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元勇者だけどたまに猫になる魔王と一緒に暮らしてレストランやってます。この関係は誰にも言えません  作者: 甘城ソウヤ
第4部:遠き日の記憶と、冷たい祈り

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第79話 『雨音の朝食と、甘く煮詰める時間』

※アルフレッド目線

 王都の空は分厚い灰色の雲に覆われ、しとしとと初夏の雨が降り続いていた。


『キッチン・ブラン』の二階、自室のベッドの上で、俺は頭を抱えていた。時刻はすでに、普段の起床時間を大幅に過ぎている。いわゆる大寝坊だ。だが、それには明確な理由があった。


 昨夜の光景が、脳裏から離れないのだ。俺が淹れた紅茶を飲んだディアボロは『我が長年飲んできた泥水を、一瞬で忘れさせるほど甘いな』と。


「……まずい。いくらなんでも、泥水みたいなものと比べられるなんて……」


 いや、違う。マスターの味覚が、いまの生活で『泥水レベル』にまで破壊されているのではないか? 俺は料理人として、その事実を深刻に受け止めていた。

 そのため、マスターの味覚を正常に戻すための『究極の味覚リセットメニュー』を夜通し考え込んでしまい、気づけば空が白んでいたのだ。


「やばい、マスターが腹を空かせて怒ってる!」


 俺は慌ててベッドから跳ね起き、階段を駆け下りた。


 一階の厨房へ飛び込むと、そこからはなぜか「カチャ……ガンッ」という、ひどく不器用なフライパンの音が聞こえてきた。


「……マスター?」


 厨房にいたのは、漆黒の燕尾服の上に真っ白なエプロンを不格好に身につけたディアボロだった。彼は珍しく魔力を使わず、コンロの火と格闘しながら、フライパンを睨みつけている。


「遅いぞ、アルフレッド。我を待たせるとは何事だ」


 振り返ったディアボロは、いつものように尊大に言い放ったが、その白磁の頬にはほんの少しだけ煤がついていた。


「貴様がいつまでも起きぬから、我が直々に至高の試作を作ってやったのだ。さっさと食え」


 ドン、とカウンターに置かれたのは、縁が少し焦げたトーストと、形がいびつで黄身が崩れた目玉焼きだった。


 俺はそれを見て、ハッとした。


(……そうか。味覚がおかしいから、自分で味の基本からリハビリしようとしているのか……!)


 俺はなにか他に手伝えることがないか考えながら、目の前の朝食のメニューを見つめる。


「……いただきます」


 俺は席につき、その不格好なトーストに目玉焼きを乗せてかじりついた。

 少し焼きすぎたパンの苦味。だが、それ以上に、彼が俺のために頑張ってくれたという事実が、最高のスパイスになっていた。


「どうだ。我が計算し尽くした熱量の味は」


 ディアボロが、腕を組んで不機嫌そうに、しかしどこか期待を込めた目で見下ろしてくる。


「……最高に美味しいです」


 俺が心から笑って答えると、ディアボロは「ふん。当然だ」とそっぽを向きながらも、喉の奥で微かに「ぐるる……」と音を鳴らした。


「これ、食べ終わったら、紅茶、淹れましょうか?」


 おそるおそる俺はディアボロに問いかける。


「当然だ、我はまだ何も食べていないのだからな」


 雨音だけが静かに響く店内で、二人だけ少しズレた朝食の時間が流れていった。



 昼過ぎになっても雨脚は弱まらず、ランチタイムの客足は完全に途絶えていた。


「今日はもう、のんびりするしかないですね」


 俺は空いた時間を利用して、厨房のコンロに厚手のホーロー鍋を火にかけた。作るのは、たっぷりの新鮮な牛乳と生クリーム、そしてほんの少しの砂糖を、極限まで弱火で煮詰めて作る『特製ミルクジャム』だ。


 ……マスターの味覚が『泥水レベル』まで壊れているなら、強烈な味ではなく、こういう素材そのものの優しい甘さからリハビリしていくのが一番なはずだ。

 俺は勇者としての使命感……ではなく、一人の料理人としての情熱を燃やし、焦げ付かないように静かに木べらを回し続けた。


 しばらくすると、厨房から店内へ、ミルクとバニラビーンズの甘く、どこまでも優しい香りが漂い始めた。


「……アルフレッド。その甘ったるい匂いはなんだ。我の読書の邪魔だ」


 窓際の特等席で本を広げていたディアボロが、不満げに鼻を鳴らしながら立ち上がった。だが言葉とは裏腹に、その足取りは迷うことなく厨房の俺の隣へと向かってくる。


「ミルクジャムを作ってるんです。マスターの舌のために、極限まで優しい甘さを引き出そうと思って」


「ふん。我が舌は常に最上の刺激を求めているというのに、そのような軟弱な……」


 ディアボロは鍋を覗き込み、文句を言いかけたが、ふと俺の手元を見て眉をひそめた。


「アルフレッド。貴様のその木べらの動かし方はなんだ。美しくない」


「えっ、そうですか? 底が焦げないように、ちゃんと八の字に回してますけど」


「違う! 熱の伝わり方が均一ではない。それではミルクの精霊が目を回してしまうではないか」


 ディアボロは痺れを切らしたように、俺の手からひったくるように木べらを奪い取った。


「貸せ。我の美学というものを教えてやる」


 魔王の白い指先が、木べらを優雅に、そして一定のリズムで滑らせていく。力任せではなく、鍋の中の液体を慈しむような、丁寧な手つきだ。


 いつの間にか、俺も彼の隣に立ち、火加減を微調整しながら鍋を見つめていた。


 しとしとと降る雨音と、鍋の中のミルクがコト、コト、と鳴る音だけが、静かな空間に響いている。


「……マスター。そろそろいいですよ」


 俺が火を止めると、鍋の中には、とろりとした艶やかな象牙色に輝く、極上のミルクジャムが完成していた。


「完璧ですね」


「当然だ。我が直々に手を下したのだからな」


 俺は新しく沸かしたお湯で、いつもより味の深みがある濃いめの紅茶を淹れた。そして、それぞれのカップに、出来立てのミルクジャムをたっぷりと落とし込む。

 雨の日の少し冷える店内に、芳醇な茶葉と甘いミルクの香りが溶け合った。


 温かいティーカップを二つ並べ、俺たちはカウンターで向かい合った。


「……ふむ。悪くない」


 ディアボロが静かに目を閉じ、ジャムを溶かした紅茶を味わう。その喉の奥から、機嫌の良い時にしか鳴らない「ぐるる……」という微かな音が漏れた。


 その様子を見て、俺はようやく胸を撫で下ろした。そして、今朝からずっと気になっていた『一番の懸念』を、恐る恐る口にする。


「……マスター。味覚、少しは治りそうですか?」


「……は?」


 ディアボロはカップを置き、訝しげに俺を見た。


「いや、その……昨日の夜、マスターが言ってたじゃないですか。俺の紅茶が『泥水と比べられるくらい』だって。だから、俺、マスターの味覚が泥水レベルに破壊されちゃったのかと心配で……」


 俺が真剣な顔で言うと、ディアボロの動きがピタリと止まった。

 彼は、俺の顔をしばらく凝視し……やがて、その深紅の瞳に『呆れ』と『脱力』の色を浮かべた。


 ディアボロが額に手を当て、深い深い溜息を吐く。


「マスター? やっぱり、まだおかしいですか?」


 俺が本気で心配して覗き込むと、ディアボロは何かを言い返そうとして口を開き……そして、ふっと小さく、不敵に笑った。


「……あぁ、重症だな」


「えっ!? やっぱり!?」


「当分は治らん。泥水の記憶がこびりついて離れんからな」


 ディアボロは、わざとらしく尊大な態度で腕を組み、ニヤリと口角を上げた。


「ゆえに、アルフレッド。貴様がこうして、我の味覚が完全に戻るまで、我の世話をしろ。決して逃がさぬ」


「……っ、わかりましたよ! 俺が責任持って、治るまで美味いものを作り続けますから!」


 俺が力強く請け負うと、ディアボロは「ふん」と鼻を鳴らし、再び甘い紅茶を口へと運んだ。


 すれ違っているのに、なぜか極上に温かい。

 雨の日の静かな『キッチン・ブラン』には、今日も不器用な時間が、ゆっくりと煮詰まっていくように流れていた。

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