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元勇者だけどたまに猫になる魔王と一緒に暮らしてレストランやってます。この関係は誰にも言えません  作者: 甘城ソウヤ
第2部:英雄たちの休日と、黄金の再会

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第38話 『琥珀色のスープと、魔女が手にした本当の魔法』

「ええい! なぜ焦げるのよ! 私の火力計算は完璧なはずだわ!」


 翌日の『キッチン・ブラン』の厨房には、悲痛な叫び声と、鼻をつく焦げ臭さが充満していた。


 かつての大賢者エリアーナは、豪奢な深紅のローブの袖をまくり上げ、鬼の形相でフライパンと睨み合っている。大きく開いた胸元は激しい呼吸に合わせて上下し、豊満な曲線が波打つたびに、こめかみの巨大な縦ロールが激しく揺れていた。


「エリアーナさん、火が強すぎます。玉ねぎを炒めるのは、敵を焼くのとは違うんです」


 アルフレッドが横から鍋を覗き込み、苦笑する。鍋の中にあるのは、アメ色になるはずが、無惨な消し炭色になってしまった玉ねぎの残骸だった。


「……ほら、新しい玉ねぎを切ったので、もう一度やり直しです」


アルフレッドがそっと鍋を入れ替える。


「だって、弱火でじっくりなんて待っていられないわ! 一気に熱を通せば同じことでしょう!? ……燃焼ブレンネン!」


 彼女が焦れて指先を振るい、高らかに詠唱すると、首筋の青白い亀裂がカッと強く発光した。ボッ! と赤い炎が上がり、投入したばかりの新たな玉ねぎが一瞬で灰になった。


「くくっ。無様だな、老女。貴様の魔法は、相変わらず大雑把で味気ない」


 窓際の席で優雅に足を組んだディアボロはふわりと湯気のたった紅茶を啜り、口の端をわずかに吊り上げた。


「黙らっしゃい、銀髪の! あんた、そこで見てるだけなら出てお行きなさい!」


「断る。ここは我の城だ。それに、貴様の失敗作から出る煙が、我の視界を遮って不快なのだ」


 パチン。


 ディアボロが指を鳴らす。厨房に充満していた黒煙が一瞬にして浄化され、清浄な空気が戻った。


「な……っ! また無詠唱で!?」


 エリアーナが悔しげに唇を噛む。彼女にとって、魔法とは詠唱と手順を踏んで構築する崇高な儀式だ。それを指先一つで、しかもあくび混じりに行うディアボロの存在は、彼女のプライドを粉々に砕くものだった。


「……私は、時代遅れなのね。魔法も、料理も、何一つ満足にできない……」


 エリアーナがガクリと肩を落とし、フライパンを取り落としそうになった時、アルフレッドが彼女の手をそっと支えた。


「魔法を使わないでください。あなたの手を使ってください」


 アルフレッドは、彼女に木べらを持たせた。


「今日の課題は『オニオングラタンスープ』です。魔法で一瞬で加熱するんじゃなくて、この玉ねぎの甘みを、時間をかけて引き出すんです。……俺がついてますから」


 アルフレッドの実直な瞳に見つめられ、エリアーナは赤くなった顔を縦ロールで隠すように背けた。


「……わ、わかったわよ。やればいいんでしょ、やれば!」


 そこからの時間は、彼女にとって永遠のように長く、そして静かな戦いだった。魔法という安易な力に頼らず、ただひたすらに鍋底を混ぜ続ける。ローブの胸元に汗が伝い、首筋の亀裂が淡く明滅する。腕が重くなる。熱気が顔を打つ。


「まだです。もっと、もっと弱火で」


「……これ、いつまで続くの?」


「玉ねぎが、語りかけてくるまでです」


「……はあ? あなた、頭がおかしくなったの?」


 悪態をつきながらも、彼女の手は止まらなかった。やがて、鍋の中の玉ねぎが、黄金色から深い飴色へと変わり、甘く濃厚な香りが立ち昇り始めた頃。

 エリアーナの手ごたえが変わった。重かった木べらが、ふっと軽くなる瞬間。


「……あ」


 魔法を使ったわけではない。なのに、鍋の中がキラキラと輝いて見えた。食材が自ら美味しくなろうとする変化の瞬間を、彼女は初めてその目で捉えたのだ。


「……綺麗」


「今です。スープを入れて」


 アルフレッドの指示でブイヨンを注ぎ、じっくりと煮込む。それを耐熱の器に移し、バゲットとたっぷりのチーズを乗せてオーブンで焼き上げた。完成したオニオングラタンスープは、深い琥珀色に輝き、上に乗せたバゲットとチーズがとろりと溶けていた。


「さあ、まずは自分で食べてみてください」


 エリアーナは震える手でスプーンを運び、熱々のスープを口にした。


「…………っ」


 甘い。砂糖など入れていないのに、驚くほど甘く、そして深い。身体の芯まで染み渡るような、優しい味。それは、破壊の魔法しか知らなかった彼女が、初めて生み出した「癒やし」の味だった。


「……これが、私の作った味……?」


「ええ。あなたが時間をかけて、丁寧に育てた味です」


 目元を拭うエリアーナの前に、音もなく皿が差し出された。


「……我にもよこせ。味見をしてやる」


 ディアボロが、いつの間にか背後に立っていた。


「あら、毒見役をご希望?」


「ふん。貴様の泥遊びが、食える代物になったか確認してやるだけだ」


 ディアボロはエリアーナの手からスプーンを優雅に抜き取ると、琥珀色のスープをひと匙、口へと運んだ。数秒の沈黙。深紅の瞳がわずかに揺れ、やがて彼はふいと顔を背けた。


「……悪くはない。玉ねぎの処理だけは、な」


 素直ではないが、それが彼なりの合格点であることは、喉の奥から漏れた「ぐるる……」という小さな音で分かった。


「ふふっ。……ありがとう、アルフレッド。私、わかった気がするわ」


 エリアーナは、煤で少し汚れた顔を拭いもせず、晴れやかに笑った。その笑顔は、かつての「紅蓮の魔女」の威圧感はなく、長い安息から解き放たれた一人の女性のものだった。


「破壊することだけが力じゃない。……時間を掛ける、これが、私の新しい魔法ね」


 彼女は背筋を伸ばし、アルフレッドに向かって優雅にローブの裾をつまんで一礼した。その動作に合わせて、豊かな胸元が揺れ、縦ロールがふわりと舞う。


「短い間だったけれど、世話になったわね。師匠」


「師匠だなんて。俺はただの手伝いです」


「いいえ。あなたは私に、新しい魔法を教えてくれたわ」


 エリアーナは店を出て行く際、入り口で一度だけ振り返り、ディアボロに向かってウインクを投げた。


「銀髪の! 次に会うときは、あんたの舌を唸らせるフルコースを作ってやるから、覚悟しておきなさい!」


「……ふん。期待せずに待ってやる」


 エリアーナの姿は春風と共に消えた。店には、甘いスープの香りと、少しだけ寂しく、けれど温かい空気が残された。


「……行っちゃいましたね」


「……アルフレッド。今日はあの女ばかりだったな……別に構わぬ。だが、埋め合わせはしてもらうぞ」


「はいはい。なにか甘いものでも作りましょうか?」


 新たな道を見つけた魔女と、それを見送った魔王と勇者。キッチン・ブランの歴史に、また一つ、忘れられない味が刻まれた。

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