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元勇者だけどたまに猫になる魔王と一緒に暮らしてレストランやってます。この関係は誰にも言えません  作者: 甘城ソウヤ
第2部:英雄たちの休日と、黄金の再会

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第39話 『レースの猛獣と、震えるフォーク』

「……いらっしゃいませ」


 昼下がりの『キッチン・ブラン』。アルフレッドは、開いた扉の向こうに立っている人物を見て、挨拶の言葉を一瞬だけ喉に詰まらせた。


 そこにいたのは、森の木々を思わせる鮮やかなエメラルドグリーンの髪をポニーテールにした女性だった。獲物を射抜くような黄金色の瞳、引き締まった長身、そして衣服の上からでも分かる、鋼のように鍛え上げられた筋肉。


 かつて「弓聖」と呼ばれ、竜の眉間を数キロ先から射抜いた英雄、リディアだ。


 問題は、彼女の服装だった。

 彼女は、どう見てもサイズの合っていない、フリルとレースが満載のド派手なピンク色のワンピースを着ていたのだ。パフスリーブからは隆起した上腕二頭筋が悲鳴を上げて飛び出しそうになっており、本来は膝下の上品な丈のはずが、太ももの筋肉で生地が持ち上がり、少し際どいミニ丈に見えてしまっている。その裾からは、丸太のように強靭な太ももが覗いていた。


「…………席は、空いているかしら」


 リディアは低い声で尋ねると、眼球だけを凄まじい速度で動かし、店内の客数、窓の位置、カウンターの死角、そして裏口への逃走ルートを一瞬で確認した。それから、抜き足差し足で音もなく店内へ侵入し、壁を背にできる一番端の席へと滑り込んだ。

 その動きは、お茶をしに来た令嬢ではなく、敵陣に潜入する暗殺者のそれだった。


「ふん。なんだその格好は。森の熊が、人間の真似事をして皮を被っているのか?」


 窓際の特等席で紅茶を飲んでいたディアボロが、一瞥するなり鼻で笑った。


「っ……!」


 リディアのこめかみに青筋が浮かぶ。彼女は黄金色の瞳でディアボロを睨み返したが、その言葉を否定できない自分に気づき、悔しげに唇を噛んだ。


「……放っておいて。私は今、リハビリ中なのよ」


「リハビリだと? その服が弾け飛ぶ前に脱いだ方が、布のためにもなると思うがな」


「うるさいわね! これが今、王都で一番流行っている『愛され女子コーデ』だって服屋が言っていたのよ!」


 リディアは叫んだが、その声には自信の欠片もなかった。アルフレッドは苦笑しながら、メニューを持って彼女の席へ向かった。


「……久しぶりですね、リディアさん。変わりませんね」


 アルフレッドが懐かしさを込めて声をかけると、リディアはハッとして顔を上げた。かつての冒険で、アルフレッドに弓の初歩を手ほどきしてくれた「師匠」のような存在。アルフレッドはこの十年ですっかり大人になったが、彼女の時間はあの日で止まっている。


「……アルフレッド。あなた、随分と背が伸びたわね。……私を追い越して、すっかりおじさんになっちゃって」


「はは、お互い様ですよ。……ただ、その服は随分と変わりましたね。個性的で」


「慰めはいらないわ。……分かっているの。私がこの平和な世界で、どれだけ浮いているかくらい」


 リディアは深いため息をつくと、肩を落とした。その拍子に、背中のファスナーが「ミチッ」と不穏な音を立てる。


「……私、働こうとしたのよ。花屋で」


 リディアはポツリと語り出した。


「でも、ダメだったわ。茎を優しく持とうとしたのに、気づいたら握りつぶして『青汁』にしていたの。……次にパン屋へ行ったわ。でも、焼き立てのバゲットを持った瞬間、バランスの良さに感動して、つい店の外の看板に向かって放ってしまったのよ」


「……それは、災難でしたね」


 アルフレッドはかける言葉を選んだ。彼女は十年間、バルトロメウスによって時間を止められていた。目覚めた彼女にとって、世界は平和になりすぎていて、戦うことしか知らない彼女の体は、この日常に過剰反応してしまったらしい。


「私の体は、殺すことしか覚えていない。……平和な世界に、私の居場所なんてないのよ」


 リディアが涙ぐみ、テーブルに置かれたフォークに手を伸ばした、その時だった。


 カチャ。


 窓際で、ディアボロがティーカップをソーサーに戻した。ただそれだけの、微かな陶器の接触音。


「敵襲ッ!?」


 ガタッ! と椅子が倒れる音がした時には、リディアは既に臨戦態勢に入っていた。彼女は反射的にテーブルのフォークを逆手で握りしめ、音の発生源であるディアボロの眉間めがけて、目にも止まらぬ速さで投げつけようと腕を振りかぶった。


「しまっ……!」


 アルフレッドはとっさに小麦色の腕を伸ばし、彼女の手首をガシリと掴んだ。


「リディアさん! 落ち着いて! ただのティーカップの音です!」


「ッ……!?」


 アルフレッドの声に、リディアの動きが止まった。彼女の黄金色の瞳孔は極限まで収縮し、全身からは冷たい殺気が噴き出している。握られたフォークは、飴細工のようにぐにゃりと曲がっていた。


 店内が凍りつくような沈黙に包まれる。ディアボロは、眉一つ動かさずに紅茶を啜り続け、冷ややかに言い放った。


「……野蛮だな。我の優雅なティータイムに、銀食器を投げ込もうとするとは」


 リディアは、ハッとして我に返った。自分の手にある無惨に曲がったフォークと、怯えたようにこちらを見ている他の客たち。そして、止められた自分の腕。

 彼女の顔が、みるみるうちに真っ赤に染まっていく。


「ご、ごめんなさい……! 私、また……っ!」


 彼女はフォークを取り落とし、震える手で顔を覆った。ワンピースの首元、左鎖骨から肩にかけて走る弦傷のような亀裂の痣が見え、そこが脈打つように明滅している。


「……大丈夫ですよ。怪我人は出ていません」


 アルフレッドは優しく声をかけ、倒れた椅子を起こして彼女を座らせた。そして、厨房へ戻ると、甘いホットココアを淹れて彼女へと差し出した。


「まずは、これを飲んで落ち着いてください」


「……ありがとう」


 リディアは両手でカップを包み込み、すがるように一口飲んだ。甘い香りが、張り詰めた神経を少しだけ緩める。


「……注文、決まりましたか?」


 アルフレッドが尋ねると、リディアは顔を上げ、悲壮な決意を込めた目でアルフレッドを見た。


「……お願い、アルフレッド。一番かわいくて、血の匂いがしない料理をちょうだい。私を、普通の女の子にして」


「……かわいくて、血の匂いがしない料理、ですか」


 アルフレッドは困ったように眉を下げた。彼女の体つき、そして今の過敏な反応を見る限り、彼女の肉体が求めているのは間違いなく、良質なタンパク質と鉄分――つまり「肉」だ。本能が飢えているからこそ、神経が過敏になっている。


 だが、今の彼女に肉を出せば、それは「野獣」としての自分を肯定することになってしまう。


「……分かりました。特製の『フルーツサラダ』をお持ちしますね」


 アルフレッドは厨房に入り、色とりどりの果物をカットした。瑞々しい桃、輝くようなマスカット、そして宝石のようなベリー。それらをガラスの器に盛り付け、ヨーグルトベースの白いソースをかける。見た目は、間違いなく「王都で一番かわいい料理」だ。


「お待たせしました」


 アルフレッドがサラダを置くと、リディアは目を輝かせた。


「わあ……綺麗。これなら、私でも……」


 彼女は新しいフォークを手に取り、桃を一切れ口に運んだ。甘くて、冷たい。血の匂いなど欠片もない、平和の味がした。


「……美味しい。私、こういうのが食べたかったの」


 リディアが微笑んだ。これでいいのかもしれない、とアルフレッドが思いかけた瞬間。


 ガラガラガラーッ!!


 店のすぐ外の路地を、荷馬車が大きな音を立てて通過した。車輪が石畳に跳ねる、激しい衝撃音。


「ッ!!」


 リディアの体が、思考よりも早く反応した。


「伏せて!!」


 彼女は叫ぶと同時に、目の前のテーブルを下から蹴り上げた。ガシャーン! とかわいいフルーツサラダが宙を舞い、ガラスの器が床で砕け散る。彼女自身は床を転がって受け身を取り、割れたガラス片の一つをナイフのように構えて入り口を睨みつけた。


「……あ」


 入り口には、誰もいなかった。ただ、荷馬車の音が遠ざかっていくだけ。

 床には、無惨に飛び散った果物と、ヨーグルトソースの白が広がっている。


「……嘘、でしょ」


 リディアの手から、ガラス片が滑り落ちた。


「……ふん。獅子は兎にはなれんということだ」


 ディアボロが、呆れたように呟く。その言葉が、リディアの心に止めを刺した。


「……っ、うあああああ!!」


 リディアは叫び声を上げ、カウンターに金貨を叩きつけると、脱兎のごとく店を飛び出した。ピンク色のフリルが、視界の向こうへ消えていく。


「リディアさん!」


 アルフレッドが呼び止める間もなかった。残されたのは、甘いココアの香りと、飛び散ったサラダの残骸だけ。


「……マスター。言い過ぎですよ」


 アルフレッドが咎めると、ディアボロは不服そうに鼻を鳴らした。


「事実だ。あやつの魂は飢えている。草や果実で誤魔化せるものではない。……アルフレッド、片付けろ。見ていて不愉快だ」


「……わかりました」


 アルフレッドは床に膝をつき、砕けたガラスを拾い集めた。

 彼女の鋭さは、平和な世界では凶器にしかならないのか。いや、そんなことはないはずだ。あの鋭敏な感覚と、神域の弓技。それを活かせる「何か」が、必ずあるはずだ。

 アルフレッドは床を拭きながら、明日、市場へ行くことを決めた。彼女に必要なのは、可愛らしいサラダじゃない。もっと、命の根源に響くような、本物の「答え」だ。

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