第47話 『聖女の幼児退行と、白きベールの給餌』
ランチタイムのピークが過ぎた頃、『キッチン・ブラン』の店内に、あの聞き慣れた重厚な金属音が響き渡ってきた。
ガシャン、ガシャン。
その音に、アルフレッドは条件反射で調理台の下に隠しておいた「それ」を手に取った。真っ白な木綿の布巾。彼はそれを慣れた手つきで頭から被り、顎の下で素早く結んだ。視界が白い繊維で覆われ、世界がぼんやりとした光の塊に変わる。
「……ふん。またその無様な格好か。見ているだけで目が腐る」
窓際の特等席で紅茶を飲んでいたディアボロが、呆れ果てた声で吐き捨てた。
「仕方ないでしょう。ガイルが来たんですから。マスター、絶対に俺の名前を呼ばないでくださいよ」
アルフレッドが布巾の下から小声で釘を刺すと同時に、カランコロンとドアベルが鳴った。
「すまない、店員殿。……少し、厄介なことになっている」
入ってきたのは、沈痛な面持ちの聖騎士団長ガイルだった。そして彼の背中には、まるで魂が抜けたようにぐったりとした聖女エレンが背負われていた。
「エレン様が……その、聖務があまりに立て込みすぎて、精神が限界を迎えられたようでな。『あのお店に行かないと聖なる力が枯渇して国が滅ぶ』と暴れ出し、ここまで連れてくるしかなかったのだ」
ガイルがエレンを椅子に座らせると、彼女はテーブルに突っ伏し、虚ろな目で宙を見つめたまま、うわ言のように呟き始めた。
「……足りない……。アルフレッド様成分が……一分子も足りませんわ……」
アルフレッドは布巾の下で冷や汗を流しながら、水を運んだ。
「い、いらっしゃいませ。お疲れのようですね」
アルフレッドが声をかけた瞬間、店内の空気が変わった。近くの席で、母親にスプーンでオムライスを食べさせてもらっている子供の姿を、エレンが凝視している。
カッ!!
エレンの青い瞳に、狂気じみた光が宿った。彼女はバンッ! とテーブルを叩き、勢いよく立ち上がった。
「私も! あれがしたいですわ!!」
「エ、エレン様!? ご乱心ですか!?」
ガイルが慌てて止めようとするが、エレンは聞く耳を持たない。彼女はビシッと指を突きつけた。その指先は、布巾を被ったアルフレッドを正確に捉えている。
「そこのアルフ……いえ、布巾のお方! 私を『子供』として扱いなさい! 難しいコース料理は嫌! ワンプレートで、旗が立っていて、ワクワクするような『お子様ランチ』を持ってきて! そして私に食べさせなさい!」
店内が静まり返る。ディアボロが「……おい布巾男。あの女、頭のネジどころか土台から崩壊しているぞ。塩を撒け」と呟く声が聞こえた。
「落ち着いてくださいエレン様! 店員殿に何を求めているのですか!」
ガイルが説得を試みるが、エレンは駄々っ子のように首を振るばかりだ。アルフレッドがどうしたものかと立ち尽くしていると、ガイルが申し訳なさそうにアルフレッドの方を向き、小声で囁いた。
「……すまない、店員殿。彼女のワガママを聞いてやってくれないか」
ガイルは真剣な眼差しでアルフレッドの腕を見つめた。
「君のその、鍛え上げられた小麦色の腕の輝きが……彼女が慕っていた『あの方』に似ているから、つい甘えたくなってしまうのだろう。腕だけで人を惑わすとは、罪な筋肉だ」
どこをどう解釈したらそうなるんだ。アルフレッドは布巾の下でツッコミを入れたかったが、ぐっと堪えた。このままでは店がエレンの高火力浄化魔法に破壊されるか、ガイルの暑苦しい陳情で埋め尽くされるかの二択だ。
「……かしこまりました。とびきりの『お子様ランチ』をご用意します」
アルフレッドは厨房に入り、フライパンを火にかけた。視界は白い布で遮られている。頼りになるのは、長年培った勘と、音と匂いだけだ。
ジュワアアアッ!
アルフレッドは手探りで卵を割り、バターを溶かしたフライパンに流し込む。菜箸の感覚だけで半熟具合を見極め、チキンライスを包み込む。隣のコンロでは、タコさんウインナーが踊り、ハンバーグが香ばしい肉汁を放ち始める。
「おお……見事だ。視界を遮断してこれほどの調理を……やはりこの店員、タダモノではない」
ガイルが勝手に感心している声が聞こえる。アルフレッドは最後に、ケチャップで味付けしたナポリタンを添え、中央のオムライスに『聖教会の紋章が入った旗』を立てた。
「お待たせしました。『特製・大人様ランチ』です」
アルフレッドは完成したプレートをエレンの前に置いた。色とりどりの料理。旗の立ったオムライス。それはまさに、大人のための夢のワンプレートだ。
「まあ……! 素晴らしいですわ!」
エレンが歓声を上げ、瞳を輝かせた。だが、彼女はスプーンを持とうとしない。ただ口を大きく開けて、アルフレッドを見上げている。
「さあ、あーん、してくださいな」
「えっ」
「早く! お口が寂しがっておりますのよ!」
ガイルが「いけませんエレン様! そのような破廉恥な真似! 私が代わりに……」と必死に割り込もうとするが、エレンは「貴方じゃ嫌です!」と一蹴した。
アルフレッドは覚悟を決めた。ここで拒否すれば、彼女は暴れるだろう。彼は震える手でスプーンを持ち、オムライスを一口分すくった。そして、布巾の隙間から慎重に差し出した。
(顔を隠す白い布。
それはただの布巾ではない。――俗世との境界を引く、神聖なる『ベール』だ。)
(顔を見せないその神秘性。
それはまるで、儀式のために花嫁の前に立つ花婿が、あえてその素顔を隠しているかのようで――)
(そして今、そのベール越しに施しを受けるという行為。
それは背徳で、禁忌で、なのにどうしようもなく甘美な――究極にロマンチックな愛の儀式ではないか。)
(まあ……! ベール越しの給餌……!
なんて神聖で、なんていやらしい焦らしプレイ!
アルフレッド様、私の妄想をここまで具現化してくださるなんて……!)
「……やばい。エレンが、またとんでもない妄想を見ている顔に!」
とアルフレッドは極々小さくつぶやいた。
そんなエレンは一人で勝手に顔を真っ赤にし、プルプルと震えながらスプーンに食らいついた。
パクッ。
「ん〜っ!! 美味しい! ベール越しの愛の味がしますわ〜!!」
エレンは頬を抑えて悶絶した。そのあまりの幸福そうな様子に、ガイルも「……よかった。エレン様が笑っている」と涙ぐみ、つられて同じプレートを注文し始めた。
「このタコさんウインナー……懐かしい。母上……」
ガイルがタコさんウインナーを齧りながら男泣きし、エレンは猛スピードでオムライスを完食して昇天しかけている。カオスだ。布巾の下で、アルフレッドは遠い目をした。
やがて、満腹になったエレンは、幼児のようにすやすやと眠ってしまった。ガイルは彼女を丁寧に背負い、アルフレッドに向かって深々と頭を下げた。
「すまない店員殿。おかげで彼女も落ち着いたようだ。……また来る。その素晴らしい腕、大切にしたまえ」
ガイルたちが去った後、アルフレッドは勢いよく布巾を脱ぎ捨てた。
「……死ぬかと思った」
アルフレッドはその場に崩れ落ち、カウンターに突っ伏した。視界不良の調理と、精神的な疲労で、もう一歩も動けそうにない。
「……おい」
背後から、不機嫌そうな声が降ってきた。振り返ると、ディアボロが腕を組み、空になったエレンの皿を冷ややかに見下ろしていた。
「我の分はないのか」
「え? マスターも食べるんですか? お子様ランチですよ?」
「あの小娘の山には、旗が立っていたな」
ディアボロは、ルビーのような瞳を細め、子供のように唇を尖らせた。
「我の城で、他の勢力の旗が立っているのは不愉快だ。……上書きせねばならん」
「……はいはい。わがままな王様ですね」
アルフレッドは苦笑しながら立ち上がり、再びフライパンを握った。今度は視界も良好だ。アルフレッドは手際よくオムライスを作り、最後に手作りの『魔王軍の紋章が入った黒い旗』を立てた。
「ほら、どうぞ。魔王様ランチです」
ディアボロは出された皿を見ると、満足げに鼻を鳴らした。だが、スプーンを持とうとしない。彼はアルフレッドをじっと見つめ、そして自分の口を指差した。
「……手、手が疲れたな。魔力の使いすぎかもしれん」
「嘘つけ。座って見てただけでしょう」
「早くしろ。冷めるぞ」
アルフレッドは大きな溜息をつき、スプーンでオムライスをすくって、魔王の口へと運んだ。ディアボロはそれをパクリと食べると、喉の奥で「ぐるる……」と満足げに音を鳴らした。
「……ふん。悪くない。だが、旗の位置が2ミリずれているな」
「文句があるなら自分で食べてください」
賑やかすぎるランチタイムが終わり、店には穏やかな空気が戻ってきた。アルフレッドは洗い物をしながら、布巾越しの奇妙な儀式と、大きな二人の子供たちの世話に、やっぱり苦笑するしかなかった。
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