第46話 『真夜中の背徳と、魔王の揚げパン』
午前二時すぎ。王都の全てが深い眠りにつき、静寂が街を支配する時間帯だ。『キッチン・ブラン』の二階にある自室で眠っていたアルフレッドは、ふとした違和感に意識を引き戻された。
ゴソ……ゴソ……。
階下の厨房から、微かな物音が聞こえる。ネズミだろうか。それとも、またギャレットのような手癖の悪い客が忍び込んだのか。アルフレッドはベッドを抜け出し、音を立てないように階段を降りた。手には護身用のフライパンではなく、ただの懐中電灯代わりのランプを持って。
「……誰だ」
アルフレッドは厨房の入り口で声をかけ、ランプを掲げた。その光が照らし出したのは、泥棒でもネズミでもなかった。
開けっ放しにされた業務用の冷蔵庫。その冷たく青白い光を浴びて、一人の男が腕を組んで仁王立ちしていた。身に纏っているのは、闇夜に溶け込むような漆黒のシルクガウン。長く美しい銀髪を背中に流し、苦悩に満ちた表情で野菜室を睨みつけている。
「……マスター? 何してるんですか」
アルフレッドが呆れて声をかけると、ディアボロはビクリと肩を震わせ、バサリとガウンを翻して振り返った。
「……む。起きたか、アルフレッド」
「起きたか、じゃないですよ。こんな夜更けに冷蔵庫の前で何を睨んでるんですか。食材の鮮度チェックですか?」
「違う」
ディアボロは不機嫌そうに鼻を鳴らし、空っぽの胃袋をさするように腹部に手を当てた。
「……共鳴だ」
「はい?」
「深夜の冷気と、我が体内の魔力回路が不協和音を奏でているのだ。このズレを修正するためには、緊急の儀式が必要となる」
ディアボロは真剣な顔で言った。
「具体的には、高密度のカロリーという名の贄を、我が胃袋という祭壇に捧げねばならん。……だが、この冷たい箱の中には、葉っぱと生肉しかないではないか。貴様は我に、草を食んで飢えを凌げと言うのか」
要するに、夜中にお腹が空いて目が覚めてしまい、冷蔵庫を漁ったけれどめぼしい物がなくて、ディアボロは絶望していただけだという。
「……はぁ。なるほど」
アルフレッドはランプを置いて、厨房の明かりをつけた。眩しい光にディアボロが目を細める。
「儀式だの共鳴だの言ってますけど、ただの夜食探しでしょう。こんな時間に食べたら太りますよ?」
「愚か者め。我の肉体は完全だ。脂肪などという不純物は、摂取した瞬間に魔力へと変換される。太るという概念は、人間特有のバグに過ぎん」
根拠のない自信満々な言い訳を聞いて、アルフレッドは苦笑した。ここまで言われて、何も作らないわけにはいかない。それに正直に言えば、こんな時間に起き出して腹を空かせている魔王の姿が、少しだけ愛嬌があるように思えてしまったのだ。
「わかりましたよ。共犯になってあげます」
アルフレッドはコックコートではなく、エプロンだけを寝間着の上につけた。
「その代わり、文句は言わないでくださいよ。……深夜に食べるなら、とことん背徳的なやつにしますから」
アルフレッドが取り出したのは、明日のランチ用に焼いておいたコッペパンだ。小鍋にたっぷりの油を注いで火にかけ、十分に高温になったところへ、躊躇なく投入する。
ジュワワワワ……ッ!
静かな深夜の厨房に、刺激的な音が響き渡る。油の弾ける音と共に、香ばしい小麦の香りが立ち昇る。ディアボロが「ほう」と興味深そうに覗き込んでくる。
アルフレッドはきつね色に揚がったパンを油から引き上げると、バットの上に用意しておいた魔法の粉の上で転がした。砂糖と、香ばしいきなこをたっぷりと混ぜ合わせた特製の粉だ。熱々のパンに、粉がみるみるうちに吸着していく。
「お待たせしました。『黄金風・きなこ揚げパン』です」
アルフレッドは皿をカウンターに置いた。さらに、小鍋で温めておいたホットミルクをマグカップに注ぎ、添える。
「……なんだ、これは」
ディアボロは、うす茶色い粉まみれのパンを怪訝そうに見つめた。
「この茶色い粉末は砂か? 我に砂漠の土を食わせる気か?」
「砂じゃありませんよ。大豆を粉にしたきなこと、たっぷりの砂糖です。……騙されたと思って食べてみてください。熱いうちに」
ディアボロは疑わしげにパンを摘み上げた。揚げたてのパンは熱く、指先に油が滲む。彼はそれを、恐る恐る口へと運んだ。
サクッ。
軽快な音が響く。揚げられた表面はサクサクで、中はふんわり。そして、噛み締めた瞬間にじゅわっと溢れ出す油のコクと、砂糖の強烈な甘みが口いっぱいに広がる。
「……ぬうっ!?」
ディアボロが目を見開いた。
「なんだ、これは! 口の中の水分が奪われるかと思いきや、この油と甘みの暴力的な調和は……!」
きなこの素朴な香ばしさが、油っぽさを絶妙に中和し、砂糖のジャリジャリとした食感が脳髄を刺激する。それはまさに、深夜にしか許されない背徳の味だった。
「……美味い。極めて、危険な味がする」
ディアボロは夢中で二口目を齧った。口の周りに茶色い粉がつくのもお構いなしだ。
「でしょう? ここでホットミルクを飲むのが正解なんです」
アルフレッドも自分の分の揚げパンを齧り、温かいミルクを啜った。揚げパンの油分と甘さが、優しいミルクで洗い流され、胃の中にじんわりとした温かさが広がる。
「……ふぅ」
二人して深夜の厨房で、揚げパンを齧り、ミルクを飲む。窓の外は真っ暗で、世界にはここの二人しかいないような錯覚に陥る。先日のルシウスの一件のような重苦しい空気は、ここには微塵もなかった。ただ、カロリーと糖分がもたらす、単純で幸福な満足感だけがある。
「……うむ。魔力は充填された」
あっという間に揚げパンを完食したディアボロが、満足げに喉を鳴らした。その口の周りは、きなこだらけで茶色くなっている。漆黒のガウンとの対比が滑稽で、アルフレッドは思わず吹き出した。
「よかったですね。……でもマスター、これ一個で明日のランチ一食分くらいのカロリーありますよ」
「……聞こえんな」
ディアボロはそっぽを向き、指先についた粉をペロリと舐め取った。
「明日の我に任せればよい。今日の我は、この甘美な余韻と共に眠る権利がある」
「はいはい。明日からダイエットですね」
「ダイエットなどせぬ。運動量を増やせばいいだけだ。……そうだな、明日は厨房の床磨きを、魔力を使わずにやってやろう」
「それは助かりますけど、絶対途中で飽きますよね」
二人は顔を見合わせて笑った。皿を洗い、明かりを消す。暗闇に戻った厨房には、揚げ油と砂糖の甘い匂いが、微かに残っていた。
「……ゆっくり寝よ、アルフレッド」
「おやすみなさい、マスター」
部屋に戻る背中を見送りながら、アルフレッドは思う。こんな馬鹿馬鹿しくて平和な夜が、これからもずっと続けばいいと。満たされた胃袋と、少しの罪悪感を抱えて、彼らは再び泥のような眠りについた。
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