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元勇者だけどたまに猫になる魔王と一緒に暮らしてレストランやってます。この関係は誰にも言えません  作者: 甘城ソウヤ
第3部:魔界の足音と、揺るがぬ白き城

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第60話 『嵐の予兆と、静寂のチョーカー』

 午後。王都の職人街に柔らかい初夏の日差しが降り注ぐ中、『キッチン・ブラン』の厨房は、濃厚で芳醇な香りに満たされていた。


 アルフレッドは漆黒のコックコートの袖を捲り上げ、ディナー用の仕込みに精を出していた。

 本日のメインは、厳選された牛すね肉の赤ワイン煮込みだ。大きく切り出した肉の塊に塩胡椒を振り、熱したフライパンで表面にしっかりと焼き目をつけていく。ジュワァァッという小気味よい音と共に、香ばしい肉の脂の匂いが立ち昇る。


 肉を取り出した後のフライパンに、香味野菜を投入してじっくりと炒め、甘みを引き出す。そこへ深紅の赤ワインを惜しげもなく注ぎ入れた。アルコールが弾けて飛び、厨房の空気は一気に艶やかな大人の香りへと変わった。


「……アルフレッド。その鍋から漂う香りだけで、我の胃袋が暴動を起こしそうだ。まだかかるのか?」


 窓際の定位置。陽光を背に受けて優雅に脚を組むディアボロが、不機嫌そうに、それでも待ちきれない様子で、漆黒の燕尾服の裾を微かに揺らしていた。


「あと少しです、マスター。赤ワインの酸味を飛ばして、肉の芯まで旨味を閉じ込めるんです。じっくり煮込むからこそ、あのスプーンで切れるほどのホロホロの食感になるんですよ」


「……ふん。待ちわびる時間もスパイスだと言うつもりか。生意気な下僕だ」


 ディアボロは磁器のように白い指先でテーブルをトントンと一定のリズムで叩き、深紅の瞳で鍋を凝視する。口では文句を言いながらも、彼がこの出来上がりを待つ静かな時間を決して嫌いではないことを、アルフレッドはよく知っていた。


 だが、カランコロンと静かに扉が開き、その平和な空気に冷たい風が混じった。


 入ってきたのは、魔界の会計徴収官ルシウスと、魔王代理のゼノンだ。ゼノンは今にも床に溶け出しそうなほど青白い顔をしており、胃の辺りを両手で強く押さえている。対するルシウスはいつも通り一分の隙もない執務服姿で、鉄の算盤を片手に無表情を保っていた。


「いらっしゃい。今日も随分とお疲れですね」


 アルフレッドが火加減を調整しながら声をかけると、ルシウスは真っ直ぐにディアボロの前へ進み、算盤をパチリと弾いた。その乾いた音が、微かな緊張を店内に運んでくる。


「魔王様。魔界の保守派、旧貴族たちの領地で、不自然な物資の移動が確認されました。反乱の確率は98.1%。……すでに鎮圧にかかるコストと、戦後復興の予算案の計算に入っています」


 ルシウスの冷徹な報告に、ゼノンが泣きそうな顔でカウンターに突っ伏した。


「ルシウスがまだ起きてない戦争の事後処理の書類まで作り始めてるんですよぉ……。万が一反乱が起きたら、事後処理の予算申請でボク、また徹夜確定じゃないですかぁ……胃が、胃が痛い……」


 胃を痛めるゼノンを横目に、ディアボロは用意されていた食前の紅茶を啜り、冷ややかに鼻を鳴らした。


「……ふん。有象無象が、我の留守に小細工を。……くだらん」


 王として一蹴しつつも、ディアボロは微かな「嵐の匂い」を感じ取っているように深紅の瞳を細めた。かつて彼が力でねじ伏せた旧態依然の貴族どもが、この平和な時代に何を企んでいるのか。


 だが、アルフレッドは鍋の火を弱めると、少しだけ真面目な顔をして、疲労困憊の二人の前にまかないの温かいスープを置いた。


「……何事もないといいですけどね。まあ、まずは腹ごしらえですよ」


 それは、じっくりと炒めた玉ねぎの甘みが溶け込んだ、琥珀色のコンソメスープだった。ゼノンが震える手でスプーンを握り、一口啜る。途端に彼の顔にほんの少しだけ血色が戻り、「あぁぁ……胃の裏側に染み渡りますぅ……」と涙ぐんだ。

 ルシウスも無言でスープを口に運び、僅かに強張っていた肩の力を抜いた。


 その平和なまかないの時間を打ち破るように、店の裏口が乱暴に開け放たれた。


 バンッ!!


「相棒! 匿ってくれ! マジでヤバいもん盗んじまった!!」


 夜色の黒髪をボロボロに乱し、全身に擦り傷と泥をつけた大泥棒、ギャレットが転がり込んでくる。普段は飄々としている彼が、息を荒らげ、恐怖に顔を引きつらせている。彼は床に倒れ込みながら、震える手で一つの品を、近くのテーブルに放り出した。


 それは、美しくも禍々しい装飾が施された、銀色のチョーカーだった。


 一見すれば国宝級の芸術品だ。だが、精緻な銀細工の中心に埋め込まれた漆黒の宝石からは、周囲の光を吸い込むような、不吉で重たい冷気が漏れ出している。


「魔界のヤバい貴族の屋敷から、国宝級のお宝だと思って盗み出したんだ。銀指の俺様にかかればどんな金庫もイチコロだと思ったが……中身を取った後の追手の殺気が尋常じゃなくて、命からがら逃げてきた」


 ギャレットが荒い息を吐きながら説明する。だが、そのチョーカーを見た瞬間。スープを飲んでいたルシウスの算盤を弾く手がピタリと止まり、窓際のディアボロが氷のように冷たい視線を向けた。


「……貴方、自分が何を盗んだのか分かっているのですか」


 ルシウスの声が、かつてないほど低く、冷酷に響く。


「この装飾の配列は、魔力を内側へ逆流させるためのものです。なので宝ではありません。極大の大凶を抑え込むための封印具……つまり、誰かの命綱です」


「はぁ!? 命綱!? じゃあ、これを持っていた奴は今頃……」


 ギャレットの顔から一気に血の気が引いた。彼の手が小刻みに震え始める。


「……外された反動で、大凶に見舞われ、死にかけているだろうな。愚か者め」


 ディアボロが冷酷に言い捨てる。その言葉が意味する絶望の重さに、ギャレットは顔面蒼白になって頭を抱えた。

 大凶。それは単なる不運ではない。世界そのものから拒絶され、あらゆる理不尽な死の危険がその持ち主を襲い続ける呪いだ。


「やべぇ……俺、とんでもない地雷を踏み抜いた……! 返してこないと……!」


 自分のせいで、見知らぬ誰かが今この瞬間にも命を落とそうとしている。その事実に耐えきれず、慌てふためくギャレット。

 だが、ディアボロは興味なさそうに視線を外し、再び自分のティーカップへと目を落とした。


「……勝手にしろ。だが、持ち主が生きているなら、そのチョーカーを追って必ずここへ来るだろうな」


 それは、この静かな店に、避けようのない嵐がやってくるという明確な予言だった。


 ゼノンがさらに胃を押さえてうずくまり、ルシウスが算盤を弾き直す。ギャレットは頭を抱えたまま動けない。重苦しい緊迫感が店を支配しかけた、その時だった。


「お客さんが増えるなら、仕込みを多めにしておかないとですね」


 アルフレッドの、いつもと何一つ変わらない穏やかな声が響いた。


 彼は深い平皿を持ち、ホロホロに崩れるまで煮込まれた牛すね肉の赤ワイン煮込みを、ディアボロの前に静かに置いた。艶やかなソースが照明を反射し、芳醇な香りが禍々しいチョーカーの冷気をいとも簡単に押し流していく。


「また騒がしくなりそうですね。……ほらマスター、肉が煮えましたよ」


 ディアボロは差し出された皿を見ると、先ほどまでの冷酷な王の顔を消し去り、不機嫌な態度の奥に、確かな満足を滲ませて口角を上げた。


「……遅い。我を待たせるな」


 頭を抱える大泥棒と、胃を痛める魔界の役人。そして、迫り来る嵐の予兆。

 だが、その中心で、料理人と魔王だけはいつも通りに食卓を囲んでいる。


 平和な『キッチン・ブラン』に、新たな嵐の足音が静かに響き始めていた。

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