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元勇者だけどたまに猫になる魔王と一緒に暮らしてレストランやってます。この関係は誰にも言えません  作者: 甘城ソウヤ
第4部:遠き日の記憶と、冷たい祈り

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第86話 『加護と、血塗られた兵器の目覚め』

 大聖堂の奥深く、三重の結界が張られた祈祷室を兼ねた自室。

 穏やかな午後の日差しが差し込む窓辺で、聖女エレンはベッドの上に広げた衣服を、愛おしそうに撫でていた。


 それは、神聖な純白の法衣ではない。

 黒を基調とした生地に、真っ白なフリルがあしらわれた、可愛らしいメイド服だった。


「ふふっ……。こんなことも、ありましたわね」


 エレンは、メイド服のシワを丁寧に伸ばしながら、小さく微笑んだ。


『キッチン・ブラン』に潜入するため、『レン』という偽名を使い、金縁眼鏡をかけて週に一度の掃除メイドとして働いていた日々。その服には、あの店に漂う芳醇なスパイスの香りと、少し焦げたバターの甘い匂いが、まだ微かに染みついている気がした。


 思い出すのは、広場での戦い。自分の目の前で、隠すことなく素顔を晒し、迷いなく包丁を振るってくれた彼の姿。


 もう、正体を隠す必要はない。ということは、自分も変装してコソコソと会いに行く必要はないのだ。

 これからは、堂々と胸を張ってあの白い扉を開けられる。「ただいま」と言えば、彼が「おかえり」と笑って、美味しい料理を出してくれる。


 エレンはメイド服を綺麗に四角く折り畳み、ベッドの端にそっと置いた。もう着る機会は、ないかもしれない。でも、これは自分が初めて見つけた「人間としての日常」の、大切な宝物だ。


「さあ、今日はどんな口実で抜け出しましょうか。……レオナルドを言いくるめるための、完璧な言い訳を考えませんとね」


 エレンは弾むような足取りで鏡の前に立ち、金色の髪を梳かし始めた。胸の奥が、温かい光で満たされている。あんなに冷たくて灰色だった世界が、今はこんなにも鮮やかに色づいている。


 扉の外では、護衛の現役騎士レオナルドが、エレンの楽しげな鼻歌を聞きながら、複雑な顔で立っていた。


 胃のあたりがチクチクと痛む。

 だが、彼女が心から笑えるようになったのは、間違いなくあの店のおかげだ。彼もまた、あの温かい食卓を愛している一人だった。


「……ん?」


 レオナルドは、ふと顔を上げた。


 石造りの冷たい廊下の奥から、何かが近づいてくる気配がした。


 足音はない。だが、空気が異常なほどに重く、冷たく澱んでいく。壁の燭台の炎が、風もないのに一斉に揺らぎ、不気味な青白色へと変色した。


「誰だ……っ!」


 レオナルドが剣の柄に手をかけ、鋭く威嚇する。

 だが、暗がりから音もなく現れたその姿を認めた瞬間、彼の心臓は早鐘のように打ち、全身から血の気が引いた。


「きょ、教皇猊下……! それに、枢機卿の皆様……!?」


 レオナルドは慌てて剣から手を離し、石の床に膝をついて、最も深く、絶対的な服従を示す騎士の敬礼をとった。


 そこにいたのは、王国の信仰の頂点に君臨する教皇と、それを補佐する高位の聖職者たちだった。彼らは皆、深い純白と金糸の豪奢な法衣を纏っているが、その表情には一切の感情がなかった。まるで、精巧に作られた無機質な彫像のようだ。


「……ご苦労です、騎士よ」


 教皇が、抑揚のない声で短く告げた。その手には、大聖堂の象徴である『蛇が十字架に絡みあった黄金の杖』が握られている。


「エレン様は、ただいまお祈りの最中で……」


 レオナルドが必死に言葉を絞り出そうとしたが、教皇は彼を一瞥すらせず、そのまま閉ざされた祈祷室の扉へと歩み寄った。


 そして、何重にも鍵がかかっているはずの扉に、杖の先を軽く触れさせる。

 カチャリ、と無機質な音が鳴り、重い扉が自ら動き、開け放たれた。


「……えっ?」


 部屋の中で髪を梳かしていたエレンが、驚いて振り返る。そこに教皇たちの姿を見た瞬間、彼女の青い瞳が大きく見開かれた。


「猊下……? どうして、このような場所へ」


 エレンは咄嗟に身構えようとした。本能が、彼らの纏う異様な空気に最大級の警鐘を鳴らしている。


 だが、体が動かない。


 部屋に踏み込んだ教皇から放たれる、神聖にして絶対的な重圧が、エレンの四肢を完璧に縛り付けていた。


 教皇は、怯えるエレンの前に静かに立ち止まると、感情の欠落した瞳で彼女を見下ろした。


「……神の啓示がありました」


 ただ一言、それだけを告げる。


「な、何を……」


 エレンが後ずさろうとした瞬間。教皇は音もなく動けないエレンの背後に回り込んだ。

 そして、その手に握られた『蛇が絡みあった黄金の杖』の先端を、エレンの白いうなじへとそっと押し当てた。


 そこには、彼女が幼い頃、兵器として自我を封じるために刻まれた、古い『聖痕』があった場所。


「あ……っ!」


 杖が触れた瞬間、エレンの全身がビクンと跳ねた。


「神の、加護がありますように」


 教皇が、冷たく、静かな声で呪文を紡いだ。


 ――ピキリ。


 嫌な音が、エレンのうなじから響いた。システムが強制的に作動した音。

 かつて兵器として機能していた頃の、完全に塞がっていたはずの『古傷』が、無惨にこじ開けられる音だった。


「ぁ……、あぁぁぁぁぁぁぁっ!!」


 エレンの喉から、絶叫がほとばしった。こじ開けられたうなじの傷口から、鮮烈な、熱を持った血がジワリと滲み出す。


「エレン様!!」


 扉の外で平伏していたレオナルドが、悲鳴を聞いて弾かれたように顔を上げた。

 だが、枢機卿の一人が冷徹な視線で彼を射抜く。


「動くな、騎士。これは神の御心だ」


 その言葉に、レオナルドの体は石のように固まった。

 上位組織への絶対的な服従という呪縛が、彼から行動の自由を奪う。


 部屋の中では、地獄のような苦しみが続いていた。


「いや……っ、やめて……!」


 激痛の中、エレンから血液とともに『何か』が急速に失われていく。


 アルフレッドが作ってくれた、温かい肉サンドの味。彼の小麦色の腕。不器用で、優しい笑顔。自分が誰かのために不器用な手で料理を作り、可愛い服を着て、笑い合った記憶。


『美味しい』という感情。『愛おしい』という熱。


「アルフレッド、さま……っ」


 彼女は必死に、その名前を繋ぎ止めようとした。消えゆく光を、両手でかき集めるように。


 だが、杖から流し込まれる無機質な力が、彼女の感情というエラーを、冷酷に、完璧に『シャットダウン』していく。


「あ……」


 エレンの大きく見開かれた青い瞳から、スッと光が消え失せた。


 あれほど熱く、狂おしいほどに燃えていたアルフレッドへの愛も、人間としての温かい感情も、全てが塗り潰され、元の『完全なる灰色』へと戻っていく。


 プツン、と。彼女の中で、何かの糸が切れた。


「……」


 エレンの体から力が抜け、そのまま石の床へと崩れ落ちた。うなじから流れる鮮血が、純白の法衣をゆっくりと染めていく。


 彼女はもう、ピクリとも動かなかった。


「……初期化、完了しました」


 教皇は杖を引き離し、倒れたエレンを見下ろしたまま、淡々と告げた。


「これより、異端審問の準備に入ります。……騎士よ」


「……は、はい……」


 レオナルドは、震える声で絞り出した。


「エレンは、放っておくように。護衛は維持するのだ」


「……え?」


「ただの兵器として、厳重に管理しなさい」


 教皇と枢機卿たちは、倒れたエレンを一瞥することもなく、来た時と同じように音もなく部屋を立ち去っていった。


 後に残されたのは、重苦しい死のような静寂だけ。


「あ、あぁ……」


 レオナルドは、震える足で部屋に踏み込んだ。床には、虚ろな目を開けたまま、うなじから血を流し、倒れ伏すエレン。

 彼は騎士として、彼女を助け起こすことすら許されない。

 上位組織の理不尽な命令が、彼をがんじがらめに縛り付けている。


 彼の視界の端に、ベッドの上に置かれたものが映った。


 それは、つい先程までエレンが幸せそうな顔で、本当に愛おしそうにシワを伸ばしていた、綺麗に畳まれた『メイド服』だった。


「……エレン、様……っ」


 レオナルドは、そのメイド服と、冷たい床に転がる自我を失った少女を交互に見比べた。己の圧倒的な無力さに、ただ血の涙を流して拳を握りしめることしかできなかった。


『キッチン・ブラン』の温かい食卓から遠く離れた冷たい石の部屋で、絶望の幕が、静かに下ろされた。

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