第40話 『狩人の贖罪と、ジビエのフルコース』
「……ないな。どこにもない」
翌朝の市場で、アルフレッドは空っぽの荷台を前に頭を抱えていた。
昨夜、ディアボロが「最近の肉は軟弱で食いごたえがない。野生の覇気を感じる肉をよこせ」と、無茶を言ったせいだ。
しかし、この時期の市場には、彼を満足させるような上質なジビエが出回っていなかった。
「困ったな……。このままじゃ、今夜のメインディッシュは『魔王の不機嫌』になっちまう」
溜息をついて市場を歩いていると、路地裏のベンチに、見覚えのある背中を見つけた。昨日のフリフリのドレスではなく、地味な灰色の旅装束に身を包んだリディアだ。
彼女は膝を抱え、まるで捨てられた子犬のように小さくなっていた。背中には、布でぐるぐる巻きにされた長い棒状のもの――あの大弓がある。
「……リディアさん?」
声をかけると、彼女はビクッと肩を震わせ、恐る恐る顔を上げた。その黄金色の瞳は、昨日の失敗を引きずって深く沈んでいる。
「……アルフレッド。笑いに来たの? サラダの皿を割って逃げ出した、役立たずを」
「まさか。……実は、あなたを探していたんです。仕事の依頼をしたくて」
「仕事?」
「ええ。俺一人じゃ手に負えないんです。……力を、貸してくれませんか」
アルフレッドとリディアがやってきたのは、王都から少し離れた深い森の中だった。リディアは背中の布を解いていた。現れたのは、彼女の身長ほどもある巨大な剛弓だ。
「……言っておくけれど、私はもう、まともに撃てないわよ」
リディアは弓を握る手を震わせながら言った。
「昨日も見たでしょう? 私の感覚は、平和な世界には鋭すぎるの。ただの鳥の声にも殺気立って、必要のない命まで奪ってしまうかもしれない」
「奪うんじゃありません」
アルフレッドは彼女の肩に、そっと手を置いた。
「いただくんです。今日、俺たちが探しているのは『敵』じゃありません。『食材』です」
「……食材?」
「ええ。この森には、繁殖しすぎて生態系を崩している『剛毛猪』がいるそうです。彼らの命をいただいて、誰かを笑顔にする料理に変える。……それが、俺の仕事です」
リディアはハッとしてアルフレッドを見た。彼女はずっと「戦い」か「平和」かの二択で苦しんでいた。だが、その間にある「営み」としての狩りには、思い至らなかったのだろう。
「……誰かを、笑顔にするために」
リディアは呟き、ゆっくりと森の奥を見据えた。その瞬間、彼女の纏う空気が変わった。怯えや迷いが消え、静謐な森の一部へと溶け込んでいく。
ガサッ。
数百メートル先で、わずかに草が揺れた。常人なら風のいたずらだと思うだろう。だが、リディアは無言で矢をつがえた。
彼女の左鎖骨から肩にかけて走る亀裂の痣が、服の下で淡く、青白い燐光を放ち始めた。それは破壊の予兆ではなく、極限まで高まった集中の証。
「……見えた」
彼女が静かに弦を引き絞る。以前の彼女なら、敵を殲滅するために、殺気と共に矢を放っていただろう。だが今は違う。
(苦しませない。肉を傷つけない。……ただ、感謝する)
ヒュンッ!
放たれた矢は、風切り音すら置き去りにして吸い込まれた。ドサッ、という重い音が、遠くから響く。そこへ駆け寄ると、そこには巨大な猪が、眉間を正確に射抜かれて絶命していた。苦しんだ跡はなく、ただ静かに倒れていた。
「ほう。見事な血抜きだ。肉にストレスがかかっていない」
店に戻り、獲物を捌き終えたアルフレッドの背後で、ディアボロが感心したように声を上げた。
「これなら、我が舌を満足させられるかもしれんな」
「ええ。最高の一皿にしますよ」
アルフレッドは猪肉の塊を、赤ワインと香草でマリネし、表面を香ばしく焼き固めた。オーブンでじっくりと火を通し、ロゼ色の完璧な焼き加減に仕上げる。ソースは、肉汁と赤ワインを煮詰め、そこにディアボロが好む甘酸っぱいベリーのジャムを加えた特製ソースだ。
「お待たせしました。『猪肉のロースト・赤ワインとベリーのソース』です」
カウンター席に座るリディアの前に、皿を置く。野生味あふれる肉の香りと、フルーティーなソースの香りが立ち上る。彼女は、まだ信じられないといった顔で、自分の手と、目の前の料理を見比べていた。
「これが……私が獲った……?」
「そうです。あなたが、最高の状態で仕留めてくれたからこそ、作れた料理です」
リディアはナイフを入れ、一口、口へと運んだ。
「…………っ」
噛み締めた瞬間、彼女の目からボロボロと涙がこぼれ落ちた。血の味などしない。そこにあるのは、森の恵みと、命の力強さ。そして、それを料理として昇華させた優しさだけだった。
「美味しい……。私が持っている力は、何かを傷つけるだけじゃなかったのね……」
「ええ。あなたのその鋭い感覚は、美味しいものを届けるための素晴らしい才能ですよ」
アルフレッドが微笑むと、隣から不満げな声が響いた。
「おい、アルフレッド。良い匂いがすると言っているのだ。我にもその肉をよこせ」
ディアボロが待ちきれない様子で、テーブルを指先で叩いている。アルフレッドは苦笑しながら、ディアボロの分を皿に取り分けた。
「はいはい、マスターの分もちゃんとありますよ」
ディアボロは皿を受け取ると、フォークで肉を刺し、静かな動きで口へ運んだ。
「……ふむ。悪くない。野性味の中に、貴様の迷いのなさが味として出ている」
ディアボロは尊大に頷くと、喉の奥から「ぐるる……」と満足げな音を漏らした。
「……我の城の狩人として、認定してやろう。これからは、我のために極上の肉を献上しろ」
「ふふっ。……ええ、わかったわ。魔王様」
リディアは涙を拭い、晴れやかに笑った。その笑顔は、昨日の無理をした「普通の女の子」の笑顔よりも、ずっと美しく、彼女らしかった。
あくる日。『キッチン・ブラン』の扉が勢いよく開いた。
「アルフレッドさん! 今日もいい鴨が獲れたわよ!」
入ってきたのは、動きやすい茶色のパンツスタイルに身を包んだリディアだ。背中には愛用の大弓。そして、ポニーテールに結い上げたエメラルドグリーンの髪には、ワンポイントとして可愛いピンクのリボンが揺れていた。
「いらっしゃい。今日も大漁ですね」
「ええ! あ、それとね、あとでデザートも大盛りでお願い! 狩りの後の甘いものは格別なんだから!」
「ふん。我の分まで食い尽くすなよ、新入り」
ディアボロが窓際から憎まれ口を叩くが、その表情は柔らかい。
無理なフリルはもういらない。彼女は、戦士としての強さと、乙女としての可愛らしさを両立させた、新しい「弓聖」としての人生を歩み始めたのだ。
「はいはい。お二人とも、喧嘩しないでお待ちくださいね」
アルフレッドは厨房で、鴨肉とデザートの準備に取り掛かった。賑やかさを増した店内に、今日もまた、美味しい匂いが満ちていく。
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