第67話 『最後の晩餐と、深紅の瞳に映る小麦色』
深い夜が明け、王都の空が白んだ頃。『キッチン・ブラン』の厨房には、まだ火の入っていない冷たい空気が漂っていた。アルフレッドが店の裏口を開けると、朝の青白い光が石畳を滑り、店内に差し込んだ。
その光の先に、彼は立っていた。見慣れた漆黒の燕尾服ではなかった。
明けきらぬ夜を思わせる黒鋼の鎧と、血のように赤いマント。魔界の玉座に座る者だけが纏うことを許された、王の正装。
その禍々しくも圧倒的な姿は、白い壁と木の温もりに包まれたこの店の外では、あまりにも異質だった。まるで、童話の絵本の中に本物の猛獣が紛れ込んだかのような、決定的な不釣り合い。
アルフレッドは、その背中を見つめた。
ディアボロは、魔界の方角を見据えたまま、微動だにしない。アルフレッドはゆっくりと歩み寄り、仕込み用のエプロンに伸ばしかけた手を止め、静かに声をかけた。
「……マスター」
ディアボロは振り返らない。ただ、マントの裾が微かに揺れた。
「……出発は、夜にしませんか」
「……何故だ」
冷たく、感情の読めない声だった。
アルフレッドは、ディアボロの背中から視線を逸らさずに答えた。
「最後に皆で食事をしましょう」
長い沈黙。壁掛け時計の秒針が、カチ、カチと時を刻む。ディアボロは窓の外から視線を外さぬまま、目を伏せ、短く吐き捨てた。
「……好きにしろ」
その日の『キッチン・ブラン』は、開店以来初めて、昼から貸切となった。表の扉には『本日貸切』の札が下げられている。その厨房の中では、アルフレッドが一人で、黙々と動き続けていた。
澄み切った黄金色のコンソメを引くため、極限まで火を絞りながら、アクを掬い続ける。透き通るような野菜のテリーヌを作るため、美しい断面を計算し、一ミリの狂いもなく型に詰める。肉の塊に塩をすり込み、時間をかけて常温に戻していく。
トントン、トントン。
厨房に響くのは、食材を刻む音だけだ。その所作には、妥協も焦りもなかった。それは料理というよりも、神へ捧げる祈りの儀式のように、ひたすらに研ぎ澄まされていた。アルフレッドの腕には、微かに汗が滲んでいた。
ディアボロは、窓際のテーブルに座っていた。正装のマントを纏い、腕を組み、静かに目を閉じている。だが、時折、その深紅の瞳を開き、厨房に立つアルフレッドの背中と、休むことなく動き続ける小麦色の腕を、無言のまま見つめていた。
互いに言葉は交わさない。濃厚な食材の香りと、微かな呼吸音が、二人の間を満たしていた。
夜。照明が少し落とされ、テーブルにはキャンドルの火が灯る。そこには、いつもの常連たちが全員揃っていた。
黄金の甲冑を脱いだガイル。土の匂いを残すグレゴリウス。鮮やかな紅のローブを纏ったエリアーナ。エメラルドグリーンの髪を揺らすリディア。純白の法衣のエレン。カウンターの隅にはルシウス。隣でゼノンが胃を押さえている。丸椅子には、無表情のルル。
いつもの馬鹿騒ぎはない。カチャリ、と銀食器が皿に当たる硬質な音だけが、やけに重く響いていた。
「……お待たせしました」
アルフレッドが、静かに一皿目を運んでくる。
それは、極限まで雑味を取り除かれた、黄金色に透き通る『究極のコンソメスープ』。かつてゼノンの胃痛を癒やし、ルシウスの凍りついた疲労感を溶かした、アルフレッドの「優しさ」の象徴だ。ディアボロは黙ってスプーンを入れ、その温かく深い黄金色を喉の奥へと流し込んだ。
続いて運ばれてきたのは、宝石箱のような『夏野菜のテリーヌ』。
グレゴリウスが泥にまみれて育て、ディアボロが夜な夜な魔力で守り抜いた野菜たち。その生命力が、冷たく美しい芸術品へと昇華されていた。
次に供されたのは、『鴨肉のロースト』。
弓聖リディアが、平和な世界で見つけた誇り。無駄な傷を与えることなく、彼女の矢で仕留められた森の命。それが、滋味深い一皿となり、目の前に置かれていた。
誰も、何も言わない。彼らはただ、自分たちが持ち寄り、アルフレッドの腕で完成したこの店の歴史を、静かに噛み締めていた。
「メインディッシュです」
アルフレッドが、ディアボロの前に大きな平皿を置いた。
『極上牛フィレ肉のロースト〜特製デミグラスと魔王のベリーソースの二重奏〜』
アルフレッドが何日もかけて煮込んだデミグラスソースと、かつてディアボロが魔力と情熱を込めて作り上げたベリーソース。
決して合わさるはずのなかった二つの味が、皿の上でマーブル模様を描き、奇跡の調和を果たしている。二人の合作。
この店が辿り着いた、究極の一皿だった。
ディアボロはナイフを入れ、大きく切り分けた肉を口へと運んだ。咀嚼する。二つのソースの風味が、肉の旨味と共に一気に広がる。
その時、沈黙を守っていた常連の一人が、短く口を開いた。
「必ず勝って帰ってきてくれ……我が親友を、これ以上悲しませないためにもな」
ガイルが、グラスを強く握りしめて言った。
「実りを待つのは農夫の務めじゃ……お主には畑を見守ってもらった恩もある。今はわしらがここに根を張り、帰りを待っておるぞ」
グレゴリウスが、土にまみれた太い指をテーブルの上で組み、静かに頷く。
「では、私たちはここを守りますわ。絶対に」
エリアーナが、揺るぎないエメラルドの瞳で断言する。
「私が、極上の獲物を仕留めて待っているわ……だから、絶対に腹を空かせて帰ってきなさいよ」
リディアが、エメラルドグリーンのポニーテールを揺らし、テーブルに肘をついて、不敵に笑う。
「アルフレッド様の隣は本来わたくしの指定席ですけれど……あなたがいないとアルフレッド様が悲しみますから! さっさと勝って戻ってきてくださいませ!」
エレンが、涙目で、それでも毅然と言葉を放つ。
「これを食べたら魔王城へ参りましょう。玉座の傍らはお任せください」
「胃が痛いですけど、頑張りますぅ。……準備ができたら来てください、魔王様」
ルシウスが算盤を静かに置き、ゼノンが深く頭を下げる。
「魔王様が勝つ」
ルルが、瞬きもせずに告げた。
それぞれの短くも重い覚悟の言葉。ディアボロは、その誰の言葉にも明確な返事をしなかった。彼はただ黙って、料理を咀嚼し続けた。
彼らの育てた野菜を、狩った肉を、そしてアルフレッドの魂が込められたソースを。自分に向けられた全ての想いを、残さず己の腹に収め、背負い込むように。
「……ぐるる」
誰にも聞かせたことのないはずの、微かな喉鳴り。それは、魔王としての不器用すぎる、最大の愛情表現だった。
ディアボロは最後の一切れを飲み込むと、ナイフとフォークを揃えて置き、ぽつりと呟いた。
「……悪くない」
その一言に、全員の肩から力が抜けた。
食後のデザートは、エレンとガイルが修道院から持ち込んだ琥珀色の蜂蜜で艶を出した、一番大きな『苺のタルト』だった。
そして最後の一杯として、ディアボロ専用の特製ブレンドティー『ブラン』が注がれる。華やかで落ち着く香りが、晩餐の終わりを告げていた。
やがて夜が更け、一人、また一人と席を立っていく。
「……また」
「……またな」
誰も大げさな別れは口にしない。最後に残ったガイルが、重い足取りでディアボロの前に歩み寄った。彼は無言で、太い右手を差し出した。
ディアボロは立ち上がり、黒鋼の籠手に覆われた手で、静かに握り返した。
「……また、飯を食おう」
「ああ」
短い握手。
ガイルはアルフレッドに一度だけ深く頷くと、重い扉を開けて夜の闇へと消えていった。
カタン、と扉が閉まる。
店内に、静寂が降りた。客は誰もいない。かまどの薪がパチリと爆ぜる微かな音と、二人分の呼吸だけが、空気の底に沈んでいる。
アルフレッドはカウンターを拭いていた手を止め、静かに振り返った。
「……話、いいですか?」
ディアボロは何も言わず、ただ一度だけ、ゆっくりと頷いた。
アルフレッドは布巾を置き、カウンターに背を預け、ディアボロを見た。彼は壁によりかかり、いつも座っている窓際から外を見ていた。
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