第36話 『グレゴリウスの農業』
王都の風に、少しずつ初夏の湿り気が混じり始めた頃のことだ。いつものように開店準備をしていた『キッチン・ブラン』の扉が、勢いよく開け放たれた。
「アルフレッド! 魔王殿! 見てくれ、これを見るんじゃ!」
入ってきたのは、泥だらけの作業着を着たグレゴリウスだった。彼は抱えていた木箱を、カウンターの上にどすんと置いた。
箱の中には、朝露に濡れた野菜たちがぎっしりと詰まっていた。太陽の赤をそのまま閉じ込めたようなトマト、艶やかな深紫色のナス、鮮やかな緑色のズッキーニ、そして肉厚なパプリカ。どれもが宝石のように輝き、土の香りを力強く放っている。
「……すごい。これ、全部グレゴリウスさんの畑で採れたんですか?」
アルフレッドはトマトを一つ手に取った。ずっしりとした重みと、張り詰めた皮の感触。指先に伝わる生命力が、ただ事ではない。
「ああ! 初収穫じゃ! あの荒れ地が、たった数ヶ月でこれほどの実りをもたらすとは……わしは感動で震えが止まらん!」
グレゴリウスが子供のような笑顔で鼻の下を擦る。
「素晴らしい出来ですね。形もいいし、色も濃い。正直、素人の方が初めて作った野菜とは信じられませんよ」
アルフレッドが素直に感嘆の声を上げると、窓際の席で紅茶を飲んでいたディアボロが、ふんと鼻を鳴らした。
「当然だ。誰の加護があると思っている」
その呟きを聞き逃さなかったアルフレッドは、ピンときた。いくらグレゴリウスが精を出したとはいえ、長年放置された荒れ地が、これほど短期間でここまでの作物を生み出すだろうか。
アルフレッドはディアボロに視線を向け、穏やかに微笑んだ。
「やっぱり。道理で春先の種まきの頃からずっと、夜中にこっそりいなくなる日があると思ってたんですよ」
「なっ……! ば、馬鹿を言うな! 我は夜の巡回をしていただけだ! 下俗な土いじりなどするわけがなかろう!」
ディアボロが過剰に反応して顔を背ける。すると、グレゴリウスが大きな声で笑った。
「はっはっは! 魔王殿、隠さなくてもよいではないか! アルフレッドよ、魔王殿は毎晩来てくれておったぞ。害虫を魔力で追い払い、土に力を注ぎ、『早く育て、我の胃袋が待っているのだ』とトマトに話しかけておったわ!」
「き、貴様! 余計なことを言うな!」
ディアボロの耳がみるみる赤く染まっていく。アルフレッドは、そんな主人の様子を見て、呆れるどころか、嬉しそうに目を細めた。
「ありがとうございます、マスター。おかげで最高に美味しい野菜が手に入りましたよ」
「……ふん。勘違いするな。我はただ、不味い野菜を食わされるのが嫌だっただけだ」
ディアボロが不器用にごまかした、その時だった。
「……臭うな。洗練されたこの店には似つかわしくない、下品な泥の臭いだ」
冷ややかな声と共に、店の扉が開いた。現れたのは、再びこの店に来店した料理批評家、ジャン・ジャックだった。彼はハンカチで鼻を覆い、カウンターに置かれた泥付きの野菜を軽蔑しきった目で見下ろしている。
「なんだ、これは。市場の裏口か? 客が食事をする神聖なカウンターに、土まみれの根菜を積み上げるとは。衛生観念まで泥に沈んだか」
その言葉に、場の空気が一瞬で凍りついた。グレゴリウスが拳を震わせ、悲しげに眉を寄せる。
「……なんと。わしが手塩にかけて育てた野菜を、下品と言うか」
「事実を言ったまでだ。料理とは、皿の上に乗って初めて完成する芸術だ。その過程の『汚れ』を客に見せるなど、三流のすることだ」
ジャンは容赦なく切り捨てた。ディアボロの指先から殺気立った爪が出かけたが、それを制するように、アルフレッドが静かに前に出た。その表情に怒りはなく、ただ料理人としての静かな自信だけがあった。
「ジャンさん。泥は汚れじゃありません。この野菜が、ついさっきまで生きていた証拠です」
アルフレッドは木箱を持ち上げ、厨房へと運んだ。
「少しだけ待っていてください。グレゴリウスさんが育て、うちのマスターが見守ったこの野菜がどれだけの輝きを隠しているか、今すぐお見せしますから」
アルフレッドは手早く野菜を洗い、泥を落とした。水に濡れた野菜たちは、皮の一枚一枚が光を弾き、鮮烈な色彩を放ち始めた。カウンターから身を乗り出してそれを見ていたグレゴリウスが、「おお……」と感嘆の声を漏らす。
「今日は、これだけの鮮度です。余計な手は加えません」
「……そうしてくれ。わしの野菜を、信じてくれ」
アルフレッドがグレゴリウスに向かい、軽く頷いた。作るのは、南方の郷土料理『ラタトゥイユ』だ。厚手の鍋にたっぷりのオリーブオイルと潰したニンニクを入れ、弱火でじっくりと香りを引き出す。そこへ、大きめに乱切りにしたズッキーニ、ナス、パプリカ、玉ねぎを順に放り込んでいく。
ジュワアアア……
水分をたっぷりと含んだ野菜が、熱い油と出会って歓喜の声を上げる。アルフレッドは野菜をあまりかき混ぜず、一つ一つの断面を焼き付けるように火を通していく。最後に完熟トマトを潰し入れ、塩をひとつまみ振り、タイムとローリエを乗せて蓋をした。
「水は入れません。野菜が持っている水分だけで煮込みます」
厨房に、野菜の甘く、濃厚な香りが満ちていく。土の香り、太陽の香り、そして夏の始まりの香り。グレゴリウスが鼻をヒクつかせ、ゴクリと喉を鳴らした。
「お待たせしました。『採れたて夏野菜のラタトゥイユ』です」
アルフレッドは二つの皿を用意し、それぞれに鮮やかな煮込み料理を盛り付けた。一つをジャンの前へ、そしてもう一つをグレゴリウスの前へ差し出した。
「さあ、グレゴリウスさんも。あなたが作った味ですよ」
ジャンは疑わしげにスプーンを手に取った。
「ふん。ただの野菜の煮込みか。……泥臭くないことを祈るよ」
彼は一口、口に運んだ。
その瞬間、ジャンの動きが止まった。
噛み締めたズッキーニからは瑞々しいジュースが溢れ、ナスはトロトロに溶けて旨味を吸い込んでいる。パプリカの弾けるような甘みと、トマトの酸味が口の中で混ざり合い、強烈な「太陽」を感じさせた。
「……なんだ、これは」
ジャンが目を見開く。
「調味料は塩だけのはずだ。なのに、どうしてこれほどまでに……味が濃い? まるで、野菜そのものが旨味の塊になったようだ」
隣では、グレゴリウスが震える手でスプーンを口に運んでいた。一口食べた瞬間、大粒の涙が彼の頬を伝った。
「……うまい。うまいぞ、アルフレッド! 土の味がする。太陽の味がする。……ああ、わしの汗と、魔王殿の祈りが、こんなに優しい味になるなんて!」
グレゴリウスは男泣きしながら、夢中でスプーンを動かした。十五年間止まっていた時間が、熱い野菜の旨味と共に動き出していくように見えた。
ジャンは無言でその様子を見つめ、再びスプーンを動かした。一口、また一口。止まらない。
「……認めるしかないな」
皿を空にしたジャンは、ナプキンで口を拭い、ふぅと息を吐いた。
「泥は不快だ。だが……その泥が育てたこの味に、偽りはない。完敗だ。この店は、土塊さえも黄金に変えるのか」
彼は一瞬だけアルフレッドを見据えた。
「――だが、これは素材の勝利だ。太陽と土の勝利だ。料理人の勝利ではない」
店内の空気が、わずかに張り詰める。
「次に来るときは、貴様の腕だけで唸らせてみせろ」
ジャンは帽子を被り直し、わずかに口元を緩めて店を去っていった。
「やったな! あの批評家を黙らせたぞ!」
グレゴリウスが空になった皿を掲げて快哉を叫び、ディアボロも満足げに腕を組んだ。
「ふん。当然だ。我の魔力が隠し味になっているのだからな」
「ええ。マスターの『春からの夜間巡回』のおかげですね」
アルフレッドが厨房からニッコリと微笑みかけると、ディアボロはばつが悪そうに顔を背けた。
「……アルフレッド。我の分も、あるのだろうな」
「もちろんです。一番いいところを取り分けておきましたよ」
初夏の光が差し込む『キッチン・ブラン』。彩り豊かな野菜の香りに包まれて、今日もまた、賑やかなランチタイムが始まろうとしていた。
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