第63話 『完璧な計算式と、理不尽なる大凶』
王都の空に、初夏の嵐の気配をはらんだ風が吹き抜けていた。『キッチン・ブラン』の昼下がり。ルルは「店番」という名目のもと、カウンターの隅で置物のように座っていた。その横で、ギャレットがモップを握りしめ、必死に床を磨いている。
「なんで俺が、こいつの分まで床磨きを……」
ギャレットが恨めしそうに呟く。
「労働の代償。私に筋力はない」
ルルは半開きの瞳のまま、カウンターに寄りかかり、ぼそっと言った。
「ルルさんは座っていてくださいね。……ほら、ギャレット。そこ、まだ汚れてるぞ」
アルフレッドが厨房からギャレットに向かい、布巾を投げる。彼の頭に布巾が命中し、顔が隠れた。
「鬼ぃぃぃ!!」
その時、裏口の扉が力なく開かれた。
「……すみません、アルフレッドさん。開けていただけますかぁ……」
半分ほど液状化したゼノンが、ズルズルと床に這い入ってきた。目の下には、黒々としたクマが刻まれている。その後ろから、ルシウスが一分の乱れもない足取りで入り、鉄の算盤をパチリと鳴らした。
「……魔王様。報告があります」
ルシウスは窓際で紅茶を啜るディアボロの前に進み出た。
「魔界の保守派に不穏な動きが。さらに、反乱の首謀者と目される『理詰めの翁』の孫娘が、行方不明とのこと。……厄介なことになりそうです」
「……ふん。理詰めの翁が動こうが、我が卓は動かぬ」
ディアボロは冷ややかに一蹴し、カップを置いた。
ゼノンは床に広がりかけた体をなんとか保ちながら、微動だにしないルルに気づいた。
「……ど、どうして君はそんなに休んでばかりなのに、怒られないんですか……? ボクなんて昨日も徹夜で……」
ゼノンが涙目で、切実に訴える。
「労働はエネルギー効率が悪い。動くと運命のダイスが転がる」
ルルは平坦な声で、事実だけを告げた。
その時、開け放たれたままの扉の外から、奇妙な音が近づいてきた。暴走した土木作業用の魔導ゴーレムの部品が弾け飛び、ゴォッ、と凄まじい速度で、ルルめがけて一直線に飛来してきたのだ。
「っ!」
ルシウスが即座に算盤を弾く。指先が鉄の珠を滑り、すばやく数式を弾き出した。
「飛来物の質量、速度、風向き。計算完了。ゼノン、カウンターの右に三十センチずれてください。完璧に回避できます!」
「はいっ!」
ゼノンが指示通りに動く。だが、ルルは一切動かなかった。
「避けても、どうせ来る」
ルルが呟いた、その瞬間。飛来した鉄の塊が、店内に掛けられていたフライパンの柄に当たり、カーンッ! と甲高い音を立てる。弾かれた鉄の塊は天井の梁に跳ね返り、不規則な軌道で落下した。
「ぐはぁッ!?」
床磨きをしていたギャレットの顔面に、鉄の塊がクリーンヒットした。
「……まさか、あの確率を引くとは」
ルシウスの算盤を弾く手が止まった。眼鏡の奥の瞳が、驚愕に見開かれている。
「計算上、その軌道は存在していました。ですが……これほど理不尽で天文学的な確率を、寸分違わず通してくるとは……!」
「大凶がまた避雷針に吸い込まれた。便利」
ルルは無表情のまま、床で痙攣するギャレットを見下ろした。
「俺は避雷針じゃねぇぇぇ……」
ギャレットが血涙を流しながら呻く。
「……我が城で、耳障りな真似をするな」
ディアボロが不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「ギャレット、怪我はないな。……少し待ってろ」
アルフレッドは床に転がった鉄の塊を拾い上げ、ギャレットに「これで冷やせ」と硬く絞った冷たい布巾を渡す。
「……ありえない。何度再計算しても、あの跳弾の軌道は……」
ルシウスは無機質な瞳のまま、指先だけで算盤を弾き続けている。
「あぁぁ……ボ、ボクは無事ですけど……胃が、限界ですぅ……」
ゼノンがカウンターに突っ伏して震え、足元ではギャレットがしゃがんで顔を冷やしていた。
「……アルフレッド。いつまでその鉄屑を持っている。さっさと捨てて、飯にしろ」
窓際のディアボロが、不愉快そうに急かす。
「ですね。今、みんなの胃袋が落ち着くものを作りますから」
アルフレッドは苦笑しながら鉄の塊を裏口へ放り出し、厨房の火を点けた。フライパンの熱を確かめると、極厚の豚ロース肉を熱した鉄板へと滑らせる。
ジュワァァッ!という暴力的な音と共に、肉の脂と焦がしバターの香ばしい匂いが一気に弾け飛んだ。
その強烈な匂いに、床で沈黙していたギャレットの鼻がヒクヒクと動き、ルルは瞬き一つせずに鉄板を凝視している。
アルフレッドは並行して手早く木べらを回し、朝から仕込んでいた根菜のスープにたっぷりのミルクを注いで温め直していく。
コトコトと鳴る鍋の優しい音と、甘く立ち昇る湯気に、カウンターに突っ伏したゼノンが「あぁ……」と縋るような声を漏らす。
窓際のディアボロは不機嫌そうに鼻を鳴らすが、その深紅の瞳は鍋から離れない。
アルフレッドの放つ暴力的なまでの『美味の予感』が、店内の空気を瞬く間にいつもの食卓へと塗り替えていく。
アルフレッドは仕上げた料理を盆に乗せ、フロアへと運んでくる。
「さあ、みんな、飯にしようか」
胃を痛めたゼノンと、計算が狂ってショックを受けたルシウスの前には、黄金色に透き通った『胃と脳に優しい温かいポタージュ』が置かれた。
「……あぁぁ。胃の裏側に染み渡りますぅ……」
ゼノンがスプーンを握り、涙ぐむ。
そして、ルルの前には、熱々の鉄板に乗せられた『極厚のポークステーキ』が置かれた。ナイフを入れる前から溢れ出す透明な肉汁。焦がしバターと醤油のソースが鉄板で熱され、強烈な食欲をそそる香りを放っている。
ルルは無表情のままナイフとフォークを握り、猛烈な速度でステーキを平らげていく。
「……ふん。理屈で測れぬ理不尽も、我が卓ではただの日常だ。飯が冷める。食え」
ディアボロがナイフを入れながら、ルシウスに冷ややかに言い放つ。
ルシウスは無言で眼鏡の位置を直し、黄金色のポタージュにスプーンを入れた。
ディアボロの皿には、肉の中でも一番柔らかく旨味の詰まった部位が、寸分の狂いもなく美しく盛り付けられて置かれていた。ディアボロは優雅にナイフを入れて肉を口へと運ぶ。彼の喉の奥から「ぐるる……」と、極めて微かな音が漏れた。
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