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元勇者だけどたまに猫になる魔王と一緒に暮らしてレストランやってます。この関係は誰にも言えません  作者: 甘城ソウヤ
第3部:魔界の足音と、揺るがぬ白き城

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第56話 『素顔の料理人と、仁義なき常連戦争』

 王都の職人街に、いつも通りの爽やかな朝が訪れた。だが、『キッチン・ブラン』の厨房では、いつもとは少し違う光景が繰り広げられていた。


「……ここにもあったか」


 アルフレッドは、カウンターの裏側の隙間に手を突っ込み、白い布の塊を引っ張り出した。それは、彼がこれまでガイルの来店に備えて隠しておいた「緊急変装用の予備布巾」だ。花瓶の下、冷蔵庫の横、スパイス棚の奥……。集めてみれば、その数は三十枚を超えていた。


「俺、こんなに怯えてたのか……」


 山積みになった白い布を見て、アルフレッドは苦笑した。

 もう、これらを被る必要はない。先日の広場での戦いで、全てを晒したのだから。視界を白く遮るものはなくなり、厨房から見える景色はどこまでも鮮明で、ひときわ明るく見える。


「ふん。あの無様な『布巾男』が慌てふためく様が見られなくなるとはな。……日々の余興が減って退屈だ」


 窓際の席で紅茶を飲んでいたディアボロが、不機嫌そうに鼻を鳴らした。


「もう必要ありませんからね」


「貸せ、アルフレッド。我の黒炎で、その布山を一瞬にして灰燼かいじんに帰してやる」


 ディアボロが指先にチリチリと黒い炎を灯す。だが、アルフレッドは慌ててその手を制した。


「ダメですよ、マスター。この前、ゼノンさんに怒鳴られたことを忘れたんですか?」


『経済観念を持て、この浪費家魔王!』

 胃痛持ちの魔王代理が、鬼の形相で叫んだあの言葉。それを思い出した瞬間、ディアボロの指先から炎がシュンと消えた。


「……む。あの時のゼノンの剣幕か……。チッ、仕方あるまい」


「でしょう? みっちり洗濯して、これからは店の掃除道具として第二の人生を送ってもらいますから」


 かくして、大量の布巾は灰を免れ、タライの中でジャブジャブと洗われることになった。裏庭に干された真っ白な布が風に揺れる様は、新しい日常の始まりを告げる旗印のようだった。


 そして、開店の時間。カランコロン、と軽やかなベルが鳴り、第一号の客が入ってきた。


「よう。……素顔の親友に出迎えられるというのは、まだ少し照れくさいな」


 入ってきたのは、見覚えのある大男――ガイルだった。素顔で立っているアルフレッドを見、昨夜は泣きすぎたせいで少し目を腫らしながらも、嬉しそうに頬をかいた。


「いらっしゃい、ガイル。……ゆっくり慣れてくれよ。これからはずっと、このままで出迎えるんだからさ」


 アルフレッドが素顔のまま、静かに微笑んだ。戦場での再会とは違う、穏やかな湯気の中での再会。ガイルは眩しそうに目を細め、カウンターの席にドスンと座った。


「そうか……。いや、戦場での貴様の顔も頼もしいが、こうして厨房に立つ貴様の顔を見ると……。ああ、不思議だな。剣を握っている時よりも、ずっとしっくりくる」


「よせよ。似合わないぞ、ガイル。……それに、お前はもう『団長』様じゃないんだろ?」


「ははっ、違いない! 今の私はただの食いしん坊な無職だ!」


 親友同士の、気安い笑い声が店内に響く。二年の空白が、湯気と共に埋まっていくような温かい時間。

 だが、それを面白く思わない男が一人、背後に控えていた。


「……おい。騒々しいぞ、暑苦しい男め」


 ディアボロが、氷のような声を放った。彼は不機嫌そうに腕を組み、ガイルを睨みつけている。


「ディアボロ殿! 貴殿も、よくぞアルフレッドの正体を隠し、匿ってくれていた! 感謝するぞ!」


「礼には及ばん。……それより、貴様」


 ディアボロはガイルの言葉を無視し、冷ややかに告げた。


「我が城で、我が料理人に馴れ馴れしくするな。貴様が見ていいのは皿の上だけだ。アルフレッドを見るな」


「む? 何を言う。私は親友として、彼の働く姿を……」


「黙れ。その目が気に入らんと言っているのだ。……アルフレッド、裏庭に干している布巾でこやつの顔を隠せ。貴様が今日から『布巾男』になればいいのだ」


 理不尽極まりない言いがかりだ。だが、その声音がほんの少しだけ拗ねていた。


「はいはい、喧嘩しない。……ガイル、腹減ってるんだろ? 何にする?」


 アルフレッドが苦笑しながら間に入ると、ガイルは身を乗り出した。


「そうだな……。今日は、さっぱりといこうか。あの戦いの後、まだ回復せぬのか、どうも脂っこいものは胃が受け付けなくてな」


「毒を盛れ、アルフレッド。即効性のやつだ」


「盛りません。……じゃあ、レモンステーキにしましょう」


 アルフレッドが取り出したのは、分厚い牛肉と、大量のレモンだった。肉を高温の鉄板で焼き上げ、そこにレモン果汁とバター、醤油を合わせた特製ソースを一気にかける。


 ジュワアアアッ!!


 強烈な酸味と、焦げた醤油の香ばしい匂いが爆発的に広がり、店内の空気を一新する。


「お待たせ。『レモンステーキ』だ。熱いから気をつけろ」


 熱々の鉄板の上で、ソースが踊っている。ガイルはナイフを手に取り、大きく切り分けた肉を口に運んだ。


「……っ! うまい!」


 ガイルが目を見開く。


「酸味が、五臓六腑に染み渡るようだ! ……ああ、これだ。俺が待っていたのは、この味と、この顔だ」


 ガイルは噛み締めるように言い、また一口、肉を頬張った。アルフレッドは、そんな親友の姿を見ながら、厨房の中で小さく息を吐いた。


 視界が広い。布巾がないだけで、こんなにも世界は明るく、働きやすいものだったのか。


「……おい、アルフレッド」


 不意に、ディアボロがカウンターに肘をつき、アルフレッドの顔を至近距離で覗き込んだ。その深紅の瞳には、明確な不満の色が浮かんでいる。


「手が止まっているぞ。……あの暑苦しい男に見惚れている暇があったら、肉を焼け。我の胃袋を待たせるな」


「はいはい。今焼きますよ」


「……ふん。貴様の主が誰か、忘れるなよ」


 ディアボロはそう呟くと、ガイルを一瞥した。

 そして何事もなかったかのように、アルフレッドへ顔を向ける。


「……手が止まっているぞ。我の分はどうした」


「はいはい。最高に酸っぱくて、美味いのを焼きますから」


 アルフレッドは笑い、新しい肉を鉄板に乗せた。ジュワッという音が、再び店内に響く。


「……ディアボロ殿。貴殿も、なかなか隅に置けぬな」


 ガイルが肉を頬張りながら、ニヤリと笑った。


「黙れ、鬱陶しい。ソースが跳ねる。表で食え」


「酷い扱いだ!」


 騒がしい笑い声。窓の外では、洗い立ての真っ白な布巾が、初夏の風に吹かれて気持ちよさそうに揺れていた。

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