第9話 『魔導料理の誤算と、逆転の主従関係』
その日の朝、ディアボロが厨房に持ち込んできたのは、表紙に禍々しい髑髏の装飾が施された一冊の古文書だった。彼はそれを、まるで聖典でも扱うかのような手つきでアルフレッドの目の前に広げた。
「アルフレッド、刮目せよ。我はついに、我が城の繁栄を永遠のものとする究極の叡智を手に入れたぞ。この魔導料理書『深淵の食卓』に記された献立を供すれば、客どもは我が威光に平伏し、貴様の貧弱な魔力も爆発的に増強されるであろう」
「マスター、その本の装丁からして、まともな料理が載っているとは思えないんですが。……あ、いえ、とにかく、そんな怪しい本に頼らなくても、俺たちの店の味は今のままで十分ですよ」
アルフレッドはゴシゴシとフライパンを磨きながら、いつものように適当にあしらおうとした。だが、ディアボロのルビーのような瞳は、これまでにないほど真剣な輝きを放っていた。
「否だ! 我は貴様がいつまでも弱々しい人間であることに、一抹の不安を感じているのだ。貴様の魔力があの聖女や聖騎士に劣るがゆえに、我という王がわざわざ猫になってまで守ってやらねばならぬ事態になる。貴様が強くなれば、我が巡回をする手間も省けるというものだ」
「結局、自分が楽をしたいだけじゃないですか……。じゃなくて、とにかく俺は今のままでいいんです」
しかし、ディアボロの強情さは、一度火がつくと誰にも止められない。
彼はアルフレッドが目を離した隙に、厨房の片隅で怪しげなスープを煮込み始めた。魔界から取り寄せたという、七色に発光するキノコと、時折叫び声を上げる謎の香辛料。それを水と一緒にドバドバ入れた鍋からは不気味な紫色の煙が立ち昇り、天井の換気扇が聞いたこともないような異音を立てている。
「完成だ! さあアルフレッド、我が魔力を込めて作り上げたこの『覚醒のキノコポタージュ』を飲み干すが良い!」
「絶対に嫌ですよ! それ、スープじゃなくて毒劇物でしょう!」
アルフレッドは必死に抵抗したが、ディアボロは彼の顎を掴み、強引にその紫色の液体を流し込んできた。
喉を通る瞬間の感覚は、まるで稲妻を飲み込んだかのようだった。
「……ッ!? なんだこれ、体が熱い……」
「はっはっは! どうだ、我が魔力の洗礼は! これで貴様も、我が右腕としてふさわしい力を……」
ディアボロの勝ち誇った笑い声が、途中で止まった。
アルフレッドの全身から、バチバチと蒼い電光が走り始めたのだ。それだけではない。彼の意識がこれまでにないほど澄み渡り、同時に腹の底から説明のつかない万能感が湧き上がってきた。
「……マスター。なんだか、視界が広くなった気がします」
アルフレッドがゆっくりと立ち上がると、ディアボロが怯えたように一歩下がった。アルフレッドの身体からは、かつての勇者としての覇気すら上回る、圧倒的な魔圧が溢れ出していた。
「あ、アルフレッド? 貴様、その気配はなんだ。魔力増強が……少し、いや、一分子どころではなく過剰に効きすぎているのではないか?」
アルフレッドは自分の手を見つめた。力が溢れている。そして、その力と共に、これまで溜まっていた感情が、真っ直ぐに爆発した。
「マスター。……いえ、ディアボロ。あんた、さっきからうるさいんですよ」
「な……!? 貴様、今、我を呼び捨てにしたか!」
「呼び捨てがなんだ。あんたのせいで俺の休日は台無し、店は毎日隠蔽工作で胃が痛い。……さあ、今すぐその汚い鍋を洗って、床のワックスがけをしてください。一分子の曇りも残さず、です。いいですね?」
アルフレッドが低く、重厚な声で命じると、ディアボロの身体がビクンと震えた。
彼は瞳を大きく見開き、信じられないものを見るような顔でアルフレッドを見つめた。
「き、貴様……我に命じるのか? この魔王ディアボロに向かって、掃除を……?」
「聞こえなかったんですか? それとも、俺の魔力で直接『教育』されたいんですか?」
アルフレッドが小麦色の腕を軽く振ると、厨房のシンクに積んでいた皿を浮かび上がらせ、一斉に空中に静止させた。
空間そのものを支配するような絶対的な威圧。
ディアボロは顔を真っ青にし、シャキッと出そうとした爪を慌てて引っ込めた。
「わ、わかった! 命令するな、殺気を出したまま我を見るな! 洗えば良いのだろう、洗えば!」
かつての暴君は、見る影もなくエプロンを身に付け、泣きそうな顔でシンクに向かい、言われた通りに鍋を洗い終えると、今度は震える手で紅茶を淹れて持ってきた。
アルフレッドはカウンターにどっかと座り、ディアボロが淹れてきた上質な紅茶を啜った。
「温度が低いです。淹れ直してください」
「貴様! 我が淹れた茶にケチをつけるとは……」
「……あ?」
アルフレッドが片眉を上げると、ディアボロは悲鳴を上げ、全力で湯を沸かし始めた。
立場が完全に逆転した『キッチン・ブラン』。アルフレッドの小麦色の腕は、今や料理を作るためではなく、魔王に指示を飛ばすためにあった。
昼時になり、客が入ってきても暴君ぶりは止まらなかった。
厨房で必死に肉を焼くディアボロに対し、アルフレッドはカウンターから冷酷に指示を飛ばす。
「焼きが甘い。一分二十秒、追加で加熱してください。客席の温度管理も任せましたよ。あんたの冷気で、一分子の狂いもなく二十二度に設定して。あ、ガイルが来たら、あんたが愛想良く接客するんですよ?」
「無理だ! 我が人間に愛想を振りまくなど……」
「セロリ、ですよ?」
「いらっしゃいませぇ!! 最高の席へご案内いたしますわ!!」
ディアボロは裏返った声で叫び、入ってきた客を恐怖で硬直させながらも、必死に笑顔を作って案内していた。その姿は、来店してきた客たちが思わず笑ってしまうほど、滑稽で不憫なものだった。
夕方になり、スープの効果がようやく切れ始めた。
アルフレッドの身体から蒼い光が消え、いつもの料理人としての穏やかな気配が戻ってくる。同時に猛烈な倦怠感と、自分がおこなったことへの記憶が薄れ、後悔が一気に脳内に押し寄せてきた。
「……あ、あれ? 俺、今、何を……」
目の前には、ボロボロになった燕尾服を纏い、床に這いつくばってタイルを磨いているディアボロの姿があった。
彼の銀髪は埃まみれで、ルビーの瞳からは魂が抜けたような涙が、一滴だけ零れそうになっていた。
「……マスター? 何してるんですか、そんなところで」
アルフレッドが恐る恐る声をかけると、ディアボロは凄まじい勢いで跳ね起きた。
彼は震える指先でアルフレッドを指差し、言葉にならない悲鳴を上げた。
「アルフレッド!! 貴様、貴様ぁぁ!! 我を……あのような……雑巾と同じ扱いをしおって! 爪が出るぞ! もう、根元から全部出ているぞ!!」
ディアボロの指先からは、過去最高に長い爪が十本同時に飛び出した。だが、その瞳の奥には、アルフレッドへの恐怖の残滓がはっきりと刻まれている。
「わー! すみません、本当に覚えてないんです! でも、店が凄く綺麗になってますね。流石はマスターです、掃除の才能がありますよ」
「才能などあるか! 我は王だ、掃除大臣ではない! 貴様、今すぐ跪いて我に詫びろ! 先日のシフォンケーキよりも、もっと豪華な菓子を今すぐ我の口に放り込め!」
ディアボロは怒っているのか、甘えているのか分からない様子でアルフレッドに詰め寄った。
アルフレッドは苦笑いしながら、彼の銀髪に付いた埃を丁寧に払う。
「わかってますよ。お詫びに、最高に熱い情熱の詰まった新作のデザートを作りますから。……でもマスター、あの本はもう二度と使わないでくださいね。俺、自分が怖かったですから」
ディアボロは不服そうに黙り込んだが、アルフレッドの手が銀髪に触れると、やはり喉の奥から「ぐる……」とわずかに音が漏れた。
彼は自分の爪をそっと引っ込め、燕尾服の裾を整えながら、小さな声で呟いた。
「……あのような貴様など、二度と見たくはない。貴様は我が指示に困り顔で従っている時が、一番……マシだからな」
穏やかなはずの一日は、こうして幕を閉じた。
逆転した主従関係は元に戻ったが、ディアボロの手によって掃除され尽くした厨房だけが、その嵐のような空間を物語っていた。
アルフレッドは困ったように眉を下げ、せめてもの罪滅ぼしのつもりで、泣き言を漏らし始めた魔王のために、砂糖をたっぷり入れたお茶を用意した。
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