第87話 『波打つ狂信と、狩人の目』
王都の空は、分厚い灰色の雲に覆われ、どこか息苦しいほどの重さを孕んでいた。だが、職人街の路地裏にある『キッチン・ブラン』の厨房には、いつもと変わらない平和な音が響いていた。
トントンと野菜を刻む包丁の音。そして、ジュワァァと厚切りのベーコンが自らの脂で香ばしく焼ける音だ。
「……アルフレッド。ベーコンの焼き加減、一分子の狂いもないだろうな」
窓際の特等席で、ディアボロが優雅に脚を組み、深く傲慢な声で急かしてくる。
「はいはい、わかってますよ。マスターの朝食ですからね。完璧に仕上げますよ」
アルフレッドはディアボロに、にっこりと笑って返した。
焼き上がったベーコンと目玉焼き、そして香ばしいパンを皿に乗せ、アルフレッドがカウンターへ運ぼうとした、その時だった。
バンッ!!!
裏口の重い樫の扉が、蝶番を引きちぎらんばかりの勢いで蹴り開けられた。
「アルフレッド!!」
転がり込んできたのは、全身を泥と擦り傷にまみれさせ、息も絶え絶えになったガイルだった。
「ガイル!? どうした、その怪我は!」
アルフレッドが皿を置き、駆け寄る。ディアボロも深紅の瞳を細め、形の良い眉を不快そうに寄せた。
「……我が城の朝の空気を乱すとは、万死に値するぞ」
「ディアボロ殿、すまない……! だが、事態は一刻を争う!」
ガイルは床に膝をついたまま、血走った目でアルフレッドを見上げた。その目には、大粒の涙が浮かんでいた。
「エレン様が……教皇の手に落ちた! 彼女はもう、今までの彼女ではない!」
「……なんだと?」
アルフレッドの心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
ガイルの声が、悔しさに震える。
エレンの自我は教皇の杖によって消去され、温かな感情も、記憶も、全てを奪われた。その惨状を、レオナルドから報告されたという。
「記憶を奪われたと……?」
アルフレッドの頭の中で、昨夜レオナルドが持ってきた手紙の一文がよみがえった。
『あの時のハグ、幸せでした』
未来を語るはずの彼女が、なぜ過去形で締めくくっていたのか。彼女自身がこうなることを予感していたのではないか。
「……っ! 教会の奴ら……!」
アルフレッドが怒りのこもった拳でカウンターを強く殴りつけた、その瞬間だった。ズズズズズ……。地鳴りのような、奇妙な音が店の外から響いてきた。
「……チッ。薄汚い羽虫どもが、我の城の庭先まで群れてきおったか」
ディアボロが不機嫌そうに窓の外を睨む。アルフレッドが表の扉を開け、路地裏を覗き込んだ瞬間、背筋に氷を当てられたような悪寒が走った。
路地裏を埋め尽くしていたのは、数百、いや数千に及ぶ『王都民』たちだった。誰もが瞳の光を失い、焦点の合わない目で宙を見つめている。
『――我ら選ばれし子羊に、異端を裁く剣を』
『――勇者様、我らのために、不浄なる魔を討ち果たさん』
かつてヴァレリウスが残した予言『英雄は、いつか必ず自分の信者に殺される』その言葉が脳裏をよぎる。
一般の王都民である彼らを、アルフレッドは力で斬り伏せるわけにはいかない。
無数の手が、アルフレッドの漆黒のコックコートを掴み、引きずり込もうとする。
「くそっ……! 下がれ! 俺はもう勇者じゃない」
「アルフレッド!」
ガイルが剣を抜き、峰打ちで王都民を遠ざけようと加勢する。
「……ふん。有象無象が。我が城を汚し、我が朝食の時間を奪った罪、その命で贖うがいい」
店の中からディアボロがゆっくりと歩み出てきた。その深紅の瞳には、底冷えするような怒りが宿っている。白磁の指先に、黒い炎を灯そうとした。
「消え失せろ」
ディアボロが指を弾く。――だが。
キィィィィン……!!
鼓膜を突き破るような高周波音が、王都の空に響き渡った。ディアボロの指先に灯りかけた黒炎が、チリッと音を立てて霧散する。
信者たちの群れの奥、教会の兵士が掲げていたのは、人の頭ほどの大きさの『ジャミング・クリスタル』だった。真円の透明なクリスタルの中には濁った紫色の光が脈動している。
「……貴様ら、人間風情が……我が魔力を、再び封じたとでも言うのか!」
ディアボロが屈辱に顔を歪める。魔法を封じられた彼を庇うように、アルフレッドが前に飛び出し、全身で信者たちの波を必死に押し返す。だが、その混乱こそが敵の狙いだった。
信者たちの群れに紛れていた教会の暗殺者が、アルフレッドの死角へと滑り込む。
手には猛毒の刃。回避は間に合わない。
ガイルも遠い。万事休す。誰もがそう思った、次の瞬間だった。
ヒュンッ!!!
アルフレッドの首筋に届く数ミリ手前で、暗殺者の持っていた毒刃が、横から飛来した『一本の矢』によって粉砕された。
「……え?」
暗殺者が間抜けな声を上げて動きを止める。
「……あんたたち、随分と野蛮な狩りをするじゃない」
絶対的な自信に満ちた声が、頭上から降ってきた。アルフレッドたちが顔を上げると、逆光の太陽を背に受けて、屋根の上に立つ影があった。
エメラルドグリーンのポニーテールを風に揺らし、手には巨大な剛弓を構えた女。
弓聖、リディアだ。
「……私の『狩人の目』は、誤魔化せないわよ!」
絶体絶命の窮地に、狩人の矢が突き刺さった。
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