第7話 『勇者の休日と、銀色のストーカー』
王都に柔らかい朝日が差し込む頃、アルフレッドはいつもの調理服ではなく、少し上質な麻のシャツに袖を通していた。
今日は、彼が勝ち取った正当なる休日だ。
再就職してからというもの、魔王のわがままに振り回され、猫化した彼の世話を焼き、毒舌批評家の相手までしてきた自分への、天からの報酬と言ってもいい。
「マスター、いいですか。今日は俺、夕方まで戻りませんから。昼飯は棚に置いてあるサンドイッチを食べてください。絶対に厨房で火を使おうなんて思わないでくださいよ。この店が物理的に消滅しますからね」
アルフレッドが二階に向かって声をかけ、戸締まりを確認していると、階段から燕尾服姿のディアボロがのっそりと現れた。銀髪は寝癖で少し乱れていて、深紅の瞳にはあからさまに不満の色が浮かんでいる。
「アルフレッド、貴様、我を置いてどこへ行くというのだ。我が目覚めた時に、淹れたての茶も供さぬとは、下僕としての自覚が欠如しているのではないか」
「下僕じゃなくて従業員です。今日は休みだって、一週間前からカレンダーに特大の文字で書いておいたでしょう。いいから、たまには一人で静かに過ごしてください。俺も一人の人間として、羽根を伸ばしたいんです」
「羽根……? 貴様、我を差し置いて飛翔するつもりか! 許さぬ、断じて許さぬぞ!」
ディアボロの指先から、シャキッと黒い爪が飛び出した。相変わらずの沸点の低さだが、今日のアルフレッドは折れなかった。
「爪、出てますよ。掃除したばかりの床を傷つけないでください。じゃあ、行ってきます!」
アルフレッドはディアボロの抗議を背中で聞き流し、軽やかな足取りで店を出た。
扉が閉まる瞬間、背後で「シャー!」という、威嚇とも悲鳴ともつかない声が聞こえた気がしたが、きっと空耳だろう。
王都の目抜き通りは、休日を楽しむ人々で溢れていた。
アルフレッドはまず、以前から気になっていた武器屋へ足を運んだ。引退したとはいえ、手入れの行き届いた名剣を眺めるのは元勇者としてのささやかな楽しみだ。
店内に飾ってある剣を抜き、重みを確かめ、刃紋の美しさを愛でる。店主に「いい腕をしているな、現役か?」と声をかけられ、少しだけ誇らしい気分になった。
だが、その時だ。店の外の樽の影から、キラリと光る赤い何かがこちらを覗いているような気がした。
振り返ると、そこには一匹の、見覚えのある銀色の長毛猫が座っていた。
「……まさかな」
アルフレッドは首を振った。魔王がわざわざ猫の姿になって追いかけるなんて、そんな馬鹿げたことがあるはずがない。
彼は自尊心の塊だ。従業員の休日に固執するほど暇ではないはずだ。
アルフレッドは武器屋を出て、次に大通りのカフェへと向かった。
ここでは王都で一番と評判のシフォンケーキが食べられる。たまには他人の作った甘いものを食べて勉強するのも悪くない。
「お待たせいたしました、季節の果実のシフォンケーキです」
店員が運んできた一皿は、雲のようにふわふわで、生クリームがたっぷりと添えられていた。
アルフレッドはフォークを手に取り、一口食べようとした。その瞬間。
「ミャオーーーン!!」
突如として足元で激しい咆哮が上がった。
見れば、先ほどの銀色の猫が、カフェの椅子に飛び乗り、シフォンケーキをルビーのような瞳で激しく睨みつけているではないか。
「ちょっ、お前……マスター!? なんでここにいるんですか!」
アルフレッドは周囲に聞こえないよう小声で叫んだ。
銀色の毛玉は不機嫌そうに尻尾をパタパタと振り、皿の前に立ちはだかった。
「ミャ、ミャミャー!」
(訳:貴様、我を差し置いてこのような軟弱な菓子を食すとは不届き千万! 毒見だ、我に一口差し出せ!)
「毒見じゃないでしょう! 食べたいだけですよね!」
店内の客たちが「あら、可愛い猫ちゃん」と微笑ましくこちらを見ている。
だが、アルフレッドにはわかる。この猫の背後から立ち昇る、怨念に近いほどの漆黒の重圧を。
「……すみません、俺の飼い猫が失礼しました」
アルフレッドは慌ててディアボロを小脇に抱え、ケーキを大急ぎで口に放り込んで、逃げるように店を出た。その腕の中で、銀色の毛玉は「離せ! 我が毛並みを乱すな!」とばかりにジタバタと暴れている。
「いいかげんにしてください、マスター! せっかくの休日が台無しです! なんで追いかけてくるんですか!」
ひとけのない路地裏に入り、アルフレッドがディアボロを地面に下ろすと、彼はポンという音と共に元の姿に戻った。
乱れた銀髪を撫でつけ、燕尾服を整えながら、彼は真っ赤な顔でアルフレッドを指差した。
「アルフレッド! 貴様、我を一人残して街を徘徊し、挙句の果てに他の者が作った菓子を悦に浸って食すとは……。これは我が城に対する反逆罪だ! 爪が出るぞ! もう出ているぞ!」
「出てます、出てます! 分かりましたから、落ち着いてください! これは反逆じゃなくて、ただの市場調査ですよ」
「……市場調査だと? 貴様、あの店員の女とも親しげに話していたではないか! 我という主権者がいながら、他の人間に愛想を振りまくなど、断じて許さぬ! 貴様は我の下僕、我のそばに常に在るべき存在であろう!」
ディアボロの瞳が嫉妬と怒りで潤んでいる。
アルフレッドは呆れを通り越して、少し可笑しくなってきた。
世界を滅ぼそうとした魔王が、元勇者の休日を邪魔するためにわざわざ猫になって追いかけてくるのだから。
「……マスター、もしかして、寂しかったんですか?」
「さ、寂しい!? 我が!? 滅相もない! 我はただ、貴様が不慮の事故で命を落とし、明日の我が朝食が作れなくなる事態を危惧しただけだ!」
「はいはい。じゃあ、一緒に街を歩きますか? せっかくの休日ですから、二人で美味いもんでも食べに行きましょうよ。もちろん、俺の奢りで」
ディアボロは一瞬、返す言葉を奪われたかのように、ぽかんと口を開けた。
それから、ふいと顔を背け、不器用そうに銀髪をいじった。
「……貴様がどうしてもと言うなら、付き合ってやらんこともない。ただし、我が品格に見合う店を選べよ。下俗な平民が集う場所など、一分子も認めぬからな」
アルフレッドは苦笑いしながら、ディアボロと並んで歩き出した。
二メートル近い威圧感のある銀色の長髪の男と、小麦色の肌をした青年の姿。奇妙な二人組に街の人々は好奇の視線を向けるが、ディアボロはそんなことはお構いなしに、堂々と胸を張って歩いている。
その後、二人は王都の市場を回り、最高級のスパイスや珍しい食材を見て回った。
ディアボロは、水槽で激しく口を閉ざした大粒の帆立貝を覗き込み、「これは魔界で何でも食いちぎる『人喰い殻』に似ているな」と、相変わらず物騒な感想を述べていたが、その表情は心なしか明るかった。
夕暮れ時、二人は公園のベンチに座って、街の屋台で買ったミートパイを食べていた。
「どうですか、マスター。外で食べるのも、たまにはいいでしょう?」
「ふん。我が城の厨房に比べれば味も雰囲気も三流以下だ。……だが、まあ、たまには毒を食らうのも王の度量というものだな」
ディアボロはそう言いながら、パイを大きな口で頬張った。彼の喉の奥から、かすかに「ぐる、ぐる……」という音が漏れる。それは猫の姿でなくても、彼が心底リラックスしている時に出る、幸せの音だった。
「マスター。明日はまた忙しくなりますよ。新作のメニューも考えなきゃいけないし」
「わかっている。アルフレッド、貴様の献身に免じて、明日は特別に我が直々に調理を指導してやろう。感謝するが良い」
「いや、指導は結構です。それより、明日の朝は少しゆっくり寝かせてくださいね」
「却下だ。我は今日の分まで、明日は完璧な朝食を要求するからな!」
ディアボロは誇らしげに瞳を輝かせた。
結局、アルフレッドの休日は半分以上、このわがままな魔王に奪われてしまった。だが、小麦色の腕に残る猫の時の柔らかい重みと、今隣で楽しそうにパイをかじる彼の姿を見て、不思議と悪い気はしなかった。
アルフレッドはパイの最後の一口を飲み込み、沈みゆく夕日を眺めながら、明日からの騒がしい日常に思いを馳せた。
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