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元勇者だけどたまに猫になる魔王と一緒に暮らしてレストランやってます。この関係は誰にも言えません  作者: 甘城ソウヤ
第4部:遠き日の記憶と、冷たい祈り

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第76話 『脱ぎ捨てた鎧と、不器用な魔王のフルコース』

 王都の職人街に、眩しいほどの朝の光が降り注いでいた。


『キッチン・ブラン』の厨房では、ジュワァァァッ! という暴力的なまでに食欲をそそる音が響き渡っている。

 熱した厚手の鉄板の上で、分厚く切り出されたベーコンが自らの脂で香ばしく焼き上げられていた。その隣には、縁がカリッと黄金色に焼け、中心の黄身が太陽のように輝く半熟の目玉焼きが並んでいる。


 アルフレッドは、漆黒のコックコートの袖を捲り上げ、小気味よい手つきでフライパンを揺すっていた。


 その顔には、どこか無理をしていた陰りは、もう微塵も残っていない。

 長年彼を縛り付けていた、見えない「勇者の鎧」は、昨夜の深夜の厨房で完全に崩れ去っていた。


「おはようございます、マスター。約束通り、とびきり美味いごはんですよ」


 アルフレッドは晴れやかな笑顔で、湯気を立てる皿を窓際の特等席へと運んだ。

 そこに座っていたディアボロは、差し出された朝食と、アルフレッドの晴れやかな顔を交互に見比べた。そして、磁器のように白い指先でフォークを手に取ると、不機嫌そうに鼻を鳴らした。


「……ふん。無駄に眩しい顔だ。吹っ切れたのか」


 そっけなく言いながら、ディアボロはナイフで分厚いベーコンを切り分け、とろけ出す黄身をたっぷりと絡めて口へと運んだ。


 塩気と脂の旨味、そして卵の濃厚な甘みが口の中で完璧に調和する。シンプルな料理だからこそ、作り手の精神状態が味に直結する。

 今日のアルフレッドの料理には、迷いが一分子もなかった。


「……悪くない」


 ディアボロは喉の奥で微かに「ぐるる……」と満足げな音を鳴らし、あっという間に皿を空にした。そして、紅茶を一口啜ると、アルフレッドを真っ直ぐに見据えた。


「……アルフレッド。貴様ばかりに良い顔をさせておくものか」


「はい?」


「今夜の厨房は、我が使う。貴様は座って待っていろ」


 ディアボロは尊大に言い放ち、立ち上がった。アルフレッドが目を丸くする。


「マスターが夜のメインを作るんですか? いや、それは助かりますけど、俺も厨房で手伝い……」


「不要だ。我が包丁を握る姿を、背後から見られるのは極めて鬱陶しい。……貴様は市場へ行き、我の舌を満足させる最高の茶葉でも探してこい。夜まで帰ってくるな」


 有無を言わさぬ魔王の命令だった。

 アルフレッドは少しだけ可笑しくなり、小さく笑った。


「はいはい。じゃあ、夜は期待して待ってますよ。……火加減だけは気をつけてくださいね」


「黙れ。我を誰だと思っている」


 ディアボロに半ば強引に背中を押されるようにして、アルフレッドは初夏の街へと足を踏み出した。


 昼下がりの王都の市場は、人々の活気と様々な品物の匂いに満ちていた。


 アルフレッドは、もう布巾を被っていなかった。漆黒のコックコートを着たまま、素顔を晒して人混みの中を歩く。

 広場での戦闘以来、彼の顔は王都中に知れ渡っていた。すれ違う人々が、次々と彼に気づき、立ち止まる。


「あっ、勇者様だ!」


「先日は広場でお助けいただき、ありがとうございました!」


「勇者様、握手してください!」


 あっという間に、アルフレッドの周囲に人だかりができた。向けられるのは、熱狂的な眼差しと、救世主に対する無邪気な期待の声。


 かつての彼なら、この熱狂の渦に息苦しさを感じていただろう。ヴァレリウスが残した呪いのような予言――『英雄への熱狂は、いつか必ず依存と憎悪に変わる』という言葉が、鎖のように彼を縛り付けていたはずだった。


 だが、今のアルフレッドは違った。


 彼は、自分の手を見つめた。数多の魔物を屠ってきたその手は、今や数え切れないほどの野菜を刻み、肉を捏ね、誰かの胃袋を満たすための「料理人の腕」になっていた。


 アルフレッドは、群衆に向かってふっと笑いかけた。


「ごめんな。俺は今、ただの料理人なんだ」


 その言葉に、周囲の人々が少しだけきょとんとする。


「俺は世界を救うためにここにいるんじゃない。……でも、腹が減ったら、路地裏の白い店に来てくれ。とびきり美味い飯を作るからさ」


 彼は静かに、だがはっきりと告げた。

 崇拝も、期待の重圧も、今の彼にはもう重くなかった。アルフレッドは穏やかに群衆を躱し、目的の茶葉を買い終えて帰路についた。


 夕暮れ時。王都の空が茜色に染まる頃、アルフレッドは『キッチン・ブラン』の裏口の扉を開けた。


「……ただいま」


 店内に入った瞬間、アルフレッドは思わず息を呑んだ。


 厨房から、怪しいどす黒い色の煙がモクモクと立ち込めているのだ。だが、その禍々しい見た目に反して、店内には腹の底から食欲を鷲掴みにするような、暴力的なまでに濃厚な香りが充満していた。


「……遅いぞ、アルフレッド」


 煙の中から現れたのは、漆黒の燕尾服の上から白いエプロンを身につけたディアボロだった。その白磁の頬には少しだけ煤がついており、銀髪もわずかに乱れている。


 彼はそんな様子を気にも止めず、威風堂々とした足取りで、一つの深い平皿をカウンターに置いた。


「これぞ、我の情熱と魔力を極限まで圧縮した至高の一皿。……心して食すが良い」


 皿の上にあったのは、地獄の釜のようにボコボコと煮えたぎる、漆黒のソースに沈んだ巨大な肉の塊だった。


『暗黒の溶岩ハンバーグ』


 見た目の禍々しさに、アルフレッドは一瞬だけたじろいだ。

 だが、その匂いは彼が毎日作り続けてきた特製デミグラスソースの香りを、さらに奥深く、複雑に進化させたものだった。


「いただきます」


 アルフレッドはカウンターに座り、ナイフを入れた。表面は香ばしく焼き固められているが、中はスッと抵抗なく刃が入る。溢れ出す透明な肉汁が、漆黒のソースと混ざり合い、美しいマーブル模様を描いた。


 そっと、口へ運ぶ。


「……っ!」


 アルフレッドの群青の瞳が、驚愕に見開かれた。

 荒々しい見た目とは裏腹に、その味は信じられないほどに優しかった。


 肉の配合、玉ねぎの甘みの引き出し方、そしてソースの隠し味。

 それは、アルフレッドがこの店でずっと作り続けてきたレシピを、ディアボロが隣で見て研究したものだった。そして何より、アルフレッド自身が一番「美味しい」と感じる塩梅に調整されている。


 外で「勇者」としての熱狂に晒され、少しだけ人疲れしていた体に、その味が泣きたくなるほどに沁み渡っていく。


「……美味い」


 アルフレッドは、噛み締めるように呟いた。


「当然だ。我の舌に記憶された貴様の味を、我が超えられぬ道理がない」


 ディアボロはふんぞり返り、腕を組んだ。

 だが、アルフレッドが次々とハンバーグを口に運び、本当に嬉しそうに食べている姿を見て、その深紅の瞳はどこか安堵したように細められていた。


 アルフレッドは、あっという間に大きなハンバーグを平らげた。


「ごちそうさまでした。……負けましたよ、マスター。最高でした」


 アルフレッドが心からの笑顔を向けると、ディアボロはスッと視線を逸らした。


「……外で有象無象に囲まれて、また貧相な顔に戻っているぞ。これを食え」


 ディアボロはそう言い捨てて、厨房の冷蔵庫から、あらかじめ冷やしておいたもう一つの皿を持ってきた。


 テーブルに置かれたそれを見て、アルフレッドの目が再び大きく見開かれた。

 それは、真っ白で滑らかな『パンナコッタ』。そしてその横には、少しだけ大きさが不揃いで、不格好に切られた『りんごのコンポート』が添えられていた。


「これ、あの時の……」


 アルフレッドの脳裏に、この店が始まって間もない頃の記憶が蘇る。


 魔力の暴走で失敗ばかりしていたディアボロが、アルフレッドの横で不器用に包丁を握り、初めて自分の手でリンゴの皮を剥いた日のこと。

 あの時の、少しだけ不格好なリンゴの形が、そのまま乗っていた。


「……ふん」


 ディアボロはそっぽを向いたが、銀髪の隙間から見える耳の先端が、微かに赤く染まっているのをアルフレッドは見逃さなかった。


 アルフレッドはスプーンを手に取り、パンナコッタとリンゴのコンポートを一緒に口へ運んだ。

 冷たくて滑らかなミルクの甘みと、リンゴの優しい酸味が溶け合う。

 あの時よりもずっと洗練されているのに、優しい味は少しも変わっていない。


「……本当に、美味しいです」


 アルフレッドは、過去一番の、穏やかで柔らかな笑顔を見せた。

 外の熱狂など、もうどうでもよかった。自分には、この騒がしくて、温かい、帰る場所がある。


 それだけで、十分だった。


 ディアボロは、アルフレッドのその顔を見ると、照れ隠しのように小さく咳払いをした。


「……当然だ。我の城の料理人には、我が許可した最高の甘味を与えねばならんからな」


 ディアボロは傲慢にふんぞり返るが、その喉の奥からは、最高に心地よい「ぐるる……」という微かな音が響いていた。


 夜の帳が下りた『キッチン・ブラン』


 オレンジ色の淡いランプの光の下で、二人の時間が静かに流れていく。脱ぎ捨てた重い鎧の代わりに、彼らが身に纏っているのは、この店で作り上げてきた、かけがえのない日常の温もりだった。

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