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元勇者だけどたまに猫になる魔王と一緒に暮らしてレストランやってます。この関係は誰にも言えません  作者: 甘城ソウヤ
第3部:魔界の足音と、揺るがぬ白き城

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第68話 『深夜の厨房と黎明の別れ』

 時刻は、深夜二時を回った頃。王都の喧騒はとうに眠りに落ち、分厚い雲が月明かりすらも遮る、押し潰されそうなほど重い夜だった。

 常連たちが一人、また一人と帰路につき、貸切状態だった『キッチン・ブラン』には、静寂が戻っていた。客席のキャンドルは消され、店内で唯一光を放っているのは、厨房を照らすオレンジ色の心もとないランプだけだった。


「……」


 シンクの片付けを終えたアルフレッドは、濡れた布巾で静かに拭き上げた。視線を上げると、窓際には、外の暗闇を見つめるディアボロが立っていた。

 薄暗い窓を覆うような彼のシルエットは、戦うための鎧。


 揺らぐ湯気から『ブラン』の香りが漂ってくる。


 カチ、カチ、カチ。壁掛け時計の規則正しい針の音だけが、無情にも、終わりの時を刻み続けていた。


 アルフレッドは手元の布巾を畳んで台に置くと、深く息を吸い込み、ゆっくりと顔を上げた。そして、窓際の魔王の背中へ向かって、静かに、だが決して揺らぐことのない意志で告げた。


「……俺も、行きます」


 時計の針の音が、止まった。ディアボロは即答しなかった。ただ、張り詰めた沈黙だけが、砂のように静かに削り落ちていく。

 やがて彼は、振り返ることなく、冷たく言い放った。


「……不要だ」


 その声の底が、極めて微かに震えているのを、アルフレッドは聞き逃さなかった。だからこそ、彼は引かなかった。カウンターから身を乗り出し、さらに一歩、踏み込む。


「俺、マスターの料理人ですよ。戦えなくても、せめて……マスターが戦ったあと、一番に温かいものを」


「…………」


 重く、息の詰まる沈黙。ディアボロは己の手を、血管が浮き出し、白くなるほど強く握りしめていた。


「……マスター?」


「……貴様がいると」


 ディアボロが、絞り出すように低く呟いた。アルフレッドは息を呑んだ。ディアボロの背中から、彼がこれまで決して見せることのなかった、押し殺してきた脆さが滲み出していたからだ。


「貴様がいると、我は王でいられぬ」


 血を吐くように紡いだそれは、魔界を統べる王の、本心だった。


「貴様が隣に立つと、我は『守る側』ではなくなる。……貴様の全てに、寄りかかりたくなってしまうのだ」


 孤独で、完璧な王として玉座に座らねばならない彼にとって、誰かに寄りかかりたいと願うこと。それは、己のあり方そのものを揺るがす致命的な矛盾だ。王として誰かに縋るような真似は絶対に許されない。


 ディアボロは、握りしめた拳を震わせながら、認めたくなかった己の弱さを吐き捨てた。


「……それは、王の恥だ」


 最大の愛情の裏返しだった、痛切な拒絶。重い沈黙が厨房に落ちた。ディアボロは決してアルフレッドの方を振り向こうとはしなかった。己の弱さを晒した無様な顔を見せたくないかのように。


 だが。


「……へぇ」


 長い沈黙の後、聞こえてきたのは、悲壮感など微塵もない、呆れるほどに軽く、笑みを含んだ声だった。


「俺、そんなに影響力ありました?」


「……ふざけるな」


 凄むディアボロに対し、アルフレッドは肩をすくめて、いつものように返した。


「ふざけてませんよ。嬉しいです。……あんた、守られるの下手ですよね」


「……っ」


 魔王が血を吐くような思いで晒した脆さを、アルフレッドはキッチン・ブランの日常に引き戻した。


 ディアボロは、ゆっくりと振り返り、出口の扉へと歩き出した。深紅のマントが大きく揺れ、黒鋼の鎧が重く鳴る。


「王は、独りで立つ者だ。……貴様はここで店を守るのが役目だ」


「……マスター」


 背中へ向けて、アルフレッドが呼び止める。


「戻ってきたら、最高のステーキ焼きますから」


 アルフレッドの普段通りの言葉に、ディアボロは、扉の前でピタリと足を止めた。振り返らず、背中を向けたまま、彼はただ一言、冷徹に告げた。


「……不要だ」


 万が一、自分が帰れなかった時。アルフレッドが冷めていくステーキの前で永遠に自分を待ち続けないように。彼はその一言を残し、転移魔法の漆黒の炎に包まれて、魔界へと消え去った。


 後に残されたのは、オレンジ色のランプに照らされた、無人の客席だけ。


 アルフレッドは、一人残された厨房を静かに見渡した。だが、その群青の瞳に、絶望や悲壮感は一切ない。

 彼は迷うことなく、大きな冷蔵庫を開けた。そして、そこから取り出したのは、昼間のうちに仕込みを終え、熟成させていた『極上の肉の塊』だった。

 ディアボロの「……不要だ」という、突き放すような最大の優しさ。その裏にある痛いほどの不器用さを、アルフレッドは完全に理解していた。だからこそ、彼は『マスターが必ず帰ってくること』を微塵も疑っていなかった。


 アルフレッドは肉をまな板の上に置くと、手早く、しかし一分子の妥協もなく、帰還した瞬間に「約束の最高のステーキ」を焼けるよう、完璧な下処理を施していく。不要だと言われたところで、関係ない。自分は料理人であり、あの男の胃袋を握っているのだから。


 仕込みを終えた肉を、彼を迎えるための「最高の日常」の証として、アルフレッドは再び冷蔵庫へ丁寧に収めた。


「……さて。準備、しないとな」


 冷蔵庫の扉を閉め、ポツリと呟いた。窓の外では、分厚い雲が切れ始め、黎明の光が微かに差し込もうとしていた。

 アルフレッドは、小さく、不敵に笑った。


「俺、勝手にマスターのところにいきますから」


 王の命令など、今の彼には何の意味も持たなかった。己の意志で選び、己の足で、あの傲慢で不器用な王の隣へ向かう。

 夜明けの光に照らされた料理人の瞳は、かつての勇者だった頃よりも、ずっと真っ直ぐに、ただ前だけを見据えていた。

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