第57話 『魔王の休日服と、計算された平穏』
その日の『キッチン・ブラン』は、珍しく開店前から重苦しい会議の場となっていた。議題は、「魔王ディアボロ、目立ちすぎ問題」である。
「……申し上げにくいのですが、陛下。目立ちすぎです」
カウンターの端で、ゼノンが胃を押さえながら重い口を開いた。目の下のクマは今日も絶好調に濃い。
「先日の勇者復帰騒動以来、この店への注目度はうなぎ登りです。そこへ来て、陛下のその……常時フルスロットルな『魔王正装』。王都の住民が、畏怖のあまり店の前を通るたびに息を止めているという報告が上がっています。……ボクの胃壁も、限界です」
「ふん。下等生物どもが我の威光に恐れをなすのは当然の摂理だ。息を止める程度、健康法の一種だろう」
窓際の特等席で、ディアボロは優雅に紅茶を啜りながら一蹴した。漆黒の燕尾服、完璧に結い上げられた銀髪、そして深紅のリボン。どこからどう見ても、この世の支配者だ。
「いいえ、陛下。これは効率の問題です」
ルシウスが鉄の算盤をパチリと弾き、眼鏡を光らせた。
「現在の陛下の『威圧値』は、一般の王都民の許容限界を120%超過しています。このままでは客足が遠のき、アルフレッド殿の料理が廃棄される確率が上昇します。……経済的損失、計り知れません」
「……む」
「料理の廃棄」という言葉に、ディアボロの眉がぴくりと動いた。そこへ、厨房からアルフレッドが顔を出した。手には、買い物袋のようなものを提げている。
「二人とも、そのくらいにしてあげてください。……でもまあ、言いたいことはわかりますよ」
アルフレッドは苦笑しながら、カウンターに袋を置いた。
「マスター。俺も思ってたんです。たまには、ちょっと『普通の服』を着てみませんか?」
「……何だと?」
ディアボロが不機嫌そうに目を細めた。
「我に、有象無象と同じ布切れを纏えと言うのか。この燕尾服こそが、我の魂の正装。これを脱ぐことは、王としての矜持を捨てるに等しい」
「そんな大げさな話じゃありませんよ。ただの『休日服』です。……ほら、先日たまたま市場で見つけて、質が良さそうだなと思って買ってきた服です。着るだけ着てみてくださいよ」
アルフレッドは袋から数着の服を取り出した。王都の洋服店で売られている、ごく一般的な、しかし質の良さそうなシャツやパンツだ。
「断る。そのような凡庸な布、我が肌に触れることすら許さぬ」
ディアボロはプイと顔を背けた。だが、アルフレッドは引かない。彼は真っ直ぐにディアボロを見つめ、短く言った。
「マスター。……俺が見たいんです」
「……なに?」
「あんたが、魔王としてじゃなく……ただの『ディアボロ』として、この店に座っているところを。……たまには、いいでしょう?」
その言葉に、ディアボロの動きが止まった。深紅の瞳が、アルフレッドの群青の瞳とぶつかり合う。
数秒の沈黙の後、ディアボロは大きなため息をつき、乱暴に立ち上がった。
「……ええい、わかった! 着ればいいのだろう、着れば! だが、気に入らなければ即座に灰にするからな!」
ディアボロは服をひったくると、奥の部屋へと消えていった。
数分後。
「……どうだ」
不服そうな声と共に、ディアボロが戻ってきた。ゼノンが「あっ」と声を上げ、ルシウスが目を見開いて計算の手を止める。
そこにいたのは、飾り気のない深いネイビーのシャツに、黒のスラックスを合わせた一人の青年だった。燕尾服の仰々しさはない。魔王としての威圧感も、鳴りを潜めている。ただ、隠しきれない気品と、素材の良さだけが際立っている。
「……ふむ。威圧値、測定不能。……いえ、むしろ『好感度係数』が異常な数値を示しています」
ルシウスが呆然と呟く。
「へ、陛下……! 普通です! すごく普通で、なのにすごく高貴です! これなら街を歩いても、ただの『超絶美形な一般人』として通りますぅ!」
ゼノンが感動のあまり泣き出しそうだ。だが、ディアボロ本人は落ち着かない様子で、シャツの襟元をいじっている。
「……首元がスースーする。それに、裾がないと落ち着かん。……やはり、これは我には合わぬ」
ディアボロが着替えに戻ろうとした時、アルフレッドが近づき、その前に立った。
「待ってください。……仕上げがまだです」
アルフレッドは、ディアボロが外していた「深紅のリボン」を手に取った。そして、自然な動作でディアボロの背後に回り、その銀髪をゆったりと束ねた。
「……よし。これで完璧だ」
アルフレッドが一歩下がる。シンプルな服に、鮮やかな深紅のリボン。それがアクセントとなり、単なる「普通」ではない、ディアボロらしい色気が完成していた。
「……似合ってますよ、ディアボロ」
アルフレッドが、笑って言った。
ディアボロは、鏡に映る自分の姿と、その背後で笑う料理人をじっと見つめた。王の鎧を脱ぎ、ただの男としてそこに立つ自分。それは、かつては想像もしなかったほど無防備で、そして……悪くない気分だった。
「……ふん」
ディアボロは、シャツの袖を軽くまくり上げ、いつもの席に座り直した。燕尾服の裾はない。だが、その背筋は変わらず王のように伸びている。
「……生地の質は三流だが、仕立ては悪くない。……今日のところは、これで過ごしてやろう」
「ありがとうございます。……じゃあ、お茶を淹れ直しますね」
アルフレッドが嬉しそうに厨房へ戻る。それを見届けたルシウスが、手元の銀時計をパチリと閉じた。
「……問題解決ですね。では、我々は失礼します」
「えっ、ルシウス? もう帰るんですか? せっかくならお茶くらい……」
ゼノンが言いかけると、ルシウスは鉄の算盤を冷徹に弾いた。
「何を言っているのですか、ゼノン。ここでの滞在時間三十分。その間に魔界で決裁待ちとなっている書類の山は、既に天井に達しています」
「ひぃっ!?」
「陛下が休息を取られている今こそ、我々が倍速で動かねば世界が止まります。さあ、行きますよ」
ルシウスは有無を言わさぬ迫力でゼノンの首根っこを掴み、裏口へと引きずっていく。
「あぁぁ……ボクもたまには優雅なティータイムをぉぉ……!」
「却下です。移動中に次の予算案を暗算してください」
ゼノンの悲鳴と共に、二人の姿は慌ただしく消えていった。
店内に、再び静寂が戻る。
ディアボロがふと、シャツの袖を見下ろした。
「……しかし、アルフレッド」
「なんですか?」
「この服、動きやすいな。……これなら、貴様が逃げ出してもすぐに捕まえられそうだ」
「逃げませんよ。……さあ、休憩にしましょう」
柔らかな午後の日差しの中、魔王は「日常」を纏い、静かに紅茶を啜った。その姿は、威圧を振りかざす必要のない、この店の主の顔をしていた。
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