第8話 『聖女の祈りと、震える魔王の隠蔽工作』
王都の職人街に朝の光が満ちる頃、アルフレッドはいつものように厨房で仕込みに励んでいた。
休日を魔王に監視されるという災難に見舞われたが、仕事は待ってくれない。
アルフレッドは気合を入れて腕をまくり上げ、大量のジャガイモの皮を剥いていく。
背後では、燕尾服を完璧に着こなしたディアボロが、優雅に朝の紅茶を啜っていた。
「アルフレッド、今日のジャガイモの剥き方は一分子の甘さがあるぞ。我の城で供する料理には、神の造形に等しい完璧さが求められる」
「はいはい、わかってますよ。マスターこそ、さっきからルビーの瞳で茶葉の動きを凝視しすぎです。呪いでもかけるつもりですか」
「ふん、これは魔力の対流を確認しているのだ。貴様のような凡夫には分からぬ……あ。おい、アルフレッド。扉の向こうに、妙に浄化された気配を感じるぞ。まるで我の肌を焼くような、不快な聖なる光だ」
ディアボロが不機嫌そうに鼻を鳴らした瞬間、真鍮のベルが鳴った。
開店までにはまだ時間がある。だが、扉を開けて入ってきた人物を見た瞬間、アルフレッドの持っていたジャガイモは手から滑り落ち、床を転がっていった。
そこに立っていたのは、純白の法衣を纏い、黄金の杖を握りしめた少女だった。透き通るような青い瞳に、柔らかな金髪。
かつてアルフレッドと共に最前線で戦った、聖騎士団所属の聖女エレンだった。
「……失礼いたします。こちらに、美味しいと評判の煮込み料理があると伺ったのですが。……あら?」
エレンの視線が、呆然と立ち尽くすアルフレッドの顔に固定される。
時が止まったかのような沈黙が二人の間に流れ、みるみるうちに瞳を潤ませた彼女は、その場に崩れ落ちそうになる。
「アルフレッド様……? そんな、そんなはずがありません。あなたは二年前、魔王城の崩壊と共に、世界を救うために尊い犠牲になったはず。……ああ、神様! 私はついに、愛する仲間の幻影を見るまでになってしまったのですね!」
「待て、エレン! 落ち着け! 俺は幻じゃないし、生きてる! 生きてるから、その杖から放たれそうな高火力の魔法を一旦下ろしてくれ!」
アルフレッドは慌ててカウンターを飛び出し、「降参だ!」とばかりに両手を高く掲げて見せた。
目の前に差し出されたその腕を、彼女はすがりつくように掴み、伝わってくる体温に涙を流す。
「本当に、アルフレッド様なのですか? 幽霊ではなく、生きた人間として、こんな路地裏のレストランで包丁を握っているのですか?」
「ああ、色々あってな。今はここで、料理人として真面目に働いているんだ。
……頼む、あまり大声を出さないでくれ。俺が勇者だったってことは、ここでは伏せてるんだ」
アルフレッドが必死に彼女をなだめていると、背後から氷のような冷気がうっすらと漂ってきた。
振り返れば、ディアボロが不敵な笑みを浮かべ、凍てつくようなルビーの瞳で、二人をじろりと睨んでいる。
「ほう。アルフレッド、この小娘が貴様の古い仲間か。随分と眩しいオーラを放っているな。我が城の調度品を無駄に浄化して、価値を落とすつもりか」
「マスター! やめてください!」
アルフレッドの制止も聞かず、ディアボロはエレンの前に立ちはだかった。二メートル近い彼の身体は、エレンにとっては恐怖の対象以外の何物でもないはずだ。
「おい、小娘。この男は現在、我が所有するこの城の、終身契約を結んだ下僕だ。貴様のような神の犬に、連れ戻させるわけにはいかぬぞ」
「……あなた、何者ですか? その尋常ではない魔力、そして禍々しいまでの美貌。……まさか、あなたは!」
エレンが驚愕の表情でディアボロを見上げた。
アルフレッドは心臓が口から飛び出しそうになり、とっさにディアボロとエレンの間に割って入り、両手を広げて壁になろうとした。
「違う! こいつは、ただの重度の演劇好きなマスターなんだ! ほら、その燕尾服も衣装の一部で、目は魔力目薬で変えてるだけなんだ!」
「アルフレッド、貴様、我の瞳を偽物扱いしたか! 万死に値するぞ!」
ディアボロが激昂し、白い指先からシャキッと黒い爪を突き出した。
それを見たエレンの表情が、一瞬で慈愛から殲滅へと変わった。
「その爪、その冷気! やはりあなたは、魔王ディアボロ! アルフレッド様を拉致し、料理人としてこき使って精神を破壊するなど、言語道断です! 神の御名において、あなたを塵に還します!」
「待て待て待て! エレン、待て! こいつ、悪いやつじゃないんだ! ちょっと性格がねじ曲がってて、猫みたいに気まぐれなだけで、実害はないんだ!」
アルフレッドはエレンの杖の先に溜まっていく、店を蒸発させそうな光の塊を見て叫んだ。エレンの正義感は、勇者パーティの中でも一度火がつくと歯止めがきかなくなるほど暴走してしまうのだ。
「アルフレッド様、どいてください! このような邪悪な存在に毒されて、あなたの目は曇っているのです! さあ、大聖光破を!」
杖の先端に、店を蒸発させるほどの光の塊が収束し始める。
「出すな! その魔法をここで出したら、職人街が地図から消える!」
アルフレッドは死に物狂いで、二人の間に割って入った。鍛え抜かれた腹筋でエレンの放つ光を物理的に遮りつつ、背後で殺気を放つ魔王の腹に遠慮なく肘鉄を食らわせる。
「ぐふっ……!」
「マスター! あんたも爪を引っ込めて! 今すぐ! そうしないと、今日のまかないは全部、あんたの嫌いなセロリの山にしますよ!」
「な……。セロリ!? 貴様、我が嫌悪するあの草を我に食わせると?
……わかった、引こう。我はセロリという名の悪魔に屈するのではない。一時的な戦略的撤退だ」
ディアボロは渋々爪を引っ込め、ぷいと顔を背けた。アルフレッドはその隙に、エレンの手を掴んで席に座らせた。
「エレン、聞いてくれ。この人は、実は『猫の呪い』にかかっている被害者なんだ。魔力があまりに強すぎて、自分を魔王だと思い込んでいる悲しい人なんだよ。ほら、見てろ」
アルフレッドはディアボロの首筋を、指先で優しく撫でた。
ディアボロは屈辱に震えながらも、エレンの魔法に焼き殺されるよりはマシだと判断したのか、喉の奥から「ぐるる……」とわずかな音を漏らした。
「……猫の、呪い……? ですが、この禍々しい気配は……」
エレンは疑わしげにディアボロを凝視した。
アルフレッドは冷汗を流しながら、必死に言葉を紡ぐ。
「そう、呪いのせいで気配が歪んでるんだ。本当は寂しがり屋の、ただの銀髪のマスターなんだよ。エレン、君も聖女としての慈悲があるなら、彼を許してやってくれないか」
「……アルフレッド様がそうおっしゃるなら。……ですが、私は納得していません。彼があなたに少しでも無礼なことをしたら、その瞬間に私はこの店を浄化します」
「……はは、頼もしいよ」
そのあと、アルフレッドは胃がねじ切れるような思いで、エレンのために最高の煮込み料理を作った。
彼女が料理を待っている間、ディアボロは厨房の隅でずっと不満げにブツブツ呟いていたが、エレンが杖をカチャリと鳴らすたびに、ビクッとなっていた。
そしてディアボロは、大人しく煮込み料理を運んでくれた。
食事を終えたエレンは、満足そうな顔をして立ち上がった。
「アルフレッド様。お料理は、驚くほど美味しかったです。あなたが平和な世界でこうして包丁を握っている姿を見て、私は少しだけ安心しました。……私は王都の聖堂にいます。何かあったら、すぐに祈ってください。光速で駆けつけますから」
「ああ、ありがとう。……でも本当に、この店のことは内緒にしておいてくれ。静かに暮らしたいんだ」
エレンは何度も振り返りながら、店を去っていった。
扉が閉まった瞬間、アルフレッドは床に崩れ落ち、小麦色の手で顔を覆った。
「死ぬ……。本当に死ぬかと思った……」
「アルフレッド。貴様、我を『被害者』などと呼び、あのような小娘に媚びを売るとは、どこまで不遜なのだ。我が本気を出せば、あのような光の礫など一分子で……」
「はいはい、わかってますよ。でも、あんたが正体をバラしたら、この生活は終わりなんです。わかってますか? 俺と一緒に料理を作る日々が、全部なくなるんですよ」
アルフレッドが少しだけ声を荒らげると、ディアボロはハッとしたように口を閉ざした。
彼はルビーの瞳を泳がせ、燕尾服の裾をいじりながら、小さな声で言った。
「……我が、貴様との日々を終わらせたいと言ったか。我はただ、我が城の尊厳を守りたかっただけだ」
「尊厳なら味で守ってください。……ほら、後片付けしますよ。エレンが残していった聖なる余韻が、あんたの肌に悪いでしょうから」
アルフレッドは立ち上がり、箒を手に取った。
ディアボロは不服そうにしながらも、アルフレッドの隣で一緒に掃除を始めた。彼の指先から爪は消え、代わりにアルフレッドの小麦色の腕に彼の銀髪がふわりと触れた。
勇者の仲間がいつか来る。
その恐怖は現実となったが、アルフレッドは何とかそれを乗り切った。この穏やかな日常を守るための隠蔽工作は、これからも続いていくだろう。
アルフレッドは窓の外を眺め、エレンが戻ってこないことを祈りながら、次の仕込みへと意識を向けた。
横では魔王が、不器用な手つきで皿を拭きながら、またしても喉を小さく鳴らしていた。
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