第37話 『爆炎の大賢者と、芯まで甘い一時間の魔法』
春の長雨が、王都の石畳をしとしとと濡らしていた。『キッチン・ブラン』の店内は、雨音だけが響く静かな午後を迎えている。客足はまばらで、アルフレッドはカウンターの中で銀食器を丁寧に磨き上げていた。
「……鬱陶しい雨だ。この絶え間ない音を聞いていると、意識が泥のように沈んでいく……」
窓際の特等席で、ディアボロが磁器のように白い手で口元を覆い、込み上げる欠伸を噛み殺した。彼は眠気を覚ますためか、指先から小さな青い炎を出し、自分の周囲の湿気だけをジジジ……と蒸発させて遊んでいた。
「マスター、店の中で火遊びしないでください。焦げ臭いですよ」
「火遊びではない。この湿気の中で、魔力の出力補正が効いているか試しているのだ。……む?」
ディアボロがふと、眠たげな目を擦りながら扉の方へ視線を向けた。カランコロン、とベルが鳴り、一人の客が入ってきた。
その姿を見た瞬間、店内の空気がガラリと変わった。
「あら、随分と静かね。……少し、冷えるわ」
現れたのは、目の覚めるようなプロミネンスオレンジの髪色をし、縦ロールを見事に巻いた妙齢の女性が立っていた。
身に纏っているのは、肩パッドの入った深紅のベルベットローブ。その胸元は、年齢を感じさせないほどに豊満で、張り詰めた生地が彼女のゴージャスな雰囲気をより一層強調していた。
首元にはゴージャスなファーがあしらわれているが、その隙間から覗くエリアーナの首筋の左側から鎖骨へ、青白い細い亀裂が蜘蛛の巣のように広がっている。指には巨大な宝石のついた指輪がジャラジャラと輝いていた。
外見は四十代ほどに見えるが、その身から放たれる魔力は熟成された老魔法使いのものだった。
そんな彼女は濡れた傘を畳むと、ふんと鼻を鳴らした。
「濡れたままでは不快ね。……乾燥」
魔法を使うと、その首筋の線が淡く光る。彼女が指先をパチンと鳴らした瞬間――。
ドォォォン!!
「うわっ!?」
アルフレッドが身構えるより早く、彼女の手元で爆音が響いた。煙が晴れた後、彼女の手には、炭になって骨組みだけになった傘の残骸が握られていた。
「……あら。今の傘、随分と素材が脆かったのね。最近の製品はこれだから困るわ」
女性は悪びれもせず、炭になった傘をゴミ箱へ放り投げると、カツカツとヒールを鳴らしてカウンター席へ座った。
「い、いらっしゃいませ……」
アルフレッドがおしぼりを差し出すと、彼女はそれを受け取らず、自分の指輪をいじりながら深い溜息をついた。
「私よ。わからない? ……そうね、無理もないわ。私の肖像画は、もっと老けて描かれているものね」
彼女はバサリと深紅のローブを翻し、オレンジ色の縦ロールを指で巻きながら言った。
「私はエリアーナ。かつて『紅蓮の魔女』と呼ばれ、大賢者の称号を得た女よ」
「エリアーナ様……! あの大賢者様ですか」
アルフレッドは素直に驚いた。彼女もまた、バルトロメウスの館から解放された英雄の一人だ。だが、エリアーナは自嘲気味に笑った。
「ええ。でも今は、ただの『時代遅れ』よ」
彼女は語り始めた。解放後、王立魔導アカデミーを訪ねたが、そこで自分の知識が「二十年前の非効率な破壊魔法」として扱われたこと。若者たちが使う、洗練された効率的な魔法の前では、自分の魔法は「野蛮で魔力効率が悪いだけ」と笑われたことを。
「私は世界を救うために、より大きく、より強い火力を求めて魔法を極めたわ。……でも、平和になった今、求められているのはお湯を適温で沸かすような、繊細な生活魔法なのよ」
エリアーナが悔しそうに拳を握りしめると、彼女の髪の縦ロールがブルブルと震えた。
「先日、畑で泥だらけになっているグレゴリウスを見たわ。あんな……あんなに楽しそうに土をいじって。英雄としての誇りを捨てたのかと思ったけれど……本当は、羨ましかったのよ。私には、この有り余る破壊の魔力以外、何もないのだから」
しんみりとした空気が流れる。アルフレッドは何か温かいものを出そうとポットに手を伸ばした。だが、エリアーナがそれを制した。
「いいえ、気を使わないで。お茶くらい、自分で淹れるわ。……見てらっしゃい。私だって、火力調整くらいできるのよ」
彼女は意地になったように、テーブルの上の水差しに手をかざした。
「沸騰……!」
カッ!!
首筋の青白い亀裂が、魔力の奔流に合わせてカッと強く光った。
シュゴオオオオオッ!!
一瞬だった。水差しの中の水が、瞬時にしてすべて蒸発し、凄まじい高温の水蒸気が爆発的に噴き上がった。
「きゃっ!?」
「危ない!」
アルフレッドが濡れ布巾で彼女を庇おうとした、その時だった。
パチン。
乾いた指の音が、一度だけ響いた。窓際のディアボロが、無言で指を鳴らしたのだ。そのたった一度の動作だけで、店内に充満しかけていた暴走する熱が一瞬で凍りつき、無害な白い湯気へと変換されて消え失せた。
「……ふん。繊細さのかけらもない。貴様の魔法は、茶を淹れるには野蛮すぎる」
ディアボロが眠そうに、しかし的確に言い放つと、エリアーナは顔を真っ赤にして立ち上がった。
「な、何よ! ちょっと出力が高すぎただけじゃない! あなた、何者なの!? その魔力……ただの店主じゃないわね!?」
「座れ、老女。我は今、猛烈に眠いのだ。騒ぐなら外でやれ」
「ろ、老女……っ!?」
エリアーナの縦ロールが逆立つほどに震える。プライドを粉々にされた彼女の目尻に、涙が浮かんだ。
「……そうよ。どうせ私は、お茶一杯すら満足に淹れられない、破壊しか能のない老婆よ……」
彼女がガックリと肩を落としたその時、コト、と目の前に皿が置かれた。
「魔法じゃなくても、時間をかければ美味しくなるものがありますよ」
アルフレッドが差し出したのは、湯気を立てる『丸ごと焼きリンゴのコンポート・カルヴァドス風味』だった。
じっくりとオーブンで火を通され、皮が弾ける寸前まで柔らかくなったリンゴ。その中心には、バターとシナモン、そして琥珀色のカルヴァドスが溶け込んだソースが溢れている。熱々のリンゴの上には、冷たいバニラアイスがとろりと溶け出していた。
「……これは?」
「焼きリンゴです。強火で一瞬で焼くんじゃなくて、弱火でじっくり、一時間かけて焼きました。……時間はかかりますけど、その分、芯まで甘くなるんです」
アルフレッドは実直な瞳で彼女を見つめた。
「一瞬で焼き尽くす炎もすごいですけど、コトコト煮込んだ味も、悪くないでしょう?」
エリアーナは震える手でスプーンを取り、リンゴを崩した。柔らかい。驚くほど抵抗なくスプーンが入る。熱々の果肉と冷たいアイスを一緒に口に運ぶ。
「…………っ」
甘酸っぱいリンゴの香りと、バターのコク、そしてカルヴァドスの大人の香りが口いっぱいに広がる。何より、時間をかけて火を通したからこそ生まれる、角の取れた優しい温かさが、冷え切った彼女の心を包み込んだ。
「……温かい。……私には、待つという時間がなかった。常に即効性の結果だけを求めて、生き急いでいたから……」
エリアーナの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。彼女は無言でリンゴを食べ続けた。一口食べるごとに、逆立っていた縦ロールが、しっとりと落ち着いていく。
完食した頃には、彼女の顔からは険しい「魔女」の表情が消え、年相応の、しかしとても魅力的な女性の顔になっていた。
彼女はナプキンで口元を拭うと、スッと背筋を伸ばして立ち上がった。そして、持っていた杖を、ダンッ! と床に打ち付けた。
「……決めたわ」
彼女は燃えるようなエメラルドの瞳で、アルフレッドを指差した。
「私が学ぶべきは『破壊』ではなく『生活』よ。……アルフレッド、私をあなたの弟子にしなさい」
「……はい?」
アルフレッドが目を丸くする。
「料理という、時間をかける魔法を教わりたいの。この私が、一から叩き直していただくわ!」
エリアーナは高らかに宣言し、縦ロールをバサリと揺らして「オーッホッホ!」と高笑いした。その目には、かつての大賢者としての、新しい知識への貪欲な光が戻っていた。
「はあ!? 断る! やめろ、我の下僕に近づくのは!」
ディアボロが即座に、椅子を蹴るような勢いで立ち上がった。その眉間には深い皺が刻まれ、あからさまな不快感を隠そうともしない。
「アルフレッドは我の世話で忙しいのだ! 貴様のようなやかましい老女にかまう時間など、一秒たりともないわ!」
「黙りなさい! 決めたわ! 近くに家を借りて通いますわ!! さあアルフレッド、まずは何をすればいいの? この杖でジャガイモを粉砕すればいいのかしら!?」
「いえ、まずはその杖を置いてください……」
雨上がりの『キッチン・ブラン』に、爆炎の魔女の、新たな修行の幕が開こうとしていた。
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