第84話 『理詰めの翁の極秘視察と、逃げられない大泥棒』
ランチタイムのピークが過ぎた『キッチン・ブラン』は、店の中の熱気が抜けて、少しだけ空気が緩んでいた。厨房では、アルフレッドが玉ねぎを刻んでいた。小気味よいトントンという音が、静かな店内に響いている。
窓際の席では、ディアボロが紅茶の立ち上る香りに薄く瞼を伏せ、ゆっくりとカップに口をつけていた。
カウンターの隅では、ルルがじっと丸椅子に座っている。たまにカップの牛乳を飲み、目を閉じて、ゆっくり味わっていた。
間延びした時間に、低く、恨みがましい声が混ざる。
「……あー、クソッ。なんで俺が毎日毎日、床なんて磨かなきゃならねえんだよ」
ギャレットが毒づきながら、モップをかけていた。
「文句言うなよ。即死級の大凶は、避雷針のお前が吸ってくれるから、店が静かなんだよ。……しょうがない、今日のまかないは唐揚げ定食にしてやる」
アルフレッドは包丁の手を休めずに言うと、ギャレットは「からあげ……!」とぱっと顔を上げて、途端にやる気を出してモップを動かし始めた。
カランコロン、と軽やかなベルの音が店内に響いた。
「いらっしゃいませ」
アルフレッドが顔を上げると、深いフード付きの黒いローブをすっぽりと被り、杖をついた老人が立っていた。
一見すると、ただの通りすがりの老いた旅人だ。だが、ローブの奥から微かに漏れ出す、濃密で重々しい魔力。ディアボロはティーカップを持ったまま、深紅の瞳を細めた。
「……ふん。わざわざ変装してまで、孫の顔が見たくなったか」
ディアボロはつまらなそうに鼻を鳴らし、視線を窓の外へ戻した。
ローブの隙間からちらりと覗いたその顔は、孫が気になって仕方なく足を運んできたのが見え見えだった。
翁はディアボロをひと睨みし、そのままカウンターの隅へと歩み寄った。
「……ひッ!?」
その進路上でモップをかけていたギャレットの全身が、一瞬にして総毛立った。
盗賊としての勘が、最大級の警報を叩きつけてくる。
肌を刺す魔力。背筋をなぞる、底の見えない威圧。
――ヤバい。
それは間違いなく、かつて彼が「国宝級の首飾り」を盗み出そうとして返り討ちに遭い、文字通り殺されかけたあの屋敷の主――魔界の『理詰めの翁』そのものだった。
(終わった……! 俺、絶対にここで消し炭にされる……!)
ギャレットは死を覚悟し、ガタガタと震えながら、床に這いつくばる。そして、存在を消すように、ひたすらモップを動かし続けた。
翁は進路上にいたギャレットを一瞥し、「……なんだ、この薄汚い鼠は。我が至宝の前に出るな」と逃げ場のない殺気を放った。
だが、その視線はすぐにルルへと向けられた。
「ルル、……元気だったか?」
翁が優しく声をかけると、ルルは無表情のまま、ぽつりと答えた。
「おじいちゃん。いらっしゃい」
「なっ……! わ、私だとすぐに分かったのか?」
「匂いでわかる。お香の匂い」
翁はフードの奥で目尻を下げ、ルルの隣の席に静かに腰を下ろした。
彼が見たところ、孫娘に怪我や痩せ細った様子はない。むしろ、魔界の屋敷で半ば幽閉されるように暮らしていた頃よりも、ほんの少しだけ顔色が良いようにさえ見えた。
「よくいらっしゃいました」
アルフレッドが、ふっと笑っておしぼりを差し出した。
「ルルさんにはいつもお世話になってます。今日は、ルルさんのお気に入りを焼きますね」
アルフレッドは丁寧な手つきで、卵液にじっくりと漬け込んだ厚切りのパンを、たっぷりのバターを引いたフライパンに乗せた。
ジュワァァァ……。
ミルクとバターが混ざり合った甘く芳醇な香りが、じわりと店内を満たしていく。
「いい匂い」
眠そうだったルルのネイビーブルーの瞳がぱちりと開き、キラキラとした期待の眼差しでフライパンを見つめる。
「お待たせしました。『極厚のフレンチトースト』です。ルルさんがいつも美味しそうに食べてくれるから、あなたにも食べてほしくて」
翁の前に、黄金色に焼き上がり、純白の粉砂糖とメープルシロップがたっぷりとかかった熱々のフレンチトーストが置かれた。
「……人間ごときの甘味など、我が口に合うはずが……」
翁は断ろうとしたが、すぐ隣で自分の袖をそっと掴み、期待に満ちた目で見上げてくるルルに気づき、言葉を詰まらせた。
立ち上るミルクの柔らかな湯気と、メープルシロップの優しい香りが、翁の心を揺らす。
「……」
噛み締めた瞬間、翁の目が見開かれた。表面のカリッとした香ばしさを破ると、中はまるでプリンのようにトロトロだった。卵とミルクの濃厚なコク、そしてメープルシロップの優しい甘さが、老いた体にじんわりと染み渡った。
「動かなくても、美味しいものが来る。……安全」
隣で同じようにフレンチトーストを頬張りながら、ルルがポツリと言った。
「ルル……」
翁は、その言葉と目の前の甘い料理に、頑なだった心がゆっくりとほどけていくのを感じた。自分が鳥籠に閉じ込めていた至宝が、この場所で居場所を見つけていることを、ようやく理解する。
そのことを理解した翁は、慈しむような笑みをルルに向けた。
「悪くない。……見事な手際だ、人間の料理人よ」
翁は皿を空にし、静かに立ち上がった。
「さて。そろそろ帰るとしよう」
翁が店を出ようと踵を返した、その時だった。
床で震えているギャレットの前で足を止め、冷たい殺気を放った。
「……我が屋敷に忍び込み、至宝を盗み出した薄汚い鼠よ」
「ヒィィィィッ!! も、申し訳ありませんでしたぁぁ!!」
ギャレットが床に額を擦りつけて土下座する。
「お前の命など、指先一つで消し去れる。……だが」
翁の杖が静かに振り上げられた。
その瞬間、「だめ」と、ルルの短く、迷いのない声が響いた。
「私の避雷針だから。便利」
翁は振り上げた杖をゆっくりと下ろし、フッと静かに笑った。
「……その腕は見事だ。コソコソ盗むくらいなら、これを授けてやろう」
翁は懐から、国宝級の輝きを放つ『美麗な魔宝石の指輪』を取り出し、ギャレットの目の前にポンと投げた。
「えっ!? お、お宝!? これ、俺にくれるのか!?」
ギャレットは慌ててそれを空中で受け止め、手のひらに乗った眩い輝きに目を丸くした。
「それは我が屋敷の宝物庫にあったものの一つだ。次からは、盗む手間を省くことだな」
ギャレットが歓喜に顔を綻ばせた瞬間、翁はすれ違いざまに、ギャレットの耳元で地を這うような低音で囁いた。
「……それは『ルルの近くにいる限り、厄災を肩代わりする加護』だ。どこにいようと、我には見える。……逃げたらどうなるか、分かっているな?」
「……え?」
ギャレットの顔から、一瞬にして血の気が引いた。
「ルルから離れたら俺が死ぬってこと!? 位置情報も監視!? 完全に奴隷の鎖じゃねえかぁぁぁ!!」
ギャレットの悲痛な絶叫が店内に響き渡る中、翁は満足げに一度だけ口角を上げると、振り返ることなく出口へと向かった。
そして最後に、窓際で紅茶を飲んでいるディアボロの横を通り過ぎる。
翁は歩みを止めず、周囲には聞こえぬほどの低音で、決定的な警告を落とした。
「……若き王よ。我が一族の至宝を預かってくれていること、感謝する。……だが、忠告だ」
その声から、先ほどまでの温もりは一切消え失せていた。
「我の目の届かぬところで、血気盛んな若き過激派たちが、人間界の『教会』と結託して不穏な動きを見せている。……我の統制も、もはや完全ではない」
その言葉が落ちた瞬間。
ディアボロのルビーのような深紅の瞳が、スッと鋭く細められた。
そして厨房の奥。次の仕込みに入ろうとしていたアルフレッドも、包丁を握る手をピタリと止めた。
翁は静かに扉を開け、初夏の眩しい光の中へと消えていった。
「俺は一生、この店で避雷針確定かよぉぉぉ!!」
ギャレットのギャグのような悲鳴が響く中、ディアボロは冷めた紅茶のカップをソーサーに戻し、低く呟いた。
「……薄汚い、血の匂いがしおったな」
「……何が起きても、このレストランは守りますよ」
アルフレッドは包丁を握り直し、静かに、揺るがない声で応えた。
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