第77話 『魔王城の破裂危機と、華麗なる丸投げ』
王都の職人街に、爽やかな朝の光が降り注いでいた。
『キッチン・ブラン』の厨房では、アルフレッドが小気味よい音を立てて野菜を刻んでいる。昨晩ディアボロが作ってくれた、『りんごのコンポートとパンナコッタ』の余韻に浸り、彼はご機嫌な笑みを浮かべていた。
窓際の特等席では、ディアボロが優雅に脚を組み、淹れたての紅茶を啜っている。その白磁のような頬は、自分の作った料理にアルフレッドがひれ伏したという事実を思い出すように、隠しきれない満足感で緩んでいた。
だが、その陽だまりに微睡むような空気は、無慈悲な扉の音によって唐突に引き裂かれた。
バンッ!!
裏口の重い樫の扉が、蝶番が悲鳴を上げるほどの凄まじい勢いで開け放たれた。
「ま、魔王様ぁぁぁっ!! た、大変ですぅ!!」
転がり込んできたのは、真っ青を超え半透明になり、両手で胃を必死に押さえ込んだゼノンだった。彼は床にズルズルと這いつくばりながら、涙声でディアボロに縋り付いた。
「しょ、書類が……書類がもう魔王城の天井まで溜まりまくって、物理的に魔王城が破裂してしまいますぅぅぅ!!」
「……ゼノンの言う通りです、魔王様」
その後ろから、一分の乱れもない足取りでルシウスが店内へ入り、冷徹に鉄の算盤をパチリと弾いた。
「現在、未決裁書類の質量が魔王城の構造耐力を上回り、このままでは崩落の確率が99.8パーセントに達しています。……至急、魔王様は玉座にお戻りいただき、ハンコを一秒間に三回のペースで押し続けていただく必要があります」
ルシウスの眼鏡が、朝の光を反射して鋭く光った。
だが、当のディアボロは全く動じなかった。
それどころか、ティーカップをソーサーへゆっくりと戻し、ルビーのような深紅の瞳でゼノンとルシウスを冷ややかに見下ろした。
「……ふん。我が知ったことか。たかが紙切れごときで破裂するような軟弱な城など、一度崩れ落ちてしまえ」
「へっ……!?」
ゼノンの目が点になる。ディアボロはさらに尊大に言い放った。
「ゼノン。貴様は我が影であろう。これは次期魔王としての修行だ。それと理詰めの翁がうるさいようなら、『我は人間界への視察中だ』とでも言っておけ」
華麗なる丸投げだった。
そしてディアボロは、何事もなかったかのようにアルフレッドへ向き直る。
「……アルフレッド、茶が冷めた。淹れ直せ」
アルフレッドは包丁を置き、肩をすくめた。
「まあ、マスターなら、そんな紙切れなんか一発で倒せますよ」
「……ひぐっ……アルフレッドさんまで……」
容赦のないアルフレッドの言葉に、ゼノンの身体が完全に限界を迎え、床へドロドロに溶け出し始めた。
だが、ルシウスは冷徹に算盤を弾き返した。
「……『次期魔王の修行だ』と言い逃れされることは想定済みです。今回ばかりは、魔王様直筆のサインが必要な重要書類が『十二万三千五百十枚』あります。ゼノンでも代行可能なのですが、その場合は一枚ごとに委任状が必要になるため、処理枚数は倍になります。さあ、今すぐ魔王城へお戻りください。腕ずくでもお連れしますよ」
ルシウスが一歩踏み込む。その言葉に、ディアボロの顔色がわずかに翳った。
「じゅ、じゅうにまん……!? 委任しても我の負担が変わらぬではないか! 貴様、わざと面倒なシステムを作りおったな!?」
「魔界の厳正な手続きです。諦めてください」
「あの決闘を見ましたよね、ルシウスさん。あの威力のマスターなら一瞬です」
アルフレッドは書類を敵に見立て、真剣にアドバイスしている。
床で完全に液状化しているゼノンが、泡を吹きながら泣き叫んだ。
「ひぐっ……! 魔王様に書類を蹴散らされたら復元作業でボクが過労死しますし、代行させられたら二十四万枚に増えますぅぅぅ!! 魔王様、お願いですから大人しくサインするため、戻ってきてくださいぃぃぃ!!」
ディアボロは絶体絶命の窮地に立たされていることを察した。
このままでは魔界に連れ戻され、来る日も来る日も冷たい玉座で紙切れと格闘する羽目になる。何より、この温かい陽光も、アルフレッドの淹れる極上の紅茶も、三度の美味い飯も奪われてしまう。
それは、ディアボロにとって断じて許されざる屈辱だった。
(ええい、こうなれば……! 我が『サインなどできぬか弱い存在』になるしかあるまい!!)
ディアボロの視界の端に、あるものが映った。
それは、店の一角にルシウスが私費を投じて設置した、完全防御仕様の特製展示ケース。
その中で燦然と輝いているのは、かつて服飾師サルトルが残した、あの『ちび燕尾服』だ。
ディアボロは不敵な笑みを浮かべた。
「魔王様? まさか……」
ルシウスが危険を察知して手を伸ばすより早く、ディアボロの指先から放たれた黒い魔力が展示ケースを跡形もなく吹き飛ばした。
バリーンッ!!
ガラスの砕ける音と共に、ディアボロは自らの強大な魔力を強引に圧縮し、逆流させる。
店内を、目を開けていられないほどの眩い銀色の光が包み込んだ。
アルフレッドが両手で顔を覆う。
やがて、光がゆっくりと収まった。
「マスター!?」
そこには、威圧的な魔王の姿はない。
縮んだ燕尾服を完璧に着こなし、トコトコと厨房へ走ってきて、アルフレッドの足元にちょこんと隠れるように立つ、透き通るような白磁の肌と愛くるしい大きなルビーの瞳のちびディアボロの姿があった。
「見よ!」
ちびディアボロは、アルフレッドのエプロンの裏から短い腕をビシッとルシウスに向けて突き出し、自信満々の顔で言い放った。
「我は今、原因不明の魔力暴走により、幼子になってしまった! このようなか弱い子供に政務を強いるなど、魔界の王政としてあるまじき児童虐待であろう! ゆえに、我はここで休まねばならん! 異論は認めぬ!」
完璧なる屁理屈だった。
その恐るべき暴挙を前に、いやそれ以前にディアボロの愛くるしい姿に、冷徹な徴収官ルシウスの算盤が床に滑り落ちた。
「…………ッ!!」
ルシウスは、目の前に現れた『生きた至宝』の破壊的なまでの尊さを直視してしまい、両手で顔を覆った。
「あぁ……神々しいっ……!!」
彼はそのまま崩れ落ち、完全に機能停止する。
一方、床に広がっていたゼノンは、絶望のあまりさらに薄く、広く液状化していく。
「へ、陛下ぁぁぁ!? わざとですよね!? 書類から逃げるためだけに自分から縮みましたよね!? ボクの胃壁がもう完全に藻屑ですぅぅぅ!!」
ゼノンの悲痛な叫び声が厨房に響き渡る。
アルフレッドは、自分の足にぎゅっとしがみついている小さな魔王を見下ろした。
「アルフレッド、我は腹が減った。パンケーキを焼け」
ちびディアボロが、深紅の大きな瞳で見上げてくる。その声は愛らしく、態度はどこまでも傲慢だ。
アルフレッドは大きな溜息を吐き、両手でちびディアボロをヒョイと抱き上げた。
「……仕事から逃げるためだけに、自分から幼児化する魔王がどこにいるんですか」
呆れながらも、アルフレッドの腕の中には、温かくて小さな重みがすっぽりと収まっている。
「ふんっ」
「……はぁ。わかりましたよ。蜂蜜たっぷりのやつ、焼きますから」
「当然だ。あと一番大きなバターを乗せろ」
ちびディアボロはアルフレッドの腕の中で満足げに鼻を鳴らし、短い腕でしっかりとアルフレッドの首にしがみついた。
機能停止した徴収官と、液状化して泣き叫ぶ魔王代理。そして、幼児化した魔王にパンケーキを焼く料理人。
『キッチン・ブラン』の平和で騒がしい朝は、今日も限界突破のドタバタと共に過ぎていくのだった。
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