第78話 『自由を愛した若者と、鳥籠の玉座』
『キッチン・ブラン』の午後は、穏やかな光と静寂に包まれていた。
客足が途絶えたフロアで、アルフレッドはディアボロの背後に立ち、彼の銀髪を丁寧に梳いていた。以前贈った深紅のベルベットリボンを、緩まないように、かつきつすぎないように結び直す。
アルフレッドの指先が、冷たく滑らかな銀糸に触れるたび、ディアボロは目を閉じてその微かな感触を味わっていた。
「……マスターって」
不意に、アルフレッドが背後から声をかけた。
「昔から、そんな偉そう……じゃなくて、王様らしかったんですか?」
悪戯っぽい響きを含んだその問いに、ディアボロは少しだけ眉を動かした。
普段であれば「我を誰だと思っている」と即座に切り返すところだ。だが、午後の暖かな陽だまりと、髪を梳かれる心地よさが、彼の心の奥底に沈めていた硬い扉を、ほんの少しだけ開かせた。
「……昔の我は、ただの風のようなものだった」
ポツリとこぼれた声は、いつもより低く、そしてどこか遠かった。
アルフレッドの手が一瞬止まる。
ディアボロはゆっくりと瞼を落とし、深紅の瞳を閉ざした。
光が遮断された視界の裏側に、色彩の薄い、遠い日の記憶が蘇る。
数百年前。彼は魔王でもなければ、貴族でもなかった。ただ、生まれ持った規格外の魔力を持て余し、魔界の荒野を当てもなく彷徨う、名もなき魔物に過ぎなかった。
誰を支配するでもなく、誰に服従するでもない。
気に入らないものがあれば吹き飛ばし、眠りたければ岩陰で眠る。魔界の空に吹き付ける自由な風のように、ただ己のためだけに生きていた。
だが、その過ぎたる力は、彼を放ってはおかなかった。
ある日、彼の前に地平線を埋め尽くすほどの漆黒の軍勢が現れた。それは、死期が近づき、自らの絶対的な統治を継ぐ「後継者」を探していた、完璧で孤高な先代魔王の軍だった。
「我に跪けなどと、笑わせるな」
若き日のディアボロは、その強大な軍勢を前にしても鼻で笑い、一人で数万の兵を相手に暴れ狂った。
だが、多勢に無勢。
何日にも及ぶ激戦の末、魔力が底を尽き、彼は無数の鎖に繋がれた。
圧倒的な理不尽による捕縛。それが、彼の呪いの始まりだった。
「次期魔王候補」という重々しい肩書を与えられ、漆黒の魔王城に押し込められた。窓のない石室。息の詰まるような分厚い壁。そこで彼は、厳しい管理の下、次代の王となるための膨大な知識を詰め込まれ、ただひたすらに「力を蓄える」ことだけを強要された。
広大な荒野を駆けていた風は、冷たい石の箱に閉じ込められたのだ。
自由を奪われた城での生活は、若きディアボロの精神をゆっくりと削り取っていった。そこで彼は少しでも城の外の空気を吸うため、「領地の視察」という名目で、あえて環境の劣悪な冥府の鉱山へと度々赴いた。
薄暗く、埃っぽい採掘場。そこでは、微細な触覚に優れたスライムたちが、泥と砂にまみれながら、終わりのない仕分け作業の労働力として酷使されていた。
監視役の魔族が鞭を鳴らす中、ディアボロの目は、泥沼の底で蠢く一つの小さな影に引き寄せられた。
それは、一匹の薄黒いスライムだった。
他の者が疲労で動きを鈍らせる中、そのスライムだけは異常なほどの精度と速度で、真っ黒な泥の中から黒曜石だけを完璧に拾い上げていた。泥に塗れ、形を崩しながらも、ただ与えられた役割を必死にこなしている。
ディアボロは、その姿から目を離せなくなった。
理不尽な環境の中で、泥にまみれながら必死に足掻いているその小さなスライムの姿が、理不尽に城に押し込められ、息を潜めて生きることを強要されている「自分自身」と、酷く重なって見えたのだ。
気づけば、ディアボロは歩き出していた。
高級な靴が泥に沈むことも厭わず、彼は採掘場の底へ降り立ち、そのスライムの前に立った。
監視役たちが驚愕して道を開ける中、彼は白磁のように美しい手を泥の中に差し出し、その震える不定形の塊を掬い上げた。
「……我の側近となれ。こんな泥の中は、貴様には似合わん」
それが、ゼノンとの出会いだった。
城へ連れ帰ったゼノンは、ディアボロが唯一心を開ける存在となりつつあった。
だが、運命は彼にさらなる理不尽を突きつけることとなる。
やがて、先代魔王の死期が訪れる。
広すぎる寝室で、誰の手を握ることもなく、一人きりで息を引き取った先代。その死に様は、あまりにも空虚で、凄惨なものだった。
そして、ディアボロは先代の書斎で、あの一文を見つけてしまう。
『我は、間違えたのかもしれぬ』
完璧な統治を敷いた孤高の王が残した、痛切な後悔。
それを見たディアボロは、はっきりと悟った。感情を殺し、孤独の中で完成された魔王など、ただの悲しい幻想に過ぎないのだと。
だが、魔界の実権を握る『理詰めの翁』をはじめとする旧貴族たちは、その真実は全く知らず、ディアボロに先代魔王と同じ働きをするよう求める。
そして彼らは、ただの成り上がりのディアボロに対し、王座に就くための絶対条件を突きつけた。
「先代様のように、全ての情を捨てよ。感情を殺し、完璧で孤高な王になれ。それこそが、魔界の理である」
ディアボロは鼻で笑った。
「くだらん。我はそのような窮屈な鳥籠には入らぬ」
だが、翁たちは冷酷だった。彼らは、ディアボロが唯一傍に置くことを許していたゼノンを捕らえ、その不定形の体に魔力断ちの刃を突きつけたのだ。
「孤高の王にならないというのなら、王の心を惑わすこの泥の塊は、今ここで消去する。……魔界に、王の弱点など不要だ」
刃の切っ先が、ゼノンの核である黒曜石に触れる。ゼノンは恐怖に震えながらも、声を殺してディアボロを見つめていた。
自分のようなただの泥の塊のために、次期魔王であるディアボロが揺らめくことなどあり得ない。諦めているような、悲しい目を彼に向け、ゼノンは死の覚悟を固める。
ディアボロは、その光景を前にして、己の中で何かが決定的に冷え固まっていくのを感じた。
彼は、ゆっくりと顎を上げ、深紅の瞳で翁たちを睥睨した。そして、絶対零度の声で言い放つ。
「……ふん。そのような泥の塊、我には一分子の価値もない」
ディアボロはゼノンを、視界を汚すだけの塵のように見下ろした。
ゼノンが、ビクリと震える。
そのディアボロの態度に満足した翁たちは、ゼノンに突きつけていた刃を離し、鞘に収めた。
「我は、孤高の王だ。有象無象の命など、我が覇道には何の関わりもない」
それが、ゼノンの命を守るために彼が選んだ、唯一の嘘だった。
気ままな風のような若者は、その日、完全に死んだ。
彼はゼノンを守り抜くため、彼には何の執着もないという「冷酷な主君」を完璧に演じ切ることを決めたのだ。
自ら「王の鎧」を身に纏い、絶対的な主従の壁を作る。
誰にも心を開かず、誰にも頼らない。彼は、孤独な玉座という名の鳥籠に、自ら鍵をかけた。
それからというもの、ディアボロは息ができなくなった。
冷たい玉座の上で、ただ世界を睥睨し、退屈だとわめきながら、終わりのない孤独の砂を噛み続ける日々。
「……マスター? 痛かったですか?」
不意に、少しだけ心配そうな声が耳元に落ちた。
ハッとして目を開けると、午後の柔らかい光が視界に広がった。
背後では、アルフレッドがリボンの結び目から手を離し、申し訳なさそうにこちらを覗き込んでいる。
「少し、力が入ってしまったかもしれないです。きつかったですか?」
ディアボロは、ゆっくりと息を吐き出した。
冷たい石の玉座の感触はどこにもない。あるのは、座り慣れた木の椅子の温もりと、厨房から漂う微かなスパイスの匂いだけだった。
「……いや。問題ない」
ディアボロは静かに答え、鏡をちらりと見た。
深紅のリボンで完璧に束ねられた銀髪。そこに映る自分の顔は、あの冷たい玉座に縛られていた頃のような、死人のような顔ではない。
彼は、鏡越しにアルフレッドの群青の瞳を見つめた。
アルフレッド。
生まれた時から孤児院という鳥籠の中にいて、自由を求めて逃げ出したのに、結局「勇者」という役割の鳥籠に押し込められた男。
そして自分は、自由だったのに、理不尽に王という鳥籠に押し込められた男。
そんな二人が、この路地裏の、白い壁に囲まれた『キッチン・ブラン』を自分たちの手で作り上げた。
肩書きも、種族も、全てを削ぎ落とし、ただの「マスター」と「料理人」として。
ディアボロは、アルフレッドが目の前のテーブルに置いたティーカップを手に取った。中には、アルフレッドが彼のためだけに淹れた特製ブレンド『ブラン』が満たされている。
一口、ゆっくりと飲む。華やかで、どこまでも深い香りが、胸の奥底に残っていた冷たい記憶の残滓を、完全に溶かして流し去っていく。
ディアボロの口元に、かつて自由を愛した名もなき若者だった頃の、不敵で、純粋な笑みが零れた。
「……アルフレッド」
「はい?」
「貴様の淹れる茶は……我が長年飲んできた泥水を、一瞬で忘れさせるほど甘いな」
その言葉に、アルフレッドは目を見開いた。
魔王からの、あまりにも直球で、不意打ちすぎる肯定。
「えっ……! あ、砂糖、入れすぎました!? すみません、いつも通りにしたつもりだったんですけど……!」
アルフレッドが慌ててポットを確認しようとする。
その鈍感で不格好な反応に、ディアボロは呆れながらも、どうしようもなく肩の力が抜けるのを感じた。
「……馬鹿者が。味覚の話ではない」
ディアボロはそっぽを向き、再びティーカップを口に運んだ。
窓の外には、柔らかな午後の日差しが降り注いでいる。冷たい王城の風は、もうここには吹かない。
「……ぐるる……」
慌てている料理人には聞こえないよう、ディアボロの喉の奥からは、最高に心地よい満足の音が、静かに、そして確かに響いていた。
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