第66話 『出立と、揺れない決意』
初夏の緩やかな風が、王都の職人街を吹き抜けていく。
『キッチン・ブラン』の白い壁が、柔らかな朝の陽光を淡く反射していた。
店はいつも通りに営業しているが、店内に満ちている空気は普段の騒がしさとは少しだけ違っていた。客たちの談笑は控えめで、フォークやナイフが皿に触れる硬質な音だけがやけに響く。
厨房の奥。アルフレッドは漆黒のコックコートの袖を捲り上げ、飴色に使い込まれたまな板に向かっていた。
トントン、トントン。
規則正しく、包丁が野菜を刻む音。少し離れた窓際の特等席で、ディアボロが脚を組み、目を伏せていた。磁器のように白い指先でティーカップの縁をなぞり、『ブラン』の湯気を深く吸い込む。
ディアボロはゆっくりと視線を上げる。窓の外ではなく、遠い空を見据える。カップの取手を握る指先が、白くなるほど強張り、微かに震えていた。
裏口の重い樫の扉が、軋む音を立てて開かれた。入ってきたのは、魔界の会計徴収官ルシウス。その後ろを魔王代理のゼノンがついてくる。
ゼノンは顔を蒼白に歪め、胃の辺りを押さえている。いつもなら、限界を迎えて床に溶け出しているはずのストレスだが、今日だけは違った。彼は脂汗を流しながらも、決して泣き言を漏らさず、人の形を保っていた。
ゼノンを入り口に残したまま、ルシウスは迷いのない足取りで店内を進み、ディアボロが座る窓際のテーブルへ歩み寄った。
「……魔王様」
ルシウスは、周囲の客に聞こえぬよう低く、冷徹に告げた。
「魔界の情勢は、刻一刻と悪化しています。旧貴族の領地での兵力結集が、すでに完了したと報告がありました。……翁が動き出すのは、もはや時間の問題かと」
店内が、静寂に包まれる。
ディアボロは、窓の外を見たまま、表情一つ変えなかった。指先から黒い魔力が漏れ出すこともなかった。わずかに息を吐き頷く。そして、手にしたティーカップの残りを静かに飲み干し、ゆっくりとソーサーに戻した。
カチャリ。
微かな陶器の触れ合う音。
「……三日後に、魔界へ発つ」
低く、絶対的な王の声が響いた。それだけで、店内の空気が締まる。
厨房の奥。カウンター越しに、その言葉を聞いていたアルフレッドの包丁が止まった。視線が、窓際のディアボロへ向いた。
「……三日後、ですか」
「ああ」
アルフレッドの息が詰まる。やがて、何とか声を絞り出した。
「……わかりました」
視線をまな板に戻し、再び野菜を切り始めた。トントン、トントン。先ほどと寸分違わぬ規則正しい包丁の音が、静まり返った店内に響き続ける。
カウンターの端で床を磨いていたギャレットが、モップの柄を握りしめ、ぽつりと漏らす。
「……マジかよ」
その横で、丸椅子に座っていたルルが立ち上がった。音もなく、ディアボロのテーブルへ歩み寄り、大きな背中を見上げた。
「おじいちゃんと、会うの?」
感情のない、透き通るような声。ディアボロはルルを一瞥し、短く答えた。
「ああ」
ルルはネイビーブルーの瞳を瞬きもせずに見開き、事実を告げるように言った。
「魔王様が勝つ」
「……ふん。当然だ」
ディアボロが鼻を鳴らす。ルルは一度だけ頷き、丸椅子へ戻って座る。
明くる日。今日も『キッチン・ブラン』の昼は忙しかった。だが、いつもの騒々しさはなかった。アルフレッドが料理を出す。いつもなら「我はこの料理を所望する」と、何かと口を挟むディアボロだが、今日は何も言わない。そのまま淡々とランチタイムは過ぎていく。
アルフレッドは夕食のため、丁寧に肉を叩き、柔らかくし、カツレツを揚げていく。シュワワ、と油の音が鳴る。火の通り具合、味の濃さ。指先は、ディアボロの好みの細かな塩梅を覚えていた。
以前なら、アルフレッドが腰を下ろすのも待ちきれず、彼は目を輝かせて先に肉を口にし、味の出来を饒舌に語ってくれたはずだった。だが、今の食卓には、静かな時間が流れていた。
更に翌日。空に厚い雲が立ち込める午後。
常連たちが、何かに引き寄せられるように『キッチン・ブラン』へと集まってきた。重い足音と共に現れたガイルが、黄金の甲冑をガチャリと鳴らし、ディアボロの前へ進み出る。
その顔には、かつて共に戦った友を案じる、深刻な色が浮かんでいた。
「……何か手伝えることはないか」
絞り出すようなガイルの申し出。だが、ディアボロは窓の外を見たまま、視線すら向けず、言い放った。
「不要だ。我一人で足りる」
取り付く島もない拒絶。ガイルは奥歯を噛み締め、拳を白くなるほど握りしめた。ディアボロの背中が放つ拒絶の壁を前に、引き下がるしかなかった。
その背後で、泥だらけの作業着姿のまま駆けつけてきたグレゴリウスが、深く、土の匂いのする息を吐いた。
「……そうか」
歴戦の英雄が発したその一言には、戦いへ赴く者の覚悟を尊重する、諦念と理解が滲んでいた。
そこへ、大賢者エリアーナが深紅のローブをバサリと翻して進み出る。
いつもの高飛車な態度は鳴りを潜め、燃えるようなエメラルドの瞳でディアボロを真っ直ぐに見据えた。
「では、私たちはここを守りますわ。絶対に」
その言葉に、店内の空気がわずかに震えた。ディアボロは何も答えなかった。否定もせず、ただ静かに目を伏せ、一度だけ、ゆっくりと頷いた。
やがて、出立を明日に控えた夕暮れ。
客の途絶えた厨房で、アルフレッドは一人、静かに仕込みをしていた。冷蔵庫から極上の肉の塊を取り出し、包丁を入れる。指先の動きは、普段の何倍も真剣で丁寧だった。
肉の筋を絶ち、塩を打ち、香草をすり込む。棚から『ブラン』の茶葉の瓶を取り出し、残量と香りを確かめる。
言葉はない。だが、その一つ一つの動作の密度が、まるで神に祈りを捧げる儀式のように、重く、研ぎ澄まされていた。
夜。営業を終えた店の二階で、ディアボロは自室の姿見の前に立っていた。
いつも身に纏っていた漆黒の燕尾服を、静かに脱ぎ捨てる。代わりに手に取ったのは、魔界の玉座に座る者だけが纏うことを許された、戦闘用の正装だった。
深い闇を思わせる黒銀の鎧。そして、血のような深紅のマント。鏡の中に映るのは、不機嫌で傲慢な『キッチン・ブラン』のマスターではない。万軍を従え、世界を蹂躙する絶対的な『魔王』だった。
「……王、か」
微かな呟きが、冷え切った部屋に溶けていく。
深夜の『キッチン・ブラン』。一階のフロアは、全ての照明が落とされ、厨房のオレンジ色のランプだけが淡い光を投げかけていた。
アルフレッドが、音を立てずに、厨房のシンクを磨き上げている。窓際の席では、正装を纏ったディアボロが、暗闇の中で、紅茶を静かに味わっていた。
シンクを磨き終えたアルフレッドが、布巾で手を拭いながら歩み寄る。
「……明日、ですね」
「ああ」
短い肯定。店内に、沈黙が降りる。
聞こえるのは、壁掛け時計の規則正しい針の音だけだ。
「……何か、食べますか?」
アルフレッドが静かに問う。ディアボロはカップを持ったまま、窓の外を見た。厚い雲の切れ間から、月が僅かに顔を覗かせている。
「……いや。明日でいい」
「わかりました」
再び、重く、静かな沈黙。
ディアボロが、手にしたティーカップをゆっくりとソーサーへ戻した。
カチャリ。
微かな陶器の触れ合う音が、深夜の空気を引き締める。彼は立ち上がり、マントを翻した。
「……明日、出立する」
窓の外を見たまま、振り返ることなく告げる。
「店は、任せた」
アルフレッドは答えようとして、一瞬、言葉に詰まった。喉の奥が、締め付けられるように痛んだ。
「……はい」
その返事は、短く、微かな掠れを帯びていた。ディアボロが静かに歩き出す。黒銀の鎧が、僅かな音を立てて暗闇へ消えていく。
窓の外では、月が厚い雲に隠れ、王都の街並みが深い闇に沈んでいく。
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