第69話 『孤独の玉座と、踏み込む料理人』
魔界の中心。
分厚い暗雲が空を覆い、永遠の夜を思わせていた。その大地に、見上げるほどの漆黒の王城がそびえ立っている。その最深部に位置する『玉座の間』は、底冷えのするような、息をすることさえ躊躇われるほどの重圧と静寂に満ちていた。
広大な石造りの空間の奥。高くそびえる漆黒の玉座に、ディアボロがいた。
黒銀の鎧と、血のように赤い深紅のマントを纏ったその姿は、万軍を統べ、この暗黒の世界を支配する絶対的な『魔王』そのものだった。
だが、彼を見上げる数十名の旧貴族たちの視線は、決して恭順のそれではない。
玉座の階段の下、一歩前に進み出た『理詰めの翁』が、手にした古木のような杖を、威圧的に石の床へと突き立てた。
「……若き王よ。問う」
翁の低く、嗄れた声が、玉座の間に反響する。
「あなたは、人間界に傾倒しすぎている。魔界の玉座を長きにわたり空け、たかが一介の料理人などに心を奪われている。……それは、王として失格だ」
周囲の貴族たちが、翁に続いてざわめき出した。
玉座から数歩下がった位置に、ルシウスが算盤を抱えて控え、その隣には魔王代理ゼノンが立っている。いつもならこの重圧に胃を押さえてうずくまるはずのゼノンが、今日だけは違った。彼は歯を食いしばり、自身の胃痛など感じさせぬまま、背筋を伸ばし、胸を張って主君の姿を見守っている。
ディアボロは、玉座に深く背を預けたまま、表情一つ変えない。ただ、膝に置かれた拳が、白くなるほど握りしめられていた。
翁は、ディアボロを冷徹に見据え、言葉という刃を容赦なく突き立てる。
「先代魔王は、孤独であった」
一歩、階段に近づく。
「誰にも心を許さず、誰にも頼らず、情を交えなかった。……ゆえに、一切の判断を誤らず、完璧な統治を行った。玉座とは、孤独を対価にして座るもの。誰の手も借りないことこそが、王の在り方だ。……あなたは、先代の偉大な統治を裏切っているのだ」
『先代』、そして、『孤独』という言葉。
その瞬間、胸の奥底に封じ込めていた凄惨なまでの静寂の記憶が、冷たい刃となってディアボロの心を穿った。
――冷え切った、広すぎる寝室。
白い天蓋が、独葬の帳のように重く垂れ下がっている。
壁のように高く積まれた未決裁の書類の中心で、広い寝台に横たわる先代魔王。
誰もいない。侍医も、側近も、家族すらも。
先代は「完璧な王」であったがゆえに、他者を遠ざけ、誰も自分の弱る姿を見ることを許さなかったのだ。
ひゅうひゅうという呼吸音だけが、広すぎる部屋に空しく反響していた。先代の白く痩せ細った手は、最期の瞬間、虚空を掴むように少しだけ開かれていた。
誰かの手を、求めたのだ。そばにいてほしかったのだ。だが、孤独を貫いた王の手を握る者は、この世界のどこにもいなかった。
やがてその手は力なく落ち、カサリと微かな音を立てて、他の誰にも看取られることなく、独りで、孤高の王のまま呼吸を止めた。
――その後の葬儀でも、漆黒の棺を囲む数万の魔族の中に、「悲しみ」は一滴も存在しなかった。誰も泣いていない。誰も愛さず、誰からも愛されなかった王の死を、心から悼む者はいなかった。
皆、ただ儀礼的に頭を下げ、『完璧なシステムの一部』が機能停止したとしか見ていなかった。一個の存在として、これほど空虚な死はなかった。
そして。
葬儀の後、ディアボロが入った先代の書斎。
主を失った冷たい机の上に残されていた、一通の書きかけの手紙。
『我は、間違えたのかもしれぬ』
たった一行。そこで途切れた文字。羽根ペンは途中で止まったまま、インクは完全に乾ききっていた。
「……若き王よ」
翁の声が、ディアボロの意識を現在へと引き戻す。
「先代の道を、継ぐべきだ」
ディアボロは、ゆっくりと息を吸い込み、口を開いた。
「……先代は」
だが、言葉が詰まった。
あの途中で止まった無念の文字が、目の裏に焼き付いて、離れない。
(あいつがいれば、我は……)
視線が虚空を彷徨う。深夜の厨房、オレンジ色のランプの下で自分を見上げていた、あの群青の瞳が脳裏をよぎる。
(いや、突き放したのだ。我の我儘で、あいつの温かい日常を壊すわけにはいかぬ)
先代の味わった地獄のような孤独を思い出し、絶望に苛まれながらも、ディアボロはアルフレッドを守るために「王の呪い」を受け入れようと、拳をさらに強く握りしめる。
重苦しい沈黙が、玉座の間に落ちている頃。分厚い扉の外、回廊の闇の中に、ルルの転移魔法で到達したアルフレッド、ギャレット、ルルの三人が音もなく立っていた。
扉の向こうから漏れ出す、魔王と翁の凄まじい重圧。ここから先は、人間のアルフレッドが踏み込めば、命の保証はない絶対的な領域だ。
だが、アルフレッドの群青の瞳に、一切の迷いはなかった。
ギャレットは、そんなアルフレッドの背中をポンと軽く叩き、ニヤリと笑って静かに告げる。
「お前は行け、アル。……お前の、大事な『相棒』が待ってんだろ?」
ルルも無表情のまま、小さく頷く。アルフレッドは二人に短く頷き返し、一人で重厚な扉に手をかけた。ギャレットとルルは、その背中を見送る。
――バンッ!!!!
魔王の魔力にしか反応しないはずの、重厚な玉座の間の扉が開け放たれた。石造りの広大な空間に、轟音が響き渡る。ゆっくりと重い扉が閉まり、玉座の間に踏み込んできたのは、たった一人。
黄金の髪と、揺るぎない群青の瞳。場違いな漆黒のコックコートを纏った、人間の料理人。アルフレッドは何も言わず、ただ真っ直ぐに、ディアボロの座る玉座へと向かって歩き出した。
「……貴様」
ディアボロが、弾かれたように立ち上がった。その声の底が、微かに震えている。
「何故、ここに。……来るなと、言ったはずだ」
アルフレッドは歩みを止めず、翁の横をすり抜け、玉座へと続く階段の前でピタリと止まった。ゆっくりと顔を上げ、群青の瞳が、微動だにせず立ち尽くす魔王の深紅の瞳を真っ直ぐに捉える。そして、短く、はっきりと、容赦なく言い切った。
「聞いてません」
「……っ」
ディアボロは拳を強く握りしめた。だが、その深紅の瞳が、ほんの一瞬だけ、激しく揺れた。怒りなのか、安堵なのか。それを隠すように、彼は唇を強く噛んだ。
「……これが」
そのやり取りを破ったのは、翁の氷のような声だった。翁はアルフレッドを冷酷な視線で値踏みし、吐き捨てるように言った。
「王を弱くする者か。……たかが人間風情が」
周囲の貴族たちが、敵意を込めてざわめく。
だが、アルフレッドは一切怯むことなく、翁の方へ向き直り、一歩、前に出た。
「弱くなったんじゃない」
「……何?」
「……選べるようになったんです」
アルフレッドは、翁の正面に立ち、一切の気負いも、説明もなく、ただ純粋な事実だけをぶつけた。
「選択肢があるって、強いことですよ」
完全だった孤高の王しか知らない翁の持論を、アルフレッドは自身の確固たる理論で真っ向から貫く。
その言葉を聞いたディアボロは、ゆっくりと息を吐き、孤独の象徴である「玉座」から下りた。黒鋼の鎧を鳴らし、深紅のマントを揺らして、彼はアルフレッドの隣に立つ。
「翁よ。貴様の理屈は正しいが、古い。……先代は孤独であったがゆえに、完璧だった。だが、それゆえに『脆かった』のだ。揺らいだ時に、独りで倒れるしかなかった」
ディアボロは、忌まわしい記憶を振り払うように、力強く断言する。
「我は知っている。先代が最期に何を後悔したかを。……孤独こそが、王を内側から崩す最大の『脆さ』だ」
その時、ルシウスが静かに歩み出た。
「……その通りです。独りで背負う決断は、人を『弱く』する。……それだけは、計算では、救えません」
そしてルシウスは、翁からディアボロへと向き直り、臣下として深く一礼する。その後ろで、痛みを噛み殺し、真っ直ぐに胸を張って彼らの言葉を聞き届けていたゼノンもまた、無言で、しかし誰よりも深く、主君へ敬意の礼を捧げた。
「……若き王は、それを終わらせました」
ルシウスとゼノン、魔界の実務を支える二人の臣下が、魔王の家臣として、そのままディアボロの斜め後ろに静かに控える。
右に料理人。左後ろに、二人の臣下。彼らの存在を背に受け、ディアボロが深紅のマントを翻し、アルフレッドの肩越しに視線を向けながら最終宣言を放つ。
「だからこそ、我は超える。孤独を、終わらせる」
圧倒的な王の覇気が、玉座の間に吹き荒れる。
翁は長い沈黙の後、静かに目を閉じた。
「……面白い」
翁は目を開け、口角を上げた。
「ならば証明せよ。口先だけではなく、剣で。古式に則り、王権確認の決闘を所望する」
「……望むところだ」
ディアボロはマントを翻し、即答する。
「だが条件がある。決闘場に、こいつの同席を許可しろ。戦わぬ。ただ、見届けるだけだ」
翁は小さく笑い、短く応じた。
「……よかろう」
一同は踵を返し、決闘場へ向かって歩き出す。重厚な扉が閉まり、後に残された玉座の間には再び静寂が戻った。
だが、そこはもう、かつての冷たく悲惨な孤独の玉座の間ではなかった。
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