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元勇者だけどたまに猫になる魔王と一緒に暮らしてレストランやってます。この関係は誰にも言えません  作者: 甘城ソウヤ
第3部:魔界の足音と、揺るがぬ白き城

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第64話 『鈍色の黒板と、魔王専用の琥珀色』

 王都の深夜。夏にしては肌寒い霧雨が、静まり返った職人街の石畳を濡らしている。雨粒が規則正しく窓ガラスを打つ微かな音だけが、深夜の静寂を際立たせていた。『キッチン・ブラン』の扉には鍵がかけられ、店内には二人の呼吸音と、木を削る静かな音だけが響いていた。


 照明は落とされ、厨房のオレンジ色のランプだけが淡い光を投げかけている。

 アルフレッドは漆黒のコックコートの袖を肘まで捲り上げ、カウンターに使い込まれた鈍色に光るメニュー板を置いていた。


 彼の手には荒目の紙ヤスリが握られている。木目に沿ってヤスリを滑らせると、シュッ、シュッという乾いた音が、規則正しく響く。角に溜まっていた古いチョークの粉と微細な木屑が宙に舞い、オレンジ色の光の中でゆっくりと沈んでいく。


 カウンターの向こう側、窓際の特等席。

 ディアボロは脚を組み、昼間にルシウスが置いていった分厚い報告書に視線を落としていた。漆黒の燕尾服を纏うその姿は、夜の闇に溶け込むほどに深く、重い。

 報告書には、魔界の旧貴族『理詰めの翁』を中心とした保守派の不穏な動向が、緻密な文字で羅列されていた。紙をめくる乾いた音が、白く煙る霧雨の気配に冷たく溶けていく。


「この一番深い傷……」


 アルフレッドがヤスリを動かす手を止めず、ぽつりと言った。


「オープン初日に、マスターが『板が呪われている』って言ってチョークを握りつぶした時のですよね。……だいぶ使い込みましたね」


 ディアボロは報告書から視線を外さない。


「あの頃は、竜の舌を三百年焼けとか、沸騰したソースを見て肉の精霊が踊ってるとか大騒ぎで。……不思議なもんですね。今はこうして、普通に店やってるんだから」


「……ふん。我が魔力に耐えられぬ貧弱な板が悪い。それに、我が貴様の凡庸な献立に付き合ってやっているのだ、光栄に思え」


 ディアボロは冷たく言い捨てた。

 だが、紙をめくる指が一瞬止まり、口元の線がわずかに崩れる。


 ヒュッ、と窓の隙間から霧雨を含んだ冷たい夜風が吹き込んだ。

 水気を帯びた冷気が、ディアボロの白磁のような頬を撫でる。同時に、彼の視線が報告書の最後の一文に固定された。


『先代の完璧な統治を至高とする翁の思想』


 その瞬間、ディアボロの深紅の瞳が、虚空を彷徨った。脳裏をよぎるのは、冷え切った、広すぎる寝室。壁のように高く積まれた未決裁の書類。重く垂れ下がった天蓋。誰の足音も響かない、完璧な静寂。そして、その中心にある白い寝台で、誰の手を握ることもなく、ただ静かに、孤高の王のまま止まった呼吸。


 ディアボロの指先が、報告書の端を強く押さえた。同時に店内の空気がわずかに軋む。孤高な王が残した圧倒的な空虚が、今の彼にはひどく重たく感じられた。


 微動だにしないその背中から、冷気が滲み出し窓ガラスに付着した水滴が、ピキッと音を立てて細かな氷の結晶へと変わる。

 その背中を静かに見つめていたアルフレッドは、ヤスリを動かす手をピタリと止めた。刺すような冷気。

 だが、アルフレッドは理由を聞くことはなかった。メニュー板の修理を一旦やめ、コンロの火を点ける。


 彼が取り出したのは、ディアボロが自ら選び名付けた特製茶葉『ブラン』だ。最高級の茶葉と香りの良い花びらがブレンドされている。湯が沸き立ち、アルフレッドは静かに茶器に湯を注いで、丁寧に温める。そして、花びらの香りが最も華やかに開く絶妙な温度を見極め、ポットへ湯を注ぎ入れた。

 立ち昇る華やかな香りが、店内の凍てつくような冷気を押し流していく。


 静かな店内に、カップがソーサーに触れる硬質な音が響いた。


「マスター」


 ディアボロの視界を遮るように、白い磁器のカップが置かれた。立ち昇る湯気から、彼自身が選び名付けた『ブラン』の芳醇な香りが広がる。


「手が冷たいですよ」


 アルフレッドは短くそれだけを言い、ディアボロの対面の席に腰を下ろした。

 ディアボロは視線を報告書に落としたまま、書類を握る手に力を込めた。白磁の指先が強張り、紙が微かに軋む音を立てる。


「……我が冷気に当てられるなどありえぬ」


「そうですね」


 アルフレッドはフラットに返し、ディアボロの手からルシウスの報告書をスッと引き抜いた。ディアボロは抵抗しなかった。アルフレッドは報告書を自分の脇に置き、代わりにヤスリがけが終わって綺麗になったメニュー板をディアボロの目の前にドンと置いた。


「明日のメニュー、何にしましょうか」


 ディアボロはメニュー板を見つめた。深い傷は削り取られ、滑らかな鈍色の面が広がっている。

 彼はカップの側面に両手を添えた。陶器越しに伝わる確かな熱と、『ブラン』の華やかな香りが、先代の記憶をじわりと温め、ゆっくりと解かしていく。眉間にあった深い皺は消え、いつもの穏やかな顔に戻っていた。


「……明日は、我の望む極上の肉にしろ。あの不敬な元騎士が来ても出さぬぞ」


「はいはい。マスター専用で焼きますよ」


 店内の空気が、いつもの平和なものに戻る。

 外の霧雨は静かに降り続いていた。ディアボロはアルフレッドの問いには答えず、ティーカップを口に運ぶ。その喉の奥で、小さく「ぐるる」と音が鳴った。

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