第44話 『氷の計算機と、割り切れない灰の記憶』
窓の外は、朝から降り続く冷たい雨に煙っていた。本来なら、雨音は心を静かに鎮める響きになるはずだ。だが、今日の『キッチン・ブラン』には、湿った空気に混じって、どこか鋭く尖った緊張感が漂っていた。
パチ、パチ、パチ。
店内のカウンターの端で、ルシウスが帳簿と向き合っている。彼の細い指先が鉄の算盤を弾くたびに、硬質な音が響く。いつもなら流れるようなその音色が、今日はやけに重く、そして時折、指が何かに引っかかったように詰まる。
「……ルシウスさん。お茶、冷めてますよ」
アルフレッドは、彼の横に新しい温かい紅茶を置きながら声をかけた。ルシウスはハッとしたように顔を上げ、少し焦点の合わない瞳でアルフレッドを見た。その顔色は、窓の外の雨雲よりも悪い。
「……ああ、すみません。少し、計算に没頭していました」
「計算が合わないんですか? 珍しいですね」
「いえ、計算は合っています。全て、完璧に合っているはずなのです。……なのに、答えが出ない」
ルシウスは独り言のように呟き、また視線を算盤へと落とした。パチッ。その音が、なぜかアルフレッドの耳にも痛く響いた。
その時、ドアベルがカランと鳴った。雨の中、店に入ってきたのは、一人の年老いた魔族の女性だった。古びたショールを頭から被り、濡れた傘を遠慮がちに畳む。
「いらっしゃいませ。どうぞ、暖かい席へ」
アルフレッドが声をかけると、老婆は深く刻まれた皺の中で優しく微笑んだ。
「ありがとう、人間の料理人さん。……いい匂いね。昔、嗅いだことがあるような、懐かしい匂いだわ」
彼女はゆっくりと歩を進め、カウンターの真ん中、ちょうどルシウスの隣の席に腰を下ろした。そして、ショールを肩から外した瞬間だった。
ガシャン!!
ルシウスの手から、鉄の算盤が滑り落ち、床で派手な音を立てた。彼の脳裏に、灼けた風景が一瞬よぎった。
「ルシウスさん?」
アルフレッドが驚いて振り返ると、ルシウスは椅子の上で凍りついたように固まり、老婆の腕を凝視していた。老婆がショールを外したことで露わになったその腕には、ケロイド状になった古い、しかし決して消えることのない火傷の痕が、痛々しく刻まれていたのだ。
「……あ、あ……」
ルシウスの唇が震え、過呼吸のような浅い息が漏れる。老婆はその視線に動じることなく、ただ静かに窓際の席に座るディアボロへと向き直った。
「魔王様。……お久しぶりでございます」
老婆は椅子から立ち上がり、深々と頭を下げた。
「安住の地を得られたようで、何よりです。あの頃の殺伐とした空気が、嘘のようですね」
ディアボロは、その深紅の瞳で老婆を静かに見下ろし、わずかに顎を引いた。
「……生き残っていたか。第7地区の、語り部よ」
その言葉を聞いた瞬間、ルシウスの顔から血の気が完全に引いた。彼は震える手でカウンターを掴み、何かから逃れようとするように体を後ろへ引いた。
「第7……地区……。まさか、あなたは……」
ルシウスの脳裏に、封印していたはずの記憶が蘇る。魔王ディアボロによる統治が盤石となる以前の、古い混乱の時代。魔界の辺境で発生した奇病、魔力暴走熱。感染者の魔力を暴走させ、周囲を焼き尽くす致死性の病。
当時、防疫の指揮を執っていた若き日のルシウスは、感染拡大の速度と治療薬の生産スピードを天秤にかけ、一つの「解」を導き出した。
『全滅を防ぐためには、感染率が規定値を超えた第7地区を物理的に隔離し、焼却して感染源を絶つ以外に生存ルートはない』
それは、あまりに冷徹で、あまりに正しい計算だった。ルシウスが決裁書にサインをした翌日、第7地区は結界で囲まれ、業火に包まれた。
パチ、パチ、パチ。
ルシウスの耳奥で、算盤の音が歪み始める。それは、珠を弾く音ではない。猛火の中で、家屋が、家財が、そして逃げ惑う人々が熱で弾け飛ぶ、あの乾いた破裂音だ。
「……ルシウス」
ディアボロの低い声が、幻聴を切り裂くように響いた。
「貴様の計算に、間違いがあったか?」
「……っ!」
ルシウスは弾かれたように顔を上げ、脂汗にまみれた顔で首を横に振った。
「い、いえ……! あの判断は、正しかった……! 数万の民を救うために、数百を切り捨てた。感染拡大の確率は99.8%、あの時点で焼却しなければ、魔界の半分が汚染されていたはずです。……計算上は、完璧な正解でした」
ルシウスは早口でまくし立てた。自分に言い聞かせるように。あの日の決断が、数字の上では絶対的な正義であったことを証明するように。
老婆は何も言わなかった。ただ、アルフレッドの方を向き、静かに注文した。
「料理人さん。温かいスープを一杯、いただけるかしら」
「……はい。すぐに」
アルフレッドは複雑な空気を察しながらも、今は料理人としての仕事に徹することにした。鍋から、野菜の甘みが溶け込んだ熱々のポタージュを掬い、器に盛る。そして、顔色が紙のように白いルシウスの前にも、気休めになればと、砂糖をたっぷりと入れた温かいミルクティーを置いた。
「ルシウスさん。これを飲んで、少し落ち着いてください」
湯気の立つカップが、ルシウスの目の前に置かれる。甘い香り。温かな陶器の熱。それは、凍りついた心を溶かすための優しさだった。
だが。
ガッ!!
ルシウスは、そのカップを強い力で押し返した。紅茶が波打ち、カウンターに琥珀色の染みを作る。
「……いりません!」
普段の冷静な彼からは想像もつかない、悲鳴のような大声が店内に響いた。
「私に……私のような者に、温かいものを飲む資格などない!」
ルシウスは自分の両手を見つめた。インクの染みひとつない、綺麗な指先。だが彼には、そこから滴るほどの赤い血と、こびりついた灰が見えているようだった。
「私は焼いたのです! 効率のために、数字のために! この指で、何百もの命を弾き飛ばした! それなのに、私だけがこんな……こんな温かい場所で、のうのうと……!」
ルシウスの眼鏡が涙で曇り、歪んだ表情が露わになる。ずっと、計算で自分を守ってきた青年の、本当の顔だった。
店内が静まり返る中、スープを一口啜った老婆が、独り言のようにぽつりと呟いた。
「……あの日。炎の中で、孫が最後に水を欲しがっていました」
その言葉は、どんな糾弾よりも鋭く、ルシウスの心臓を貫いた。
「……う、ぁ……」
ルシウスの喉から、言葉にならない嗚咽が漏れた。彼はよろめきながら立ち上がり、床に落ちた算盤を拾うことさえ忘れて、出口へと背を向けた。
「……申し訳、ありません……!」
それだけを言い残し、ルシウスは逃げるように雨の中へと飛び出していった。激しく打ち付ける雨音が、彼の足音をすぐにかき消していく。
開け放たれた扉から、冷たい風と湿気が吹き込んでくる。アルフレッドは立ち尽くし、彼が座っていた席に残された、冷めかけたミルクティーを見つめることしかできなかった。
「……随分と、残酷な偶然だな」
ディアボロが、感情の読めない声で言った。彼は老婆を見下ろし、深紅の瞳を細めている。
「第7地区の生き残りが、なぜ今、ここに現れた」
老婆は悲しげに微笑み、スープの器を両手で包み込んだ。
「偶然ではありません、魔王様。……あの若い役人様を見かけたとき、ずっとご自分を罰していらっしゃるように見えたものですから」
彼女の瞳には、復讐の色はなかった。あるのは、ただ深い悲しみと、行き場のない痛みを知る者だけが持つ静寂だった。
「あの方は、ずっと燃え続けているのですね。あの日消えたはずの炎の中で」
アルフレッドは、ルシウスが忘れていった鉄の算盤を拾い上げた。ずしりと重いその道具は、彼がこれまで背負ってきた罪の重さそのもののように感じられた。
計算では割り切れない痛み。数字では救えない記憶。
アルフレッドは厨房に戻り、冷えてしまったミルクティーをシンクに流した。甘い香りが、排水溝へと吸い込まれていく。ルシウスの凍りついた時間を溶かすには、ただ甘いだけの紅茶では、あまりに力不足だったのだ。
雨はまだ、降り止む気配を見せなかった。
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