第75話 『孤児院の少年と、勇者の鎧』
深夜の『キッチン・ブラン』。全ての灯りが落とされた一階の厨房で、シャッ、シャッという冷たい音が規則正しく響いていた。
アルフレッドは一人、薄暗いオレンジ色のランプの下で、サルトルに仕立てられた漆黒のコックコートを纏ったまま、愛用の包丁を砥石に滑らせていた。
だが、その動きはいつもの流れるようなそれとは違う。
『正しき秩序』 『孤児院』
昼間、現役騎士のレオナルドが持ち込んだその言葉が、アルフレッドの脳裏にこびりついて離れなかった。
砥石を滑る手が、無意識のうちに微かに震えている。
「……五月蝿いぞ、アルフレッド」
不意に、背後から低く、不機嫌な声が落ちた。
アルフレッドが振り返ると、そこには漆黒のシルクガウンを羽織ったディアボロが立っていた。銀髪が肩に広がり、深紅の瞳が呆れたようにアルフレッドの手元を見下ろしている。
「……すみません、マスター。起こしましたか」
アルフレッドが包丁を置くと、ディアボロは無言のまま、カウンターに腰を下ろした。何も聞かない。だが、その瞳が「さっさと理由を吐け」と告げていた。
アルフレッドは小さく息を吐き、静かに語り始めた。
「……俺が育った孤児院は、王都の教会の地下にありました」
ぽつり、ぽつりとこぼれ落ちる言葉。
そこは、光の届かない冷たい石の部屋だった。
異常な体力と魔力を持って生まれたアルフレッドは、孤児院の院長であるバルトロメウスの管理下で「神の至宝」として囲われ、ただ息をするだけの生活を強いられていた。感情を見せることも許されず、「正しき秩序」のためだけに動く日々。
それは、灰色の鳥籠の中で生きているようなものだった。
だが、その死んだような日々に、強引に手を伸ばしてきた少年がいた。
「俺の手を引いてくれたのは、同じ孤児院にいた、泣き虫だけど正義感だけは強い少年でした」
ガイルだった。
彼はアルフレッドの虚ろな目を見ていられず、「外の世界はもっと広くて自由なんだぞ!」と叫び、その手を引いて脱走を企てたのだ。
二人は追手を巻き、泥水にまみれながら王都の雑踏へと逃げ延びた。逃げた先で生き延びるため、そして隠れるように、ガイルは騎士団の下働きへ、アルフレッドは職人街の裏路地にある地味な酒場の下働きをするようになった。
「そこで、俺は初めて包丁を握ったんです」
アルフレッドの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
酒場の主人は口は悪かったが、料理の基礎を叩き込んでくれた。
自分が作った不格好な飯を食べて、荒くれた客たちが「うまい」と笑ってくれる。それが、アルフレッドが初めて見つけた明るい希望だった。
その酒場には、スラムの悪ガキだったギャレットがよく盗み食いに来ていた。
アルフレッドは彼を追い出すどころか、余り物でこっそり作った飯を食わせ、いつしか「相棒」と呼ばれる腐れ縁になっていた。
「そのまま、料理人として生きていくはずでした。……でも、俺の能力がそれを許さなかった」
成長するにつれ、アルフレッドの規格外の力は隠しきれなくなった。
世界を脅かす影に対抗するため、彼はガイルと、スラムで悪さをしていたギャレットを連れ出し、旅に出ることを決意した。
だが、戦果を挙げるたびに、世界はアルフレッドを放ってはおかなかった。
「周りが勝手に、俺を『勇者』として祭り上げました。そしてそれは時を経るたび、熱のこもった目線に変わっていくのもわかりました。俺の隣でずっと生きてきたガイルは、俺が世界のために感情を殺して戦っているのを一番近くで見ていた」
アルフレッドは自嘲気味に笑い、自分の両手を見つめた。
「……ガイルは俺の頑張りを知ってるからこそ、『高潔な男』だって信じてくれてる。でも、それは俺が必死に演じてた『勇者の皮』なんだ。民衆が求める完璧な勇者の期待が、ずっと息苦しかった。……俺はそんな完璧な奴じゃない」
アルフレッドは顔を上げ、オレンジ色のランプに照らされたディアボロを見据えた。
「だから……今、こうやって自分が勇者として表に出たことが少し、怖いんです」
重い沈黙が、深夜の厨房に落ちた。
アルフレッドの告白を最後まで聞いていたディアボロは、ゆっくりと腕を組んだ。そして、深紅の瞳を細め、冷ややかに言い放った。
「……くだらん」
ディアボロの言葉に、アルフレッドは目を見張った。
「貴様が勇者としてどれほど完璧に振る舞おうが、我の知ったことか。民の期待など、塵芥に等しい」
ディアボロは立ち上がり、アルフレッドの漆黒のコックコートを指差した。
「貴様は、我の胃袋を満たし、我の舌を唯一唸らせる『我が城の料理人』だ。……過去の薄汚い金属の鎧など忘れろ。貴様には、今のその服の方が、数万倍も似合っている」
それは、慰めでも同情でもない。ディアボロの嘘偽りない言葉。
アルフレッドの肩から、長年背負い続けてきた目に見えない重い鎧が、崩れ落ちていく音がした。
「……っ」
アルフレッドは、こみ上げるものを堪えるように小さく息を吐き、晴れやかな笑顔を浮かべた。
「……本当に、敵わないな」
「当然だ。我を誰だと思っている」
ディアボロが不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「マスター。……明日は、とびきり美味い朝ごはんを作りますよ」
「……ふん。期待せずに待ってやる」
ディアボロはガウンを翻し、再び二階の自室へと戻っていった。
一人残された厨房。アルフレッドの手の震えは、もう完全に消えていた。ディアボロの言葉が、胸の中に明るく灯る。彼は明日の料理のために、再び力強く包丁を握り直した。
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