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元勇者だけどたまに猫になる魔王と一緒に暮らしてレストランやってます。この関係は誰にも言えません  作者: 甘城ソウヤ
第4部:遠き日の記憶と、冷たい祈り

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第73話 『水槽の魔王代理と、黒曜石の記憶』

『魔界の政変』という大きな嵐が過ぎ去り、王都の職人街には再び穏やかな初夏の日差しが降り注いでいた。


『キッチン・ブラン』の厨房では、アルフレッドが漆黒のコックコートの袖を捲り上げ、小気味よい音を立てて野菜を刻んでいる。窓際の特等席では、ディアボロが淹れられたばかりの紅茶を優雅に啜り、平和な静寂を満喫していた。


 裏口の扉が開く音が、その静寂を途切れさせた。


「お休み中に失礼します」


 硬い声と共に現れたのはルシウスだった。

 だが、今日の彼はいつものように手ぶらではない。液状化した魔力を散らさぬよう、分厚い魔界水晶で作られた重々しい水槽を小脇に抱えていた。


 その水槽の中には、薄く黒がかった液体がたぷたぷと揺れている。


「……ルシウスさん。その水槽、どうしたんですか?」


 アルフレッドが包丁を止めて尋ねると、水槽の底からポコポコと黒い泡が弾けた。


「いやですぅ……もうなにも考えたくないですぅ……水槽の底の藻屑になりますぅ」


 聞き覚えのある情けない声。その水は完全に液状化して現実逃避を決め込んでいるゼノンだった。


 ルシウスは無表情のまま水槽をカウンターに置き、空いた手で鉄の算盤をパチリと弾いた。


「魔王様。ゼノンの液状化係数が過去最高の100.0パーセントに達し、私の業務負荷が限界値を突破しています。政変の事後処理が山積みで、彼がいないと魔界が回りません」


ルシウスは一息で言い、眼鏡をくい、と上げ、ディアボロに視線を向ける。


「至急、この軟体生物を元に戻してください」


「……ふん。決闘が終わった途端にこれか。緊張の糸が切れて溶け落ちるとは、情けない影だ」


 ディアボロが呆れたように鼻を鳴らす。

 少しため息をつき、ルシウスは懐から鈍い紫色に発光する奇妙なキノコを取り出した。


「一粒かじるだけで一週間は不眠不休に耐えうる活力を得られる、純粋な魔力の塊である深淵の雫茸を持ってきました。しかし、これを水槽に投下しても、彼は全力で拒絶するのです」


 ルシウスがキノコを水槽へ近づけると、ゼノンの液体がポコポコと激しく波打って逃げようとした。


「ルシウスさん、やめてあげてください。……お腹が減ってないってことは、何か精神的なものじゃないですか?」


 アルフレッドは、ルシウスがキノコを水槽に落とそうとするのを、すかさず制止した。食事を求めないということは、キノコの活力でどうにかなる問題ではないはずだ。


 ディアボロは席を立ち、カウンターの水槽を静かに見下ろし、ぽつりと呟く。


「……あの頃も、そうであったな」


 かつて、ディアボロがまだ先代の元で力を蓄えていた時代。視察に訪れた冥府の鉱山での情景が、彼の脳裏に蘇る。


 そこでは武具の素材となる黒鋼と、一切の光を反射しない吸光の黒曜石が共に採掘されていた。二つの鉱石は普通の魔族には見分けがつかず、触覚に優れたスライムたちが砂泥にまみれながら労働力として酷使されていた。


 その薄暗い泥の中で、異常な精度と速度で黒曜石だけを完璧に仕分ける一匹の黒いスライムがいた。

 他を圧倒するその処理能力に目を留めたディアボロは、砂泥の中へと自ら歩み寄り、我の側近となれ、と彼を連れ帰った。


 それが、ゼノンとの出会いだった。


 ディアボロは水槽から視線を外し、無言で二階の自室へと向かった。

 すぐに戻ってきた彼の手には、一つの古い皮袋が握られている。

 ドサッ、と水槽の横に袋が置かれ、中から周囲の光さえも吸い込むような漆黒の石がいくつかこぼれ落ちた。


「これだろう、ゼノン」


 ディアボロの言葉に、水槽の中の液体がピクリと反応した。

 ルシウスが算盤を置き、そのうちの一つの黒曜石を拾い上げ、水槽の中へ静かに落とす。

 石は液体の底へと沈んでいった。直後、ぼこっ、と大きな泡が立つ。そして、その吸光の黒曜石を核とするように、液体が石に纏わりついた。シュルシュルと急激に人の形を構築し始めた。


 数秒後。見慣れた姿を取り戻したゼノンが水槽から這い出し、床へへたり込んだ。


「……戻ったか。世話の焼ける影だ」


 ディアボロが見下ろすと、ゼノンの大きな瞳からポロポロと涙がこぼれ落ちた。


「魔王様が負けたらどうしようって怖くて……でも、臣下として真っ直ぐ立ってなきゃいけなくて……史上最大のプレッシャーでしたぁ……」


 決闘の間、胃痛を堪えて微動だにせず見守っていたゼノン。その頑張りの反動が一気に押し寄せてきたらしい。その言葉を聞いて、アルフレッドは予想通りだ、とそっと息を吐いた。


「……ふん。我の決裁書を処理する前に藻屑になることなど許さぬ。元の姿に戻ったらさっさと働け」


「ま、魔王様ぁぁ……」


 ゼノンは大粒の涙を流しながら、何度も頷いた。


「ボ、ボク、頑張りますう……」


 すっかり人の形を取り戻し、落ち着きを取り戻したゼノンを見て、アルフレッドはルシウスに声をかけた。


「ルシウスさん。さっきのキノコ、俺にもらえませんか」


 ルシウスが黙って手渡した深淵の雫茸を受け取り、アルフレッドは厨房で調理を始めた。


 細かく刻んだキノコを、朝からじっくり煮込んでいたロールキャベツの鍋に投入し、素早く火を通す。コンソメの優しい香りが店内に広がり、ゼノンの鼻がヒクッと動いた。


「お待たせしました。特製ロールキャベツです」


 アルフレッドが温かい湯気を立てる深い平皿をゼノンの前へ置く。

 ゼノンは震える手でスプーンを握り、一口食べた。じんわりとした温かさと、キノコに秘められた活力が、疲労しきった胃の裏側まで優しく染み渡っていく。


「……美味しいですぅ……力が、戻ってきます……」


 ゼノンは涙とスープをごちゃ混ぜにしながら、あっという間に皿を空にした。


 すっかり生気を取り戻した彼は、立ち上がって服の汚れを払うと、自らの核としていた黒曜石をディアボロへと両手で恭しく返却した。


「魔王様、ありがとうございました。……またボクが崩れて止まらなくなったら、お願いします」


 少し照れくさそうに笑うゼノン。


「ふん、どうしようもなくなったら、また来い」


 パチ、パチ、パチ。


 その穏やかな空気を、無慈悲な音が切り裂いた。

 ルシウスが鉄の算盤を弾きながら、ゼノンの背後に立ち塞がる。


「休息は終了です。書類が山積みすぎです、さっさと戻りますよ」


「えっ」


 ルシウスは有無を言わさぬ迫力でゼノンの首根っこを掴み、容赦なく裏口へと引きずり始めた。


「またああ、ボクの安らぎがああぁぁぁ……!」


 ゼノンの悲鳴が響き渡る中、二人は魔界へと帰っていった。


「毎回、たいへんだな」


 アルフレッドがカウンターを拭きながら笑うと、ディアボロは窓際へと戻り、外の景色を眺める。


「……アルフレッド、我が茶が冷めた。淹れ直せ」


「はいはい、今淹れますよ」


 ディアボロは淹れたての紅茶を受け取り、ゆっくりと口に運ぶ。湯気に隠れた口角は、本人も気づかぬうちに微かな弧を描いていた。

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