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元勇者だけどたまに猫になる魔王と一緒に暮らしてレストランやってます。この関係は誰にも言えません  作者: 甘城ソウヤ
第2部:英雄たちの休日と、黄金の再会

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第45話 『氷解の計算式と、赦しのポトフ』

 翌朝、王都の空は嘘のように晴れ渡っていた。昨日の冷たい雨が嘘のように、石畳の水たまりが陽光を反射して輝いている。だが、『キッチン・ブラン』の空気は、まだ重く澱んだままだった。


「……来ていないのか」


 開店前の店内で、ディアボロが不機嫌そうに呟いた。彼の視線の先には、カウンターの隅にポツンと置かれたままの、鉄の算盤がある。持ち主であるルシウスは、今朝になっても姿を現していなかった。


「……すみません! 開けてくださいぃぃ!」


 裏口の扉が激しく叩かれた。アルフレッドが鍵を開けると、そこには血の気が完全に引いたゼノンが転がり込んできた。


「ルシウスが……ルシウスが、官舎にも戻っていないんです! 昨日の夕方から行方不明で……どこを探しても見つからなくて……ボク、もう……!」


 ゼノンは半泣きになりながら、その場でへたり込んだ。いつもの胃痛どころの話ではない。相棒の失踪に、彼は本気で取り乱している。


「落ち着いて、ゼノン君。ルシウスさんに限って、無責任に仕事を放り出すようなことは……」


 アルフレッドが言いかけた時、ディアボロがカップを置いた。カチャリ、という音がアルフレッドの言葉を断ち切る。


「放っておけ」


 冷たい声だった。


「死に場所を探すほど、奴は馬鹿ではあるまい。……それに、客が来ているぞ」


 ディアボロの視線が入り口に向けられる。カラン、とベルが鳴り、一人の老婆が入ってきた。昨日の雨の中、ルシウスを追い詰めたあの第7地区の生き残りだ。彼女は今日も古びたショールを纏い、まるで最初からそうすることが決まっていたかのように、昨日と同じカウンターの席に腰を下ろした。


「……いらっしゃいませ」


 アルフレッドは複雑な思いを抱えながら、お冷やを出した。老婆は静かに礼を言い、ただ黙って入り口の方を見つめ続けた。まるで、誰かが帰ってくるのを待っているかのように。


 時間が過ぎ、昼下がりの陽射しが店内に差し込む頃。重い足取りと共に、店の扉がゆっくりと開いた。


 そこに立っていたのは、泥と雨に汚れ、見る影もなく憔悴しきったルシウスだった。整えられていた髪は乱れ、眼鏡は曇り、服はあちこちが破れている。完璧主義の徴収官とは思えない、敗残兵のような姿だ。


「……ルシウス!」


 ゼノンが駆け寄ろうとするが、ルシウスはそれを手で制し、ふらふらとカウンターの前まで歩み寄った。そして、ディアボロの正面で、糸が切れた人形のように膝をついた。


「……魔王様」


 掠れた声。


「私の計算機能は、バグを起こしました。これ以上の職務遂行は……不可能です」


 ルシウスは床に額を擦り付けるようにして頭を下げた。


「あの老婆の顔を見た瞬間、計算式が崩壊しました。正しかったはずの数字が、今はただの……死者の数にしか見えないのです。……どうか、私をご処分ください」


 彼は震える声で、処罰を求めた。それは、楽になりたいという懇願だった。魔王の手で消されれば、この罪悪感からも、耳障りな炎の音からも解放される。彼は死による救済を望んでいた。


 店内が静まり返る。隣の席で、老婆が静かに紅茶を啜る音だけが響いた。


「……処分だと?」


 ディアボロが、低い声で言った。彼は椅子から立ち上がり、ルシウスを見下ろした。その深紅の瞳には、憐憫ではなく、烈火のような怒りが宿っていた。


「甘えるな、ルシウス」


 ディアボロの声が、雷鳴のように轟いた。


「貴様の計算で万の命が救われた。だが、数百の命が消えた。その事実は消えん。……それを死んでチャラにしようなど、虫が良すぎるわ!」


「……っ!」


 ルシウスがビクリと肩を震わせる。


「貴様が選んだのだ。ならば、その結果も、過程も、こびりついた灰の臭いも、全て背負って生きろ。その数百の悲鳴を子守唄にして、死ぬまで計算し続けろ。……それが貴様の罰であり、我に仕える者の役目だ」


 冷酷な言葉。だが、それは「死んで逃げることは許さない」という、最強の肯定でもあった。ディアボロは、ルシウスを見捨てなかった。罪ごと抱えて生きろと命じたのだ。


 ルシウスは顔を上げられず、ただ肩を震わせて嗚咽を漏らした。


「……アルフレッド」


 ディアボロがアルフレッドを見た。


「この馬鹿者に、熱いものを食わせろ。死にたいなどという戯言が凍りつくほど、熱いものをな」


「はい。任せてください」


 アルフレッドは厨房に入り、大きな鍋の蓋を開けた。朝からじっくりと煮込んでいた料理。湯気と共に、野菜の甘い香りと、肉の力強い香りが立ち上る。


 彼が用意したのは、厚切りベーコンとゴロゴロ野菜のポトフだ。大きく切ったカブ、人参、玉ねぎ、そしてジャガイモ。それらをコンソメで柔らかくなるまで煮込み、最後に分厚いベーコンを加えて旨味を吸わせた。そして仕上げに、アルフレッドはミルを手に取り、黒胡椒をたっぷりと挽き、ふりかけた。


「お待たせしました。『厚切りベーコンとゴロゴロ野菜のポトフ』です」


 アルフレッドは湯気の立つ深皿を、ルシウスの目の前に置いた。


「……昨日は、甘い紅茶を出してすみませんでした」


 アルフレッドはスプーンを添えながら言った。


「今のあなたには、慰めのような甘さじゃなくて、少しピリッとするくらいの刺激と、お腹の底から温まる熱が必要だと思いました」


 ルシウスは、涙で濡れた顔を上げた。目の前には、鮮やかな野菜の色と、スパイシーな胡椒の香り。それは、生きるためのエネルギーそのものだった。


 彼は震える手でスプーンを握り、スープと野菜を掬い上げた。口へ運ぶ。


「……っ」


 熱い。食道を通って胃に落ちる熱さが、冷え切っていた内臓を叩き起こす。そして、黒胡椒のピリリとした刺激が、味覚を鮮烈に揺さぶる。


「……熱い。……痛いほど、生きています」


 ルシウスは、ポロポロと涙をこぼしながら、ベーコンを噛み締めた。肉の脂と塩気が、罪悪感で萎縮していた脳に染み渡る。


 その時、隣に座っていた老婆が、独り言のように口を開いた。


「……あの日。死んだ孫は言っていました」


 ルシウスの手が止まる。老婆は、穏やかな目で虚空を見つめていた。


「『結界の外にいたお役人様は、僕たちを焼きながら、ずっと泣きそうな顔をしていた』と」


 ルシウスが息を呑む。


「私は、あなたを許しはしません。あの子たちの未来を奪ったことは、決して消えない事実ですから」


 老婆は静かにルシウスの方を向き、悲しげに、しかし慈愛に満ちた瞳で彼を見た。


「ですが、恨みもしません。……あなたがこうして、あの子たちの痛みを我が身に刻んで、苦しみながら生きていてくれるなら。あの子たちの死も、ただの数字として処理されたわけではなかったのだと、そう思えますから」


 老婆の言葉は、ルシウスにとって、どんな断罪よりも重く、そしてどんな赦しよりも温かかった。


「……背負って、生きておくれ。若い人」


「……はい……っ! はい……!」


 ルシウスは子供のように泣きじゃくりながら、何度も頷いた。そして、涙で味もわからなくなりそうなポトフを、必死で口に運び続けた。彼は今、失われた命を背負い、再び歩き出すための燃料を腹に詰め込んでいるのだ。

 やがて、皿が空になった。ルシウスは腫らした目で、しかしどこか憑き物が落ちたような顔で、ナプキンで口を拭った。


「……ご馳走様でした。目が覚めるほど、熱い味でした」


 彼は懐からハンカチを取り出し、カウンターの隅に置かれていた自分の算盤を手に取った。泥や埃を丁寧に拭き取り、指先で珠を弾く。


 パチリ。


 その音は、もう炎が爆ぜる音ではなかった。日常を取り戻すための、硬質で、確かな再起動の音だった。


「……計算、再開」


 ルシウスは眼鏡の位置を直し、いつもの冷徹な表情……いや、以前よりも少しだけ芯の通った表情で、隣で心配そうにしていたゼノンを見た。


「ゼノン。溜まっている書類を持ってきなさい。私の不在中に発生した誤差も含め、倍速で片付けます」


「ひぃっ! い、いきなりスパルタ復活ですか!?」


 ゼノンが悲鳴を上げるが、その顔は嬉しそうだ。


「当然です。私は生きねばなりませんから。……魔王様、ご迷惑をおかけしました」


 ルシウスが深く頭を下げると、ディアボロはふんと鼻を鳴らし、窓の外へ視線をやった。


「働きで返せ。……アルフレッド、茶だ。温かいのを頼む」


「はいはい。今淹れますよ」


 雨上がりの空の下、店にはいつもの賑やかな空気が戻ってきた。老婆はいつの間にか席を立ち、静かに店を出ていっていた。空になったティーカップの横には、代金代わりの小さな花が一輪、置かれていた。


 それは、焼け跡に咲く花のように、力強く、鮮やかな色をしていた。

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