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元勇者だけどたまに猫になる魔王と一緒に暮らしてレストランやってます。この関係は誰にも言えません  作者: 甘城ソウヤ
第3部:魔界の足音と、揺るがぬ白き城

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第62話 『大泥棒の厄日と、静寂なるモップがけ』

 王都の空に、爽やかな朝の光が満ちていた。『キッチン・ブラン』の厨房では、アルフレッドが仕込みの野菜を丁寧に刻み、窓際の特等席では、ディアボロが紅茶を優雅に啜っている。


「今日も気持ちいい天気ですね、マスター」


「……そうだな」


 その緩やかな朝の時間を邪魔するように、裏口の扉が力なく開かれた。


「相棒……俺、もう死ぬかもしれない……」


 そこに立っていたのは、全身を煤で汚し、自慢の夜色の黒髪に枯れ葉を絡ませた大泥棒ギャレットだった。服のあちこちが破れ、息も絶え絶えに壁に手をついている。


 そしてその後ろには、透き通るようなアメシスト色の髪を揺らす小柄な少女――ルルが立っていた。

 装飾のない深いネイビーブルーの膝丈のドレス。極上のシルク生地が放つ品格は、ボロボロのギャレットとは対照的に、埃一つついておらず無傷だった。


「……おはよう。朝から派手だな、ギャレット」


 アルフレッドが包丁を止めて声をかけると、ギャレットは半泣きで床に崩れ落ちた。


「聞いてくれよ! こいつを迎えに行って店まで歩いてくる間に、道端で落とし物の金貨の袋を拾うわ、福引きでいきなり特賞を当てるわ、希少な魔獣の卵が空から降ってくるわ……! あっという間に『七回の幸運』を使い切りやがった! 次は致死レベルの『大凶』が来るんだぞ! なのにこいつ、微塵も動じねぇんだ!」


 ギャレットの悲鳴のような抗議を受けながらも、ルルのネイビーブルーの瞳は、半開きのまま一切の感情を映していなかった。

 彼女はギャレットを一瞥することもなく店内へ入り、アルフレッドを見上げた。


「幸運が七つ続いた。空気が軋んでる。もうすぐ、何か来る。……歩くのもしんどい」


 ルルは平坦な声で、ぼそっと呟く。


「……ふん。我が城を託児所と勘違いしていないか。労働の前にへばるとは、低級魔族は体力まで底辺のようだな」


 ディアボロがティーカップを置き、冷ややかに見下ろした。ルルは魔王の圧倒的な威圧感を前にしても、動じずにすっとディアボロの方へ視線を移す。


「働く。何すればいい」


「その辺の床でも磨いておけ。我の視界に入る埃を一分子残らず消し去れ」


「わかった」


 ルルは迷いなく、部屋の隅に立てかけられていた長い柄のモップを手に取った。ギャレットが「おい、やめとけ! お前が動くと大凶が早まる……!」と止める間もなかった。


 ルルが、モップを前に押し出そうとする。だが、幼少期から「極力動かない」という究極の無駄を削ぎ落とした生活を送ってきた彼女には、筋力というものが皆無だった。


「……重い」


 ルルは無表情のまま、モップの柄に寄りかかるようにして、ズルズルと床にへたり込んだ。ただの圧倒的な筋力不足だ。


「労働はエネルギー効率が悪い。でも、ご飯のためなら理不尽も受け入れる。……ここのご飯は美味しい」


 ルルは床に座り込んだまま、半開きの瞳でアルフレッドを見上げた。


 その時だった。


 ヒュンッ……!


 開け放たれた裏口の扉から、常識外れの速度で「何か」が飛来した。王都の上空を飛んでいた魔鳥が落とした、トゲトゲの巨大な木の実だ。それが、ルルに向かって一直線に――ではなく、なぜか隣でオロオロしていたギャレットの後頭部にクリーンヒットした。


「ぐはぁッ!?」


 ドガッ!

 痛みにのけぞったギャレットの顔面を、今度は通りを駆け抜けた清掃馬車が跳ね上げた大量の泥水が、開け放たれた裏口から大きな弧を描いて飛び込み、ピンポイントで直撃する。


「ぶべぇッ!?」


 さらに泥水で足を滑らせた彼が、仰向けに倒れ込んだその顔面へ、天井の梁で昼寝をしていた野良猫が驚いて落下し、ギャレットの顔を思い切り踏み台にして窓の外へ逃げ去っていった。


「あぐぅ……ッ」


 わずか数秒。

 致死レベルではないにせよ、心をへし折るには十分すぎる理不尽な不運の連鎖が、なぜか「ルル」ではなく「ギャレット」だけに全弾命中したのだ。七回の幸運の代償である『八回目の大凶』の、あまりに不憫な発動だった。


「あ」


 ルルは無表情のまま、床でピクピクと痙攣しているギャレットを見下ろした。


「大凶が、全部そっちに吸い込まれた。便利」


「俺はお前の避雷針じゃねぇぇぇ……」


 ギャレットが血涙を流しながら呻く。


「……我が城の床を汚すな、鼠め」


 窓際のディアボロが不機嫌そうに鼻を鳴らす。


「大丈夫ですよマスター。ギャレットの服が泥水を全部吸収してくれたんで、床は一分子も汚れていません。……ほら、ギャレットもそのまま動かないで。掃除が増えるから」


 アルフレッドは腕を組み、悪戯そうな笑顔で言った。


「相棒まで鬼ぃぃぃ!!」


 ギャレットの悲痛な叫びをよそに、アルフレッドはルルからモップをそっと取り上げた。


「ルルさん、掃除はもういいですよ。ギャレットがモップ代わりをしてくれたので」


「働かないと、ご飯食べられない」


 ルルがモップの柄を握ったまま、即答する。


「ルルさんは座っているだけで、この店の平和が守られるんです。……少し待っててください」


 アルフレッドは彼女を空いている席に案内し、厨房へ戻ると手早く調理を始めた。


 ルルの前に置かれたのは、卵液をたっぷりと吸い込み、バターで黄金色に焼き上げられた『極厚のフレンチトースト』だった。上には純白の粉砂糖と、甘いメープルシロップが惜しげもなくかけられている。


 ルルは無表情のままフォークを握ると、フレンチトーストを切り分けて、そのまま口に運んだ。次の瞬間、彼女の食べるスピードが異常に加速した。表情は一切変わらないのに、両頬をいっぱいに膨らませ、猛烈な勢いで咀嚼を続ける。


 だが、その凄まじい速度に反して、カチャカチャという食器の音も、咀嚼音も、全くしなかった。

 ディアボロは、その異様な光景を窓際から冷ややかに見つめていた。眉間に寄っていた皺が、ほんの少しだけ緩む。


「……ふん。低級魔族の分際で、存外に静かな食い方だ。これならば、我が寛ぎの邪魔にはならんな」


「……おい、相棒! なんでこいつだけあんな美味そうなもん食ってんだよ! 大凶を全受けした俺の分は!?」


 床に這いつくばっていたギャレットが、空腹を主張して声を上げる。アルフレッドは悪戯そうな笑顔で笑った。


「お前は、この床の泥水を全部拭き取ってからだ。働くんだろ?」


「鬼ぃぃぃ!!」


 理不尽な運命を連れてきた少女は、今日も無表情のまま皿を空にしていく。騒がしくて、静かで、そして最高に美味しい『キッチン・ブラン』の日常は、こうしてまた新しい歯車を回し始めたのだった。


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