボロが優雅に脚を組み、深く傲慢な声で急かしてくる。


「はいはい、わかってますよ。マスターの朝食ですからね。完璧に仕上げますよ」


 アルフレッドはディアボロに、にっこりと笑って返した。

 焼き上がったベーコンと目玉焼き、そして香ばしいパンを皿に乗せ、アルフレッドがカウンターへ運ぼうとした、その時だった。


 バンッ!!!


 裏口の重い樫の扉が、蝶番を引きちぎらんばかりの勢いで蹴り開けられた。


「アルフレッド!!」


 転がり込んできたのは、全身を泥と擦り傷にまみれさせ、息も絶え絶えになったガイルだった。


「ガイル!? どうした、その怪我は!」


 アルフレッドが皿を置き、駆け寄る。ディアボロも深紅の瞳を細め、形の良い眉を不快そうに寄せた。


「……我が城の朝の空気を乱すとは、万死に値するぞ」


「ディアボロ殿、すまない……! だが、事態は一刻を争う!」


 ガイルは床に膝をついたまま、血走った目でアルフレッドを見上げた。その目には、大粒の涙が浮かんでいた。


「エレン様が……教皇の手に落ちた! 彼女はもう、今までの彼女ではない!」


「……なんだと?」


 アルフレッドの心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。

 ガイルの声が、悔しさに震える。

 エレンの自我は教皇の杖によって消去され、温かな感情も、記憶も、全てを奪われた。その惨状を、レオナルドから報告されたという。


「記憶を奪われたと……?」


 アルフレッドの頭の中で、昨夜レオナルドが持ってきた手紙の一文がよみがえった。


『あの時のハグ、幸せでした』

 未来を語るはずの彼女が、なぜ過去形で締めくくっていたのか。彼女自身がこうなることを予感していたのではないか。


「……っ! 教会の奴ら……!」


 アルフレッドが怒りのこもった拳でカウンターを強く殴りつけた、その瞬間だった。ズズズズズ……。地鳴りのような、奇妙な音が店の外から響いてきた。


「……チッ。薄汚い羽虫どもが、我の城の庭先まで群れてきおったか」


 ディアボロが不機嫌そうに窓の外を睨む。アルフレッドが表の扉を開け、路地裏を覗き込んだ瞬間、背筋に氷を当てられたような悪寒が走った。

 路地裏を埋め尽くしていたのは、数百、いや数千に及ぶ『王都民』たちだった。誰もが瞳の光を失い、焦点の合わない目で宙を見つめている。


『――我ら選ばれし子羊に、異端を裁く剣を』


『――勇者様、我らのために、不浄なる魔を討ち果たさん』


 かつてヴァレリウスが残した予言『英雄は、いつか必ず自分の信者に殺される』その言葉が脳裏をよぎる。

 一般の王都民である彼らを、アルフレッドは力で斬り伏せるわけにはいかない。

 無数の手が、アルフレッドの漆黒のコックコートを掴み、引きずり込もうとする。


「くそっ……! 下がれ! 俺はもう勇者じゃない」


「アルフレッド!」


 ガイルが剣を抜き、峰打ちで王都民を遠ざけようと加勢する。


「……ふん。有象無象が。我が城を汚し、我が朝食の時間を奪った罪、その命で贖うがいい」


 店の中からディアボロがゆっくりと歩み出てきた。その深紅の瞳には、底冷えするような怒りが宿っている。白磁の指先に、黒い炎を灯そうとした。


「消え失せろ」


 ディアボロが指を弾く。――だが。


 キィィィィン……!!


 鼓膜を突き破るような高周波音が、王都の空に響き渡った。ディアボロの指先に灯りかけた黒炎が、チリッと音を立てて霧散する。

 信者たちの群れの奥、教会の兵士が掲げていたのは、人の頭ほどの大きさの『ジャミング・クリスタル』だった。真円の透明なクリスタルの中には濁った紫色の光が脈動している。


「……貴様ら、人間風情が……我が魔力を、再び封じたとでも言うのか!」


 ディアボロが屈辱に顔を歪める。魔法を封じられた彼を庇うように、アルフレッドが前に飛び出し、全身で信者たちの波を必死に押し返す。だが、その混乱こそが敵の狙いだった。

 信者たちの群れに紛れていた教会の暗殺者が、アルフレッドの死角へと滑り込む。

 手には猛毒の刃。回避は間に合わない。

 ガイルも遠い。万事休す。誰もがそう思った、次の瞬間だった。


 ヒュンッ!!!


 アルフレッドの首筋に届く数ミリ手前で、暗殺者の持っていた毒刃が、横から飛来した『一本の矢』によって粉砕された。


「……え?」


 暗殺者が間抜けな声を上げて動きを止める。


「……あんたたち、随分と野蛮な狩りをするじゃない」


 絶対的な自信に満ちた声が、頭上から降ってきた。アルフレッドたちが顔を上げると、逆光の太陽を背に受けて、屋根の上に立つ影があった。

 エメラルドグリーンのポニーテールを風に揺らし、手には巨大な剛弓を構えた女。

 弓聖、リディアだ。


「……私の『狩人の目』は、誤魔化せないわよ!」


 絶体絶命の窮地に、狩人の矢が突き刺さった。

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