第42話 『中間管理職の休日と、計算外の激辛』
パチ、パチ、パチ、パチ。
昼下がりの『キッチン・ブラン』に、硬質で無機質な音が響き渡っていた。本来なら、食器の触れ合う音や、客たちの穏やかな談笑が満ちるはずの時間帯だ。しかし今日は、カウンターの隅で鳴り続けるその音が、店内の空気をピリピリと支配していた。
「……あの、ルシウス。お願いしますから、もうやめてくださいよぉ」
カウンター席で頭を抱えているのは、魔王の影ことゼノンだ。休日の私服なのか、少しラフなシャツを着ているが、その顔色は仕事中よりも悪い。そして、その隣で無表情に鉄の算盤を弾き続けているのは、魔界の会計徴収官ルシウスだった。
「……ゼノン。私の計算によると、この店内の空気抵抗係数が、前回訪れた時よりも0.02%上昇しています。これは湿度の変化か、あるいは埃の堆積によるものか……」
ルシウスは休日の昼間だというのに、首元までしっかりとボタンを留めた執務服を着込み、目の下に深いクマを作ってブツブツと呟いている。
「休日ですよ!? 今日はボクが無理やり連れ出した完全オフの日じゃないですか! なんで店に来てまで環境測定の計算をしてるんですか!」
「……計算を止めると、落ち着かないのです」
ルシウスは眼鏡の奥の瞳を虚ろにさせ、指先だけを機械のように動かし続けた。パチ、パチ。その音は、まるで何かのカウントダウンのようにも、あるいは助けを求める信号のようにも聞こえた。
「いらっしゃいませ。……随分とお疲れのようですね」
アルフレッドは苦笑しながらお冷やを出した。窓際の特等席では、ディアボロが優雅に足を組み、面白そうに二人を眺めている。
「ふん。相変わらず融通の利かぬ男だ。ルシウス、貴様はそのうち数字に食い殺されるぞ」
「……お戯れを、魔王様。数字こそが世界の真理です」
ルシウスは手を止めず、アルフレッドに向かって顔を上げた。
「アルフレッド殿。注文をお願いします」
「はい。今日は何にしますか? ゼノンさんの胃に優しいリゾットでも……」
「いいえ」
ルシウスはアルフレッドの言葉を遮り、冷徹な声で言った。
「刺激を。……思考が焼き切れるほどの、強烈な刺激をお願いします」
「……は?」
「具体的には、口に入れた瞬間に脳髄が痺れ、複雑な計算式が一瞬で白紙になるような……そう、致死量ギリギリの激辛料理を所望します」
その場にいた全員が、動きを止めた。あの冷静沈着なルシウスが、激辛料理? しかも、動機が「思考を焼き切りたい」とは、あまりに不穏すぎる。
「ル、ルシウス!? 辛いものは苦手じゃなかったんですか!? ボク、聞いてるだけで胃が……」
ゼノンが悲鳴を上げるが、ルシウスは聞く耳を持たない。
「今の私には必要なのです。この頭の中で鳴り止まないノイズを消すためには、味覚の痛みによる上書きが最適解だと判断しました」
アルフレッドは困惑してディアボロを見た。マスターはニヤリと口角を上げ、懐からどす黒い赤色をした小瓶を取り出した。
「ほう。ならば許可してやろう。これは魔界の深淵に生える『煉獄唐辛子』を粉末にしたものだ。一振りで巨竜が火を吹いて気絶すると言われる代物だが……試すか?」
「マスター、悪ノリしないでください! そんなの入れたら料理じゃなくて兵器ですよ!」
「構いません」
ルシウスが即答した。
「それを使い、最高級に辛いパスタを作ってください。……計算不能なほどの赤色を、私は求めています」
彼の瞳は、本気だった。諦めなさそうなルシウスの表情を見て、アルフレッドは溜息をつき、覚悟を決めて厨房へ入った。
「……知りませんよ。後悔しても」
アルフレッドが作ったのは、トマトソースをベースにしたアラビアータだ。だが、そこには唐辛子とニンニクを通常の五倍投入し、さらにディアボロから渡された『煉獄唐辛子』をごく微量だけ混ぜ込んだ。
完成したパスタは、もはや赤を通り越して、どす黒いマグマのような色をしている。湯気だけで目が痛い。
「お待たせしました。『激辛・煉獄アラビアータ』です」
皿を置いた瞬間、ゼノンが「ヒッ」と息を呑んで椅子ごと後ずさった。
「……ほう。数値にして、カプサイシン濃度が測定限界を突破していますね」
ルシウスは眼鏡の位置を直し、冷静にフォークを持ち上げた。
「では、実食により、この刺激が思考回路に与える影響を検証します」
彼は大量の麺を巻き取り、躊躇なく口へと運んだ。
一秒。二秒。三秒。
静寂が流れる。ルシウスは無表情のまま咀嚼し、そして飲み込んだ。
「……ふむ。初期の痛覚反応は想定内です。これならば、次の一口の角度を計算し……」
パチリ、と彼が算盤に手を伸ばした、その時だった。
「……け、計算……エラー……ッ!?」
ルシウスの顔色が、一瞬で蒼白から真っ赤へと変貌した。額から滝のような汗が噴き出し、眼鏡が一瞬で真っ白に曇る。
「あ、熱……い!? 痛い、熱い、燃え……!! す、数字が、溶ける……!!」
ガシャン! と算盤が床に落ちた。ルシウスはカウンターに突っ伏し、喉をかきむしるようにして悶絶し始めた。
「水! 水をください! い、いや、水では蒸発する! 氷山を! 氷山を持ってきてください!!」
普段の冷徹さはどこへやら、ルシウスは涙目で叫び、自分のお冷やを一気飲みした。
「ルシウス!? しっかりしてください! 計算してくださいよ! 落ち着いて素数を数えるんですよぉ!」
「無理です! 1の次は……100! いや、マイナス! エラー! システムエラーです!!」
錯乱したルシウスは、隣で悲鳴を上げるゼノンのお冷やまで奪い取り、喉へ流し込んだ。
「くくっ……はーっはっは! 無様だな、ルシウス! 貴様の自慢の計算も、我の唐辛子の前では無力か!」
ディアボロが窓際で愉しげに嘲笑っている。アルフレッドは慌てて、用意しておいたラッシーをカウンター越しに差し出した。
「ほら、これ飲んで! 辛さが和らぎますから!」
ルシウスは震える手でグラスを掴み、一息に飲み干した。そして、ようやく長い長い息を吐き、カウンターに突っ伏したまま動かなくなった。
数分後。ルシウスが、ゆっくりと顔を上げた。眼鏡はズレ、髪は乱れ、目は充血している。完璧主義の彼とは思えないほどボロボロの姿だ。
だけど、その表情は、奇妙なほどに穏やかだった。
「……あ」
ルシウスは、自分の手を見つめた。いつもなら無意識に探し求めている算盤が、今は床に転がっている。けれど、彼はそれを拾おうとはしなかった。
「……静かだ」
ポツリと、独り言のように漏らす。
「ルシウス?」
「……頭の中が、真っ白です。計算式も、数字も……そして、あの音も」
ルシウスは、どこか遠くを見るような目で、空になったパスタの皿を見つめた。口の中はまだ痺れているだろう。胃袋も焼けるように熱いはずだ。だが、その強烈な「痛み」というノイズが、彼を苛み続けていた別の「ノイズ」を、一時的にせよ消し去ってくれたようだった。
「……パチパチと。何かが爆ぜるような音が、ずっと響いていたのです。ですが今は……ただ、熱いだけだ」
彼は汗に濡れた前髪をかき上げ、深く、安堵の息を吐いた。その横顔に浮かんでいたのは、単なる食後の満足感ではない。まるで、長い間背負っていた重荷を、ほんの一瞬だけ下ろすことが許された囚人のような、切実な安らぎだった。
「……ふん。軟弱者が」
ディアボロが、笑うのをやめて静かに言った。その深紅の瞳は、ルシウスの「何か」を見透かすように細められている。
「だが、少しは顔色が良くなったな。死人のような面よりはマシだ」
「……ええ。計算外の荒療治でしたが……悪くありませんでした」
ルシウスは床の算盤を拾い上げ、塵を払った。だが、いつものようにすぐに弾き始めることはせず、大切そうに懐へとしまった。
「お会計を。……ゼノン、帰りますよ。明日からの仕事に備えなければ」
「え、あ、はい! ……よかったぁ、いつものルシウスに戻りましたね」
ゼノンがほっとして立ち上がる。ルシウスは立ち去り際、アルフレッドに向かって静かに頭を下げた。
「アルフレッド殿。……また、耐え難い音が響いた時は、よろしくお願いします」
「ええ。いつでも、とびきり辛いのを用意して待ってますよ」
店を出ていく二人の背中を見送りながら、アルフレッドはカウンターに残された真っ赤な皿を片付けた。
「……マスター。ルシウスさん、何か抱えてるんですかね」
「さあな。だが……」
ディアボロは窓の外、魔界の方角にある空を見上げた。
「奴の計算が狂うほどの何か、か。……いずれ、精算せねばならん日が来るかもしれんな」
その言葉は、予言のように重く響いた。アルフレッドは洗った皿を拭きながら、先ほどのルシウスの「静かだ」という呟きを思い出していた。それは、平穏な休日の終わりに残された、小さな染みのような不安だった。
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