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元勇者だけどたまに猫になる魔王と一緒に暮らしてレストランやってます。この関係は誰にも言えません  作者: 甘城ソウヤ
第3部:魔界の足音と、揺るがぬ白き城

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第61話 『大凶の少女と、動じない食卓』

 王都の空は抜けるように青く、職人街には穏やかな午後が訪れていた。

 だが、『キッチン・ブラン』の片隅のテーブルだけは、まるでこの世の終わりのような暗いオーラに包まれていた。


「俺、マジでヤバいもん盗んじまった……。どうしよう、どうしよう……」


 頭を抱え、テーブルに突っ伏しているのは、夜色の黒髪をボロボロに乱した銀指のギャレットだ。彼の手元には、魔界のヤバい貴族の館から盗み出したという、非常に美しく、禍々しい銀色のチョーカーが置かれている。

 持ち主の『命綱』であり、それを無くし今頃大凶に見舞われて、死にかけていると知った彼は、激しい罪悪感と恐怖で一歩も動けなくなっていた。


「……ふん。自業自得だ。貴様の浅ましい欲望が招いた結果であろう。我が城の空気を暗くするな、鼠め」


「まあまあ、マスター。ギャレットも反省してるみたいですから」


 窓際の特等席では、ディアボロが優雅に脚を組み、冷酷なまでに美しいルビーの瞳でギャレットを見下ろしていた。彼は情けないギャレットを一瞥しただけでふいと興味を失ったように視線を外し、静かに紅茶を啜る。


 だが、そんな空気の中でも、アルフレッドだけはいつも通りだった。


 トントン、トントン。


 彼は漆黒のコックコートの袖を捲り上げ、手をリズミカルに動かしながら、ディナー用の玉ねぎを微塵切りにしている。背後のコンロでは、大鍋にたっぷりの湯が沸かされていた。

 鍋の湯気と、心地よい包丁の音が、ギャレットの放つ暗い空気を中和していく。


「ギャレット、持ち主が生きているなら、そのチョーカーの魔力を追って必ずここまで来るはずだ。腹をくくって謝る準備をしておけよ」


「相棒、お前はなんでそんなに冷静なんだよ! 相手は魔界のトップ貴族だぞ!? 俺、絶対に消される……!」


 ギャレットが半泣きで叫んだ、その時だった。


 カランコロン。


 店の扉が静かに開かれた。入ってきたのは、十代半ばほどの小柄な少女だった。薄明を透かしたようなアメシスト色の髪に、雪のように白い肌。だが、その身に纏っているオーラは異様だった。後ろには護衛らしき男が、無残に倒れていた。


 彼女が一歩、店内に足を踏み入れた瞬間だ。


 ガタンッ!

 入り口の平坦なマットに、なぜか彼女の足が引っかかった。

 少女は前にバランスを崩す。


 バサササッ!

 そこへ、開いた扉の隙間から、どこからともなく飛んできた一羽の黒い鳥が、一直線に彼女の顔面へと激突した。


 ――そして。

 鳥にぶつかって仰向けに倒れ込んだ彼女の額へ、ありえないはずの天井の隙間から冷たい水滴が見事に落下した。


 ものの数秒の間に、まるでよくできた喜劇のように、理不尽な不運の連鎖が彼女を襲った。だが、最も異常だったのは、その一連のからくり仕掛けのような不運を食らっても、少女の表情が微塵も動かなかったことだ。


 彼女は倒れたまま瞬きを一つし、眠そうな瞳のまま、すくっと立ち上がった。埃を払うこともなく、ただ静かに、ギャレットのテーブルに置かれた『静寂のチョーカー』を指差した。


「それ、私の」


 透き通るような声だった。

 だが、命の危機に直面しているはずのその響きには、一分子の熱もこもっていない。


「それがないと死んじゃう。返して」


 少女は、じっとギャレットを見つめた。その眼差しは怒りも悲しみも持たず、ただ目の前の男を映しているだけだった。

 だが、彼女の放つ異様なプレッシャーと、先ほどの「異常な不運」を目の当たりにしたギャレットは「ヒィッ!」と悲鳴を上げて椅子から転げ落ちた。


「お、お前が持ち主か!? わ、悪かった! これ返すから、呪いとか殺すのとかナシで……!」


 ギャレットがチョーカーを差し出そうとした瞬間、少女の背後に溜まっていた『大凶』の呪いが、店内にも牙を剥いた。


 ガタガタガタッ!!


 少女が歩み寄った振動だけで、頑丈なはずの壁の棚が突然傾き、そこに積み上げられていた数十枚の白い平皿が、ギャレットと少女の頭上へと雪崩のように落下してきたのだ。


「うわああああっ!?」


 ギャレットが頭を抱え、少女は無表情のまま、落ちてくる凶器を見上げる。

 だが、凶器が彼らに届くことはなかった。


「危ないな」


 厨房から飛び出したアルフレッドが、二人の前に滑り込んでいた。彼の腕が残像を描き、空中で落下する数十枚の皿を、一枚の音も立てずに全て片手でキャッチしていく。


 しかし、大凶の連鎖は止まらない。アルフレッドが皿を受け止めた反動の風圧で、今度は厨房のコンロに乗っていた、沸騰した熱湯の入った大鍋がグラリと傾き、少女に向かって熱湯が降り注ぐ。


「しまっ……!」


「……我が城で、騒々しい」


 窓際から、冷ややかな声が響いた。ディアボロが、ティーカップを持ったまま、面倒くさそうに指先をパチンと鳴らす。


 ピキン……!


 空中にばら撒かれた熱湯が、少女の顔に届く数ミリ手前で、一瞬にしてカチカチの氷の粒へと変換された。氷の粒は粉雪となって、少女のアメシスト色の髪にハラハラと降り積もる。


 数十枚の皿が落下し、熱湯が降り注ぐという致死レベルの大凶の連鎖。


 アルフレッドは何事もなかったように落ちた皿を片付け始め、ディアボロは冷めた紅茶に不満げに鼻を鳴らすだけだ。彼女を苦しめ続けてきた絶対的な呪いですら、この店の日常を微塵も揺るがすことはできなかった。


 少女は、自分の髪に積もった氷の粒に触れ、無表情のまま、少しだけ瞳を丸くした。


「私の大凶がここでは効かない。すごい」


「怪我はないかな、お嬢さん」


 アルフレッドが先ほど受け止めた皿をカウンターへ置きながら、優しく声をかけた。


「なかった。ありがとう」


「それはよかった。俺はアルフレッド。君は?」


「ルル」


「そうか……ギャレット。お前が盗んだんだろう。ちゃんと自分で返して謝れ」


 アルフレッドが促すと、事の重大さと先ほどの理不尽な大凶の連鎖に完全に腰を抜かしていたギャレットが、這いつくばるようにしてルルの前へ進み出た。


「ほ、本当に、本当に申し訳ありませんでしたぁぁっ!! ただの宝石だと思って……命綱とは知らずに! これ、お返ししますんで、どうか呪いだけは勘弁してくださいぃぃ!」


 ギャレットは床に額を擦りつける勢いの見事な土下座で、震える両手でチョーカーをルルへと差し出した。


 ルルは無表情のまま、差し出されたチョーカーを受け取る。


「落ち着いたなら、ここにどうぞ」


 アルフレッドは、ルルを空いているテーブル席へと促した。


「少し待っててくださいね」


 アルフレッドはそう言って厨房に戻ると、手早く料理を準備し始めた。

 彼が用意したのは、たっぷりのスイートコーンを丁寧に裏ごしし、バターと生クリームで仕上げた『濃厚コーンポタージュ』と、厚切りのパンに柔らかな蒸し鶏とレタスを挟んだ『特製サンドイッチ』だ。


「お待たせしました」


 湯気を立てるポタージュと、ボリューム満点のサンドイッチが、ルルの前にそっと置かれた。ルルは、渡されたチョーカーを首にカチリと装着する。途端に、彼女の周囲を覆っていた禍々しい大凶の気配が、嘘のように静まった。


「……ふん。圧倒的に不運な特異体質か」


 ディアボロが、冷めた紅茶を置きながら事も無げに呟いた。


「そのチョーカーは、不運の連鎖を福へと偏らせ、大凶を致命に至らぬ程度まで抑え、『七福一凶』に変換する封印具というわけだ」


「七福一凶……。だから、ギャレットが忍び込んだ貴族の館にあったってことか」


 アルフレッドが納得したように頷く。


 彼女は目の前の温かい料理をじっと見つめ、無表情のままスプーンを手に取ると、ポタージュを口に運んだ。


 その瞬間、彼女の食べるスピードが異常に加速した。表情は一切変わらないのに、サンドイッチを両手で持ち、リスのように両頬をいっぱいに膨らませて、猛烈な勢いで食べていく。


「……ふん。低級魔族が、我の下僕の料理を慌ただしく食らいおって。……アルフレッド、我が茶が冷めた。淹れ直せ」


 ディアボロが不機嫌そうに鼻を鳴らす。


「はいはい、今淹れますね」


 あっという間に皿を空にしたルルは、ナプキンで口元を拭うと、すくっと立ち上がった。そして、店を出るのかと思いきや、部屋の隅で未だに震えているギャレットの元へ歩み寄り、彼の服の裾をギュッと掴んだ。


「私、明日からここに通う。ここなら安全にご飯が食べられるから」


「はぁ!?」


 ギャレットが間抜けな声を上げる。ルルは無表情のまま、彼を見下ろした。


「だからあなたが私の足になって。泥棒の責任は取ってもらう」


「なんで俺がこいつの世話係みたいになってんだよ! 相棒、どうにかしてくれ!」


 ギャレットが泣きつくが、アルフレッドは肩をすくめて笑うだけだ。


「……ふん。騒がしいゴミがまた一つ増えたか」


 ディアボロは冷ややかに言い放ち、新しく淹れ直された紅茶を啜った。


「……まあいい。我が城の床でも磨かせておけ」


 アルフレッドは「また忙しくなりそうだな」と笑いながら、ルルのために新しいデザートの皿を用意し始めた。

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