第81話 『作り物の聖女と、不自然な帳簿』
王都の大聖堂。荘厳なステンドグラスから差し込む光のシャワーを浴びながら、聖女エレンは祭壇の前で静かに膝をついていた。
純白の法衣に身を包み、透き通るような青い瞳を伏せるその姿は、一幅の絵画のように神聖で、美しい。
(……アルフレッド様)
胸の奥でその名を呼ぶだけで、体の芯が焼けるように熱くなる。
祈りなどではない。それは狂おしいほどの『想い』だった。
かつての彼女には、この熱がなかった。
『お前は神の代行者。邪悪を殲滅する兵器だ。兵器に、私情は不要だ』
物心つく前から、光の届かない教会の最深部で、そう教え込まれてきた。
与えられる食事は、常に冷たかった。
味のしない硬いパン、噛み切れないほど乾いた干し肉、繊維が固く残るだけの茹で野菜。彼女はそれらを、喜びも悲しみもなく、生命を維持する作業として、機械的に咀嚼し、飲み込み続けた。
味覚に意識を割く余裕など、彼女にはなかった。
教義の暗唱、魔法の修練――若すぎるその脳には、ほかに詰め込むべきことが、あまりにも多かったからだ。
規格外の魔力を火力に変えるためだけに、自我を削ぎ落とされた、美しくも虚ろな器。そんな彼女が見る世界は、常に色のない灰色に塗りつぶされていた。
その灰色の世界が壊れたのは、勇者パーティに参加して数ヶ月が経った頃。
過酷な野営が続いていたある夜のことだった。
いつものように独り、喧騒を離れた場所で食事を摂ろうとしたエレンは、教会から支給された配給袋が魔物に引き裂かれ、中身がことごとく泥にまみれていることに気づいた。
彼女は無表情のまま、ただ静かに石の上に腰を下ろした。
兵器が管理を怠ったのだから、罰が下される。そう結論づけた彼女は、無機質な静止を保ったまま、いつも通り訪れるはずの罰を待っていた。
「なんだ、エレン。飯、やられちまったのか」
近づいてきたのは、太陽のような金髪を揺らす勇者――アルフレッドだった。
彼は呆れたように笑うと、焚き火のそばから持ってきた『それ』を、彼女の膝の上に無造作に放り投げた。
「ほら、これ食え。腹が減ってちゃ魔法も撃てないだろ。ちょっと焦げたけど、味は保証するぜ」
ポン、と手渡された、不格好な肉サンド。
布越しに伝わる、暴力的なまでの『熱』。
エレンは戸惑いながらも、言われた通りにそれを両手で持ち、無表情のまま一口齧り付いた。
「…………ッ」
その瞬間。エレンの脳髄を、未知の衝撃が貫いた。
カリッと焼けたパンの香ばしさ。噛み締めた瞬間にジュワッと滴る、分厚い肉の脂。刺激的なマスタードの風味と、腹の底から燃え上がるような命の温度。
「……あ、あれ? エレン? 熱すぎたか? それとも不味かったか!?」
アルフレッドが慌てる声が聞こえる。
エレンは、自分がなぜ彼をこれほど慌てさせているのか、その理由が分からなかった。ただ、視界が酷く歪んでいた。
無表情のまま、その大きな青い瞳からは、大粒の涙がとめどなく零れ落ちていた。
(……あたたかい。これが、美味しい、ということ……?)
涙に濡れた睫毛を上げて、目の前の男を仰ぎ見た。
自分を心配そうに覗き込むアルフレッドの、眩い金髪と温かな小麦色の肌が瞳に飛び込んでくる。さらにその背後には、爆ぜる焚き火の赤が躍り、夜の闇に沈む森の深緑が広がっていた。
灰色しかなかった彼女の視界に、初めて鮮やかな色彩が溢れ出した。
(アルフレッド様……。私という空っぽの器に、命の熱を灯してくださった、私の光)
エレンは祭壇の前で、己の胸に手を当てて深く祈る。
自分を縛り付けていた大人たちなど、どうでもよかった。彼女の神は、あの路地裏の厨房に今もいるのだから。
一方、その頃。魔界の最深部にある執務室。
ルシウスが山のように積まれた分厚い帳簿の束と睨み合っていた。彼の細い指先が、鉄の算盤を弾く。
パチ……、パチ……。
「……合いませんね」
ルシウスは、冷徹な声で呟いた。
眼鏡の奥の瞳が、一枚の羊皮紙を鋭く射抜いている。
「ル、ルシウス……どうしました? またボクが何かミスを……?」
隣のデスクで、書類の山に埋もれて液状化しかけているゼノンが、おずおずと尋ねた。
「違います、ゼノン。……これを見てください」
ルシウスが指し示したのは、人間界における信仰の要である『教会上層部』から流出している、使途不明の莫大な寄付金の記録だった。
「教会の資金が、いくつものダミー商会を経由して……魔界の過激派、『理詰めの翁』の配下にある別の一派の領地へと流れ込んでいる。それも、大量の武器や物資に形を変えて」
「えっ……? それって、どういう……」
「教会上層部が、意図的に魔界の過激派に投資をしているということが疑われます。両世界に再び戦争の火種を投げ込み、自らそれを消し止めるふりをして利益を得る……」
ゼノンの顔から、完全に血の気が引いた。
「そういえば教会には『聖女』エレン様がいたはずです。彼女は……」
ルシウスの薄い唇から、微かな冷気が漏れる。
「……今回の教会の件、許しがたいですね」
ルシウスは立ち上がり、分厚い帳簿を閉じた。
「ゼノン。このバグは、私が処理します。……彼らの腐った計算式を、根底から論破してやりましょう」
氷の計算機の瞳に、静かな、しかし決して消えることのない青い炎が宿った。
平和な『キッチン・ブラン』の日常の裏側で、巨大な歯車が、確実に狂い始めていた。
最後までお読みいただきありがとうございます! 少しでも「面白い」と思っていただけたら、【★での評価】や【ブックマーク(フォロー)】で応援してもらえると嬉しいです!




