第82話 『聖女の休日コーデと、消し炭の愛妻弁当』
王都の職人街に、初夏の少しだけ湿り気を帯びた風が吹き抜けていた。
ランチタイムの喧騒が落ち着き、アルフレッドが厨房でディナー用の仕込みを始めようとした時、カランコロンと軽やかなベルの音が鳴った。
「ほら、シャキッとしなさいよ! 折角の休日なんだから!」
「む、無理ですわリディア様! やっぱり私には、このようなスカスカしている服装なんて……!」
入り口で押し問答をしながら入ってきたのは、元弓聖のリディアと、聖女エレンだった。その後ろには、胃を痛めたような顔をした現役騎士レオナルドが、護衛として力なく控えている。
アルフレッドは、エレンの姿を見て思わず目を丸くした。
いつも身に纏っている、体をすっぽりと隠す純白の分厚い法衣ではない。今日のエレンが着ていたのは、リディアが見立てたであろう、淡い水色の軽やかなワンピースだった。
首元や袖口には少しだけフリルがあしらわれており、歩くたびに柔らかい生地がふわりと揺れる。聖女ではない、年相応の『普通の可愛らしい女の子』の姿がそこにあった。
「……いらっしゃい。おっ、いい服だな、エレン。すごく似合ってるよ」
アルフレッドが素直な感想を口にして、軽く手を振った。
その瞬間、エレンの動きがピタリと止まった。
「に、似合って、いる……? アルフレッド様が、私を……?」
エレンの透き通るような白い顔が、首の根元から耳の先まで、みるみるうちに沸騰したように真っ赤に染まっていく。彼女は両手で顔を覆い、そのまま石像のようにガッチリと固まった。
「あーあ、またショートしちゃったわね」
リディアが呆れたように肩をすくめ、エレンを半ば引きずるようにしてカウンターの席へと座らせた。
「冷たいお茶を三つお願い。この子、今日のために昨日の夜からずっと徹夜で準備してたんだから」
アルフレッドが、苦笑しながらリディアの前にアイスティーを置く。
「……ふん。我が城の敷居を跨ぐのに、そのような浮かれた格好で来るとは。空気が弛む」
窓際の特等席で、ディアボロが不機嫌そうに鼻を鳴らした。だが、ルビーのような瞳はエレンをチラリと一瞥しただけで、すぐに手元の紅茶へと戻る。
アルフレッドが残りの二つをカウンターに置くと、エレンはハッとして我に返り、震える手を自分の膝の上へと持っていった。
そこに抱えられていたのは、可愛らしいピンク色の布で包まれた、小さな四角い箱だった。
「あ、あの……アルフレッド様!」
しばらく躊躇していたエレンが立ち上がり、決死の覚悟を秘めた青い瞳でアルフレッドを見つめた。
「今日は、その……かつて、私がアルフレッド様からいただいた、あのときの恩返しをしたくて……参りましたの!」
エレンは震える両手で、その可愛らしい包みをカウンター越しに差し出した。
「お、お弁当を作ってきたんですわ! 私、料理なんて今まで一度もしたことありませんでしたけれど、アルフレッド様に喜んでいただきたくて、一生懸命……!」
「え、エレンが俺に?」
アルフレッドは嬉しそうに微笑み、布の結び目を解いて、弁当箱の蓋を開けた。
「……」
「……」
厨房の空気が、一瞬にして凍りついた。
弁当箱の中に鎮座していたのは、彩り豊かな手料理などではない。辺りの光を吸い込んだ、まるで魔界の深層で採掘される鉱石のような、完全なる『漆黒の消し炭の塊』だった。もはや元の食材が肉なのか魚なのか、それとも野菜なのかすら判別できない。ただひたすらに黒く、焦げ臭い絶望のオーラを放っている。
「……貴様ぁッ!!」
窓際から、地獄の底から響くようなディアボロの怒声が轟いた。
彼は椅子を蹴り倒す勢いで立ち上がり、指先から黒い爪をシャキッと突き出してズカズカとカウンターへ詰め寄り、エレンを睨みつける。
「我の城の料理人を……そんな小娘の作った……! いや、その炭化物から放射される致死レベルの瘴気が見えぬのか! アルフレッド、直ちにそれを裏庭に埋めろ! いや、我が今すぐ消し炭ごとこの空間を――」
「落ち着いてください、マスター」
アルフレッドはカウンター越しに身を乗り出し、ディアボロの殺気を纏った手を制した。
彼は、弁当箱の中に鎮座する漆黒の塊を見つめる。そして、顔を真っ赤にして今にも泣き出しそうになっているエレンへと、静かに向き直った。
「……ちょっと焦げてるけど、味は保証するんだろ?」
かつて魔王軍との戦いのさなか、冷たい配給食しか知らなかった彼女に、肉サンドを渡した時と全く同じ言葉を、アルフレッドは優しく笑って口にした。
エレンが、弾かれたように顔を上げる。
アルフレッドは、弁当箱の中を見つめた。一瞬目を伏せ、その消し炭の塊を素手で掴み、大きな口を開けて放り込んだ。
バリッ、ボリボリッ。
厨房に、およそ料理を食べているとは思えない、硬質な破砕音が響き渡る。
ディアボロが「なっ……正気か!」と絶句し、レオナルドが悲鳴を上げそうになる中、アルフレッドは顔色一つ変えずに咀嚼し、飲み込んだ。
「……うん。美味しいよ、エレン。ありがとう」
アルフレッドが、真っ直ぐにエレンの目を見て微笑んだ。
その瞬間。エレンの周囲から、音がスッと消え去る。
(……美味しいよ、エレン)
その言葉が、彼女の脳裏で何度も反響する。
神の代行者として、ただの兵器として、冷たく味のしない食事を無機質に飲み込んでいたあの頃。自分が誰かのために不器用な手で料理を作り、こんなに可愛い服を着て、そして、それらを笑って受け取ってもらえる日が来るなんて。
あの暗く冷たい灰色の世界にいた頃の自分には、想像すらできなかった。
「……あ、あ……」
エレンの大きな青い瞳から、一粒だけ、温かい涙がこぼれ落ちた。
「……アルフレッド様、お願いです」
エレンは、涙で潤んだ瞳のまま、震える声で口走っていた。
「一度だけ……一度だけで構いません。私を、ギュッとしてください……っ」
その真っ直ぐな涙を見たアルフレッドは、ビクッと体を震わせる。やがて溜息をついて、少しだけ困ったように眉を下げ、そして優しく笑った。
「……しょうがないな」
アルフレッドはカウンターから出て、逞しい両腕で、エレンの華奢な体を優しく抱きしめた。
「あっ……」
アルフレッドの大きく温かい胸板。
そこから伝わる、力強い鼓動。そして、彼から漂う、清潔な石鹸と微かなスパイスの匂い。
エレンの脳髄に、致死量の『アルフレッド成分』がダイレクトに撃ち込まれた。
数秒の静寂。
エレンの全身が、次第に微細な痙攣を始めた。
「ブッハァァァァァァッ!!!」
次の瞬間、エレンの鼻から凄まじい勢いで鮮血が噴き出した。
「エ、エレン!? ちょ、血が!?」
アルフレッドが慌てて体を離すと、エレンは完全に白目を剥き、鼻血を出しながら「我が人生に、一片の悔いなし……」と呟いて、文字通り昇天して床に崩れ落ちた。
「エレン様ぁぁぁッ!?」
レオナルドが悲鳴を上げて駆け寄り、エレンを抱きとめる。
「……貴様ぁぁぁ!!」
直後、ディアボロの激怒が爆発した。彼は深紅の瞳を吊り上げ、黒い爪を限界まで伸ばしてアルフレッドに詰め寄った。
「我の目の前で何をしている! 誰の許可を得て、他の馬の骨ともしれぬ雑魚を抱きしめているのだ! しかも我が城の清浄なる床を血で汚すな!!」
「ま、マスター! 不可抗力です! 爪、爪しまって!」
「あーあ。だから言ったのに。この子には刺激が強すぎるって」
リディアが呆れ果てた顔で、床で気絶しているエレンを見下ろしてため息を吐く。
「……まったくもって解せぬわ!!」
アルフレッドはディアボロをなだめながら、床の血を拭き取るための布巾を手に取った。
「エレンが目を覚ましたら、失われた鉄分を補給させないとな。マスター、極上のレバーの下処理、手伝ってくれますか?」
「ふん。我がなぜあの小娘のために血生臭い肉を触らねばならんのだ。……だが、貴様が妙な真似をしないよう見張ってやる」
初夏の昼下がり。
気絶した聖女と、呆れる狩人、そして不機嫌な魔王。
アルフレッドは腕を捲り直し、愛すべき騒がしい食卓のために、再び包丁を握り直した。
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