第41話 『迷える魔王と、一年目のリボン』
「……マスター。折り入って頼みがあります」
王都の職人街に、初夏の爽やかな風が吹き抜ける朝。開店前の『キッチン・ブラン』で、アルフレッドは神妙な顔を作って、窓際で優雅に朝の光を浴びているディアボロに声をかけた。
「何だ、アルフレッド。改まって。……まさか、また換気扇から魔界のヘドロが溢れ出したわけではあるまいな」
「違いますよ。実は今日、在庫の棚卸しと、夜のメニューの仕込みがどうしても間に合いそうにないんです。猫の手も借りたいくらいなんですが……」
アルフレッドはチラリと、ディアボロの白磁のように美しい手を見た。
「あいにくだが、我の手はどの猫よりも高貴で、雑務には向かぬぞ」
「わかってます。だから、マスターには『店主としての仕事』をお願いしたいんです。……買い出しに行ってくれませんか?」
「は? 我に使い走りをせよと言うのか?」
ディアボロが不機嫌そうに眉を寄せる。ここまでは想定内だ。アルフレッドはすかさず、とっておきの一言を口にした。
「ただの買い出しじゃありません。『最高責任者による、最重要素材の選定』です。……今の市場には粗悪な茶葉も出回っています。俺のような凡人の目利きでは見抜けないかもしれませんが、マスターの神の舌と審美眼なら、最高の一品を選べるはずです」
アルフレッドは買い物メモを彼の手元に置いた。
「リストの最後に書いてある『今夜飲む、最高に美味しい紅茶の葉』と『デザート用の果物』。これだけはマスターのセンスに任せますから」
「……ふん。貴様の貧相な味覚に任せれば、泥水のような茶を飲まされるのは目に見えている。我が自ら選ぶのは当然だ」
ディアボロは鼻を鳴らし、満更でもなさそうに立ち上がった。チョロい。いや、信頼してくれているのだと思おう。
「よかろう。貴様の凡眼では、我が満足する茶葉など選べぬ。……我が自ら選んでやる」
ディアボロは漆黒の燕尾服をバサリと翻し、威風堂々と店を出て行った。扉が閉まった瞬間、アルフレッドはガッツポーズをして厨房へ舞い戻った。
「さて……。あの人が戻ってくる前に、一年分の感謝を込めた最高のディナーを用意しないとな」
王都の商店街は、今日も活気に満ちていた。その雑踏の中を、身長二メートル近い銀髪の男が、周囲を威圧しながら歩いている。
「ふん。どいつもこいつも、弛んだ顔をしおって」
ディアボロは不機嫌そうに呟く。だが、その足取りは軽い。
「あら! ブランのマスターじゃないの! 今日は一人でお使い? 偉いわねぇ!」
突然、背後からドスンと背中を叩かれた。振り返れば、近所の八百屋のおばちゃんだ。
「気安く触るな。我は使い走りなどではない。……視察だ」
「ふふっ、視察ね! ほら、これ持ってきな! いつも顔色悪いんだから、栄養とりなさいよ!」
おばちゃんは有無を言わさず、籠の中に鮮やかなオレンジ色の果実をゴロゴロと放り込んだ。
「……民からの献上物か。無下にはできんな」
ディアボロは尊大に頷き、当然の権利として受け取った。
路地裏に入ると、今度は子供たちが集まってきた。
「あ! 偉そうなにーちゃんだ!」
「ねえねえ、今日も指から火だしてよ!」
「騒々しい。我の静寂を乱すなと言っているだろう」
ディアボロは煩わしそうに眉を寄せる。だが、足は止めない。子供たちは彼の周りをキャッキャと跳ね回り、一人の少女が手を振った。
「……励めよ、未来の臣民ども」
ディアボロは小さく手を振り返し、鷹揚に頷いた。
そのまま、彼は紅茶専門店へと向かう。背後では、おばちゃんたちが「あの子、口は悪いけど優しいのよね」と噂している。ディアボロは、その声を「我への畏敬の念だな」と満足げに解釈しながら、燕尾服の裾をパタパタと揺らして歩いていった。
「……ないな」
王都一の品揃えを誇る紅茶専門店で、ディアボロは腕を組み、不満げに唸っていた。カウンターには、店主が震える手で出した最高級の茶葉がずらりと並んでいる。だが、どれも香りを嗅ぐだけで却下された。
「お、お客様……こちらは東方産の最高級品でして……」
「香りが浅い。……アルフレッドが淹れた時の、あの深みがない」
ディアボロは苛立ち、爪をカチカチとカウンターに当てた。彼は気づき始めていた。彼が求めている「最高の紅茶」とは、茶葉の銘柄ではなく、「アルフレッドが自分のために淹れた一杯」であることを。だが、それを認めるのは魔王のプライドが許さない。
日がだいぶ傾き、延々と続いた問答の末に店主が泣きそうになった頃、ようやくディアボロは結論を出した。
「ええい、面倒だ! 貴様、この店で一番高い茶葉と、香りの良い花びらをブレンドしろ! 我の舌を唸らせる配合を作れ!」
結局、店員を威圧的に指導して何十通りもの試作を作らせた。そしてようやく、納得のいく香りが完成した時、ディアボロは不敵に笑った。
「……悪くない。これならば、我が城の空気に合うだろう」
「は、はい……! では、このブレンドにお名前を……」
店員が恐る恐る尋ねると、ディアボロは少しだけ考え、窓の外の空を見上げた。そこには、彼の店と同じ、混じりけのない白い雲が浮かんでいる。
「……『ブラン』だ。我が城の名を冠するにふさわしい、至高の茶だ」
店に戻ったのは、空が茜色に染まる頃だった。
「アルフレッド。戻ったぞ。仕込みはできておるのだろうな?」
扉を開けたディアボロは、言葉を失った。店内は薄暗く、いつもとは違う柔らかな光に包まれていた。テーブルには白いクロスがかけられ、キャンドルの炎が揺らめいている。壁には、シックな色合いの花が控えめに飾られていた。
そして、厨房から漂ってくるのは、懐かしくて、極上の肉の香り。
「おかえりなさい、マスター」
奥から現れたアルフレッドは、いつものコックコートではなく、少しだけ正装に近いパリッとしたシャツを着ていた。
「……仕込みではなかったのか?」
「嘘ですよ。今日は『キッチン・ブラン』の一周年記念日ですから。……こうでもしないと、マスターは準備中に味見をしに来るでしょう?」
アルフレッドは悪戯っぽく笑い、椅子を引いた。
「さあ、座ってください。今日の主役は、マスターですから」
運ばれてきたのは、二人が初めて作った「ハンバーグ」だった。だが、それは一年前のものとは違う。肉の配合、焼き加減、ソースの深み。すべてが進化し、洗練された「現在の二人」の味だ。
ディアボロは黙ってナイフとフォークを手に取り、優雅に肉を切り分けた。口に運ぶと、溢れ出す肉汁と共に、魔王城の崩壊から、レストランを開くまでの二年間の記憶が蘇る。
「……あの頃よりはマシになったな」
素直じゃない言葉を吐きながらも、その手は止まらない。
食後。買ってきたばかりの特製ブレンド『ブラン』をアルフレッドが淹れ、二人は向かい合って座った。
「……ほう。やはり、貴様が淹れねばこの香りにはならんようだな」
ディアボロが満足げにカップを置く。その紅茶は、華やかでありながらどこか落ち着く、まさにこの店のような味がした。
すると、アルフレッドがポケットから小さな箱を取り出した。
「これ、一周年のお礼です」
「……何だ?」
渡された箱を開けると、そこには、深紅のベルベットで作られたリボンが入っていた。ディアボロの瞳と同じ、美しいルビー色のリボンだ。
「いつも使っている銀のリボンもいいですけど、もっと似合うものを見つけたんですよ。せっかく綺麗な銀髪なんだから、もっと格好良くしてくださいよ。……魔王様なんですから」
ディアボロは目を見開き、そしてふいと顔を背けた。その耳が、リボンと同じくらい赤く染まっている。
「……生意気な。貴様は、我の背後ばかり見ているのか」
彼はボソリと呟くと、今まで髪を結んでいたリボンを解き、アルフレッドに背を向けた。銀色の髪が、さらりと背中に広がる。
「……貴様が結べ。きつくするなよ」
「はいはい」
アルフレッドは、口元だけをほんの少し緩めて、その滑らかな銀髪を手に取り、新しいリボンで丁寧に結い上げた。指先が触れるたび、ディアボロの喉の奥から、微かに「ぐるる……」という音が漏れる。本人は咳払いをして誤魔化そうとしているが、アルフレッドには筒抜けだ。
「よし、出来ましたよ。……うん、やっぱり似合いますね」
アルフレッドが鏡を差し出すと、ディアボロは少しだけ鏡の中の自分と、その後ろで笑う料理人を見て、満足げに鼻を鳴らした。
「……ふん。悪くない」
街の人々からの貢ぎ物と、二人の名を冠した紅茶。そして、深紅のリボン。アルフレッドのサプライズが詰まった一日は、最高の記念日となって、穏やかに更けていった。
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