第86話 『加護と、血塗られた兵器の目覚め』
大聖堂の奥深く、三重の結界が張られた祈祷室を兼ねた自室。
穏やかな午後の日差しが差し込む窓辺で、聖女エレンはベッドの上に広げた衣服を、愛おしそうに撫でていた。
それは、神聖な純白の法衣ではない。
黒を基調とした生地に、真っ白なフリルがあしらわれた、可愛らしいメイド服だった。
「ふふっ……。こんなことも、ありましたわね」
エレンは、メイド服のシワを丁寧に伸ばしながら、小さく微笑んだ。
『キッチン・ブラン』に潜入するため、『レン』という偽名を使い、金縁眼鏡をかけて週に一度の掃除メイドとして働いていた日々。その服には、あの店に漂う芳醇なスパイスの香りと、少し焦げたバターの甘い匂いが、まだ微かに染みついている気がした。
思い出すのは、広場での戦い。自分の目の前で、隠すことなく素顔を晒し、迷いなく包丁を振るってくれた彼の姿。
もう、正体を隠す必要はない。ということは、自分も変装してコソコソと会いに行く必要はないのだ。
これからは、堂々と胸を張ってあの白い扉を開けられる。「ただいま」と言えば、彼が「おかえり」と笑って、美味しい料理を出してくれる。
エレンはメイド服を綺麗に四角く折り畳み、ベッドの端にそっと置いた。もう着る機会は、ないかもしれない。でも、これは自分が初めて見つけた「人間としての日常」の、大切な宝物だ。
「さあ、今日はどんな口実で抜け出しましょうか。……レオナルドを言いくるめるための、完璧な言い訳を考えませんとね」
エレンは弾むような足取りで鏡の前に立ち、金色の髪を梳かし始めた。胸の奥が、温かい光で満たされている。あんなに冷たくて灰色だった世界が、今はこんなにも鮮やかに色づいている。
扉の外では、護衛の現役騎士レオナルドが、エレンの楽しげな鼻歌を聞きながら、複雑な顔で立っていた。
胃のあたりがチクチクと痛む。
だが、彼女が心から笑えるようになったのは、間違いなくあの店のおかげだ。彼もまた、あの温かい食卓を愛している一人だった。
「……ん?」
レオナルドは、ふと顔を上げた。
石造りの冷たい廊下の奥から、何かが近づいてくる気配がした。
足音はない。だが、空気が異常なほどに重く、冷たく澱んでいく。壁の燭台の炎が、風もないのに一斉に揺らぎ、不気味な青白色へと変色した。
「誰だ……っ!」
レオナルドが剣の柄に手をかけ、鋭く威嚇する。
だが、暗がりから音もなく現れたその姿を認めた瞬間、彼の心臓は早鐘のように打ち、全身から血の気が引いた。
「きょ、教皇猊下……! それに、枢機卿の皆様……!?」
レオナルドは慌てて剣から手を離し、石の床に膝をついて、最も深く、絶対的な服従を示す騎士の敬礼をとった。
そこにいたのは、王国の信仰の頂点に君臨する教皇と、それを補佐する高位の聖職者たちだった。彼らは皆、深い純白と金糸の豪奢な法衣を纏っているが、その表情には一切の感情がなかった。まるで、精巧に作られた無機質な彫像のようだ。
「……ご苦労です、騎士よ」
教皇が、抑揚のない声で短く告げた。その手には、大聖堂の象徴である『蛇が十字架に絡みあった黄金の杖』が握られている。
「エレン様は、ただいまお祈りの最中で……」
レオナルドが必死に言葉を絞り出そうとしたが、教皇は彼を一瞥すらせず、そのまま閉ざされた祈祷室の扉へと歩み寄った。
そして、何重にも鍵がかかっているはずの扉に、杖の先を軽く触れさせる。
カチャリ、と無機質な音が鳴り、重い扉が自ら動き、開け放たれた。
「……えっ?」
部屋の中で髪を梳かしていたエレンが、驚いて振り返る。そこに教皇たちの姿を見た瞬間、彼女の青い瞳が大きく見開かれた。
「猊下……? どうして、このような場所へ」
エレンは咄嗟に身構えようとした。本能が、彼らの纏う異様な空気に最大級の警鐘を鳴らしている。
だが、体が動かない。
部屋に踏み込んだ教皇から放たれる、神聖にして絶対的な重圧が、エレンの四肢を完璧に縛り付けていた。
教皇は、怯えるエレンの前に静かに立ち止まると、感情の欠落した瞳で彼女を見下ろした。
「……神の啓示がありました」
ただ一言、それだけを告げる。
「な、何を……」
エレンが後ずさろうとした瞬間。教皇は音もなく動けないエレンの背後に回り込んだ。
そして、その手に握られた『蛇が絡みあった黄金の杖』の先端を、エレンの白いうなじへとそっと押し当てた。
そこには、彼女が幼い頃、兵器として自我を封じるために刻まれた、古い『聖痕』があった場所。
「あ……っ!」
杖が触れた瞬間、エレンの全身がビクンと跳ねた。
「神の、加護がありますように」
教皇が、冷たく、静かな声で呪文を紡いだ。
――ピキリ。
嫌な音が、エレンのうなじから響いた。システムが強制的に作動した音。
かつて兵器として機能していた頃の、完全に塞がっていたはずの『古傷』が、無惨にこじ開けられる音だった。
「ぁ……、あぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
エレンの喉から、絶叫がほとばしった。こじ開けられたうなじの傷口から、鮮烈な、熱を持った血がジワリと滲み出す。
「エレン様!!」
扉の外で平伏していたレオナルドが、悲鳴を聞いて弾かれたように顔を上げた。
だが、枢機卿の一人が冷徹な視線で彼を射抜く。
「動くな、騎士。これは神の御心だ」
その言葉に、レオナルドの体は石のように固まった。
上位組織への絶対的な服従という呪縛が、彼から行動の自由を奪う。
部屋の中では、地獄のような苦しみが続いていた。
「いや……っ、やめて……!」
激痛の中、エレンから血液とともに『何か』が急速に失われていく。
アルフレッドが作ってくれた、温かい肉サンドの味。彼の小麦色の腕。不器用で、優しい笑顔。自分が誰かのために不器用な手で料理を作り、可愛い服を着て、笑い合った記憶。
『美味しい』という感情。『愛おしい』という熱。
「アルフレッド、さま……っ」
彼女は必死に、その名前を繋ぎ止めようとした。消えゆく光を、両手でかき集めるように。
だが、杖から流し込まれる無機質な力が、彼女の感情というエラーを、冷酷に、完璧に『シャットダウン』していく。
「あ……」
エレンの大きく見開かれた青い瞳から、スッと光が消え失せた。
あれほど熱く、狂おしいほどに燃えていたアルフレッドへの愛も、人間としての温かい感情も、全てが塗り潰され、元の『完全なる灰色』へと戻っていく。
プツン、と。彼女の中で、何かの糸が切れた。
「……」
エレンの体から力が抜け、そのまま石の床へと崩れ落ちた。うなじから流れる鮮血が、純白の法衣をゆっくりと染めていく。
彼女はもう、ピクリとも動かなかった。
「……初期化、完了しました」
教皇は杖を引き離し、倒れたエレンを見下ろしたまま、淡々と告げた。
「これより、異端審問の準備に入ります。……騎士よ」
「……は、はい……」
レオナルドは、震える声で絞り出した。
「エレンは、放っておくように。護衛は維持するのだ」
「……え?」
「ただの兵器として、厳重に管理しなさい」
教皇と枢機卿たちは、倒れたエレンを一瞥することもなく、来た時と同じように音もなく部屋を立ち去っていった。
後に残されたのは、重苦しい死のような静寂だけ。
「あ、あぁ……」
レオナルドは、震える足で部屋に踏み込んだ。床には、虚ろな目を開けたまま、うなじから血を流し、倒れ伏すエレン。
彼は騎士として、彼女を助け起こすことすら許されない。
上位組織の理不尽な命令が、彼をがんじがらめに縛り付けている。
彼の視界の端に、ベッドの上に置かれたものが映った。
それは、つい先程までエレンが幸せそうな顔で、本当に愛おしそうにシワを伸ばしていた、綺麗に畳まれた『メイド服』だった。
「……エレン、様……っ」
レオナルドは、そのメイド服と、冷たい床に転がる自我を失った少女を交互に見比べた。己の圧倒的な無力さに、ただ血の涙を流して拳を握りしめることしかできなかった。
『キッチン・ブラン』の温かい食卓から遠く離れた冷たい石の部屋で、絶望の幕が、静かに下ろされた。
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