第85話 『静かなる夜の仕込み』
夜の帳が下り、職人街から喧騒が完全に消え去った頃。一日の営業を終えた『キッチン・ブラン』は、オレンジ色のランプが淡い光を投げかけるだけの、静かな空間になっていた。
アルフレッドが厨房のシンクを磨き上げていると、裏口の扉が、トントン、とひどく遠慮がちに叩かれた。
「……こんな時間に、誰だ?」
アルフレッドが手を拭きながら鍵を開けると、そこには夜の闇に紛れるようにして、顔面を蒼白に染めた現役騎士・レオナルドが立っていた。彼はアルフレッドの顔を見るなり、羊皮紙の束を押し付けてきた。
「れ、レオナルド? どうしたんだ、そんなに顔色を悪くして」
「店員殿……いえ、アルフレッド殿。これを。エレン様が、祈祷室でひたすらに書き綴っていたものです。……私には、もうこれ以上、彼女をお止めすることはできません。教会に見つかれば私も……っ、では!」
レオナルドはそれだけを早口で言い捨てると、何かに怯えるように足早に夜の路地へと消えていった。
「……なんだってんだ」
アルフレッドは訝しげに羊皮紙の束をめくった。そこには、赤インクで書かれた、呪いのようにびっしりと敷き詰められた文字が躍っていた。
エレン特有の熱狂的な愛の言葉だ。だが、その最後の一枚の末尾に記された一文に、アルフレッドはピタリと視線を止めた。
『――あの時のハグ、幸せでした』
「……?」
アルフレッドの群青の瞳が、僅かに細められる。いつもなら「次にお会いする時は」と未来の妄想を語るはずのエレンが、なぜ『過去形』で締めくくっているのか。
まるで、もう二度と会えないと覚悟しているかのような、不自然な違和感。
「……アルフレッド」
窓際の席で、夜の暗闇に溶け込むように座っていたディアボロが、低く冷たい声を響かせた。彼の深紅の瞳が、窓の外、王都の中心にそびえる大聖堂の方角を鋭く睨みつけている。
「……王都の空気が、酷く澱んでいる。薄汚い、血の匂いが満ちているな」
ディアボロが指先をパチンと鳴らした、その瞬間。彼の魔力が、王都の空気をわずかに震わせた。転移の魔法陣が展開され、ゼノンとルシウスが店内に姿を現す。
さらにその魔力を察知したグレゴリウスとエリアーナも、裏口から相次いで踏み込んできた。
重苦しい空気の中、深夜の『キッチン・ブラン』で、緊急の会議が開かれることとなった。
「お待たせしました」
アルフレッドがテーブルの中央に置いたのは、漆黒の輝きを放つ『濃厚なエスプレッソとビターチョコのテリーヌ』だった。極限まで甘さを抑え、カカオの苦味とコーヒーの香りを濃縮した、大人のための夜のデザートだ。
だが、それに手を付ける者はいない。ルシウスが、手元の分厚い帳簿と、先日ギャレットの顔面に張り付いていた「ダミー商会の送り状」をテーブルに広げた。
「……点と点が、繋がりました」
ルシウスの眼鏡の奥の瞳が、冷徹に光る。
「教会上層部が、魔界の過激派と結託しています。翁が新体制を承認した今、それに反発する過激な若手たちが、教会からの秘密裏の資金援助を受けて蜂起の準備を進めているようです」
「教会が、魔界の過激派に資金援助じゃと……? なんの目的でそんな真似を!」
グレゴリウスが信じられないというように眉をひそめると、ルシウスは鉄の算盤をカチャリと弾いた。
「……大義名分、というのは表向きの話でしょうね。さらにたちの悪いことに、彼らは――かつてバルトロメウスが構築した孤児院の横領ルートをそっくりそのまま流用して、民衆の善意という名の寄付金を資金洗浄し、人間界の武器などの物資を魔界へ横流ししているのです。……実に、吐き気がするほど合理的だ」
その言葉に、ゼノンが胃を押さえてうずくまり、アルフレッドの表情が微かに険しくなった。
バルトロメウスが残した負の遺産。それが、今の教会上層部の狂気にそのまま引き継がれている。
「……それだけじゃないわよ」
エリアーナが、深紅のローブから出した腕を組んで、重々しく口を開いた。
「王都の魔力流が明らかにおかしいわ。ヴァレリウス……、治安維持局の『番人』がいた頃は、行き過ぎた狂信や暴走をシステムとして間引いていた。……でも、彼がいなくなったことで、教会の狂信がストッパーを失って、限界まで澱んでいるのよ」
彼女は、テーブルの上のテリーヌを見つめながら呟く。
「まるで、大勢の人間が『同じ方向』を向いて、異常な熱を帯びているような……不気味な静けさよ。いつ爆発してもおかしくないわね」
バルトロメウスの横領ルート。ヴァレリウスの不在による秩序の崩壊。そして、翁から離反した魔界の過激派。かつてアルフレッドとディアボロが乗り越えてきた強敵たちの因縁が、すべて『教会上層部の暴走』という一つの線に繋がり、この店に収束しようとしていた。
「……表立って事件が起きていない以上、迂闊には動けません。ルシウスのデータ解析を待ち、慎重に裏を取りましょう」
ゼノンが青い顔で結論を出し、大人たちは重苦しい沈黙に包まれた。
見えない巨大な敵の影に、誰もが息を潜めるしかなかった。
「……なるほど。色々繋がってるみたいですね」
その重苦しい沈黙を破ったのは、アルフレッドのあっけらかんとした声だった。
彼は、自分の前に置かれたビターチョコのテリーヌをフォークで切り分け、パクリと口に放り込んだ。
「厄介なのはわかります。……でも、考えても仕方ないですね」
「……は?」
「アルフレッドさん……! 今、教会の狂気がすぐそこまで……!」
「わかってます。でも、明日もランチの営業はありますから」
アルフレッドは、全く動じる様子もなく、腕を組んでにっこりと笑った。
「明日の仕込みもあるんで、俺は寝ます。……何か起きたら、その時に考えます。何があっても、俺たちの食卓は終わらせない。それだけは決まってますから」
そのあまりにも逞しく、機微に鈍い日常への執着に、張り詰めていた大人たちは毒気を抜かれたようにぽかんと口を開けた。
「……ふん。羽虫がどれだけ集まろうと、我が城の平穏には一分子も影響せぬ」
窓際のディアボロが、テリーヌを口に運びながら、当然のように言い放つ。
「アルフレッド。明日の朝食も、完璧に用意しておけ」
「はいはい。ちゃんと起きて作りますよ、マスター」
二人の、妙に息の合ったやり取り。
ゼノンは「……もう、勝手にしてください」と呆れて床に溶け出し、ルシウスは「計算外の精神力です」と算盤をしまい、グレゴリウスとエリアーナも肩をすくめて笑い合った。
夜が更け、彼らがそれぞれ散っていく。店内から、最後の物音が消えた頃――
ただ一人。王都の大聖堂の地下深く。
冷たい石壁に張り付き、夜警と称して息を潜めている男がいた。ガイルだ。
彼は、エレンの身を案じ、教会の内情を探るために単独で潜入していた。
「……静かすぎる」
ガイルが暗い廊下を進んだ、その時だった。足元の石畳から、微かな地鳴りのようなものが伝わってきた。
それは、地下の大講堂から響いてくる、抑揚のない、数千人規模の『祈りの大合唱』だった。
『――我ら選ばれし子羊に、異端を裁く剣を』
『――我らの永遠の安寧のために、不浄なる魔を討ち果たさん』
感情のない、機械的で異常な熱を帯びた声のうねり。ガイルは、その不気味な合唱を聞き、背筋に氷を当てられたような悪寒を感じた。
かつて、治安維持局のヴァレリウスが、敗北の際にアルフレッドへ残した呪いの予言。
『英雄は、いつか必ず自分の信者に殺される』
狂信という名の暴力が、すぐ足元で、明確な殺意を持って産声を上げている。ガイルは暗闇の中で息を呑み、親友たちのいる路地裏の店へと、焦燥の眼差しを向けた。
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